アンボン島捕虜および労務者の虐待・虐殺-NO2
第2次世界大戦当時すでにハーグ条約やジュネーブ条約などを通して、戦
時捕虜の取り扱いについて様々な国際的定めがあった。
しかしながら日本は「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残
すことなかれ」というような戦陣訓のもと、「日本軍人たる者は、いかなる
状態であれ、敵に捕まることは、最大の恥とされ、捕まる前にどこであろう
と、いつであろうと、だれであっても、力の続く限り敵と戦って死ぬことが
要求されていた。動けない病人には自決が要求された。一度でも意識不明の
ためとか負傷のために捕虜になり、逃げ帰って、捕虜になっていたことがわ
かれば、軍事裁判で銃殺が決定していたほどきびしかった」という状況にあ
ったので、敵の捕虜についても人道的に扱うという姿勢はほとんどなかった
ということである。
したがって、にわかには信じがたい数字の下記の記述も頷ける。
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日本がアンボン島を占領していころ、オランダ軍・オーストラリア軍など
の捕虜が訳1,200人ほどいた。そのうち、占領と同時に上陸作戦で多く
の犠牲者を出した日本軍は、敵の捕虜200人あまり、激戦のあったラハ飛
行場の近くの塹壕の中に殺害して埋めてしまった。残った1,000人のう
ち、約500人が後方占領地に送られ、残り約500人がアンボン島の捕虜
収容所に収容され、1945年に入って築城作業の重労働と食糧不足・病気
などで死亡し、敗戦時はわずか約130人になっていた。・・・
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「アメリカ機搭乗員の殺害」の項では、3人のアメリカ機搭乗員をどのよ
うな経過で、どのように殺害したのか詳しく書かれている。下記は、そのご
く一部の抜粋である。
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・・6月上旬セラム島空襲にきた敵爆撃機編隊の一機が、低空飛行をやり
すぎて、急上昇できず小高い山に衝突し、大破し、3人のアメリカ機搭乗員
がふしぎにも無傷で生き残り、他は全員死んでしまう事件が起こった。
セラム島派遣警備隊に捕らえられて、司令部の指示で特警隊に連行されて
きた。
「3人のアメリカ軍捕虜は重要な情報をとるために、取り調べる必要があ
るので、それがすむまで特警隊の留置所に留置し、逃げないように警戒する
とともに、決して無茶な扱いはしないように注意してくれ」。
司令部の指示だった。・・・
宮崎大尉からの命令だった。
「3人の搭乗員の調査もすんだので、あまり長くそのままにしておくことも
どうかと思う。明日にでも処置してくれ、作業員と警戒兵はガララの捕虜収
容所の警戒隊から出す。時間は収容所と打合わせてやってくれ」。
「わかりました。では、明日処置します」。
現地では「殺害せよ」とはいわなかった。「処置するように」ということ
ばが「殺害せよ」ということで常識化していた。
3人のアメリカ軍人を殺害する命令を受けたわたしは、一回くらい自分で
もやってみようか、という気が起きていた。・・・
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こうして国際法違反の捕虜の殺害が行われたのである。