第二団の「死の行進」
470人捕虜が9班に分けられ、サンダカンからラナウへ向かった第一団の
死の行進に続いて、第二団536人の捕虜が11班に分けられ、5月29日夜
7時にラナウに向け出発した。その死の行進の概要を引き続き「知られざる戦
争犯罪-日本軍はオーストラリア人に何をしたか」田中利幸著-大月書店によ
って確認したい。
1945年5月17日、新たにサンダカン捕虜収容所の所長に任命された高
桑大尉は、5月20日に第37軍司令部よりサンダカン捕虜収容所を閉鎖して
捕虜ならびに監視員全員をラナウに移転すべしとの命令を受け第二団を出発さ
せたのである。ただし、第一団が出発した直後はサンダカンに1300名近い
捕虜が残っていたはずであるが、5月末には830名に減少しており、歩ける
者はオーストラリア人439名、英国人97名の536名であったため、第二
団は536名だったのである。第二団にも取り残された捕虜については、後程
確認したい。
闇夜の行進開始---------------------------
夜の暗闇にもかかわらず行進を開始したのは、おそらく高桑が連合軍の上陸
が間近に迫っているとかんがえ、できるかぎりサンダカンから遠く離れた所ま
でなるべく早く行きたいと考えたからであろう。・・・
捕虜たちが行進を開始するや、ごく一部の建物を残して収容所の日本軍要員
の宿舎やその他の建物にも火がつけられた。
食糧補給------------------------------
夜11時ごろ、収容所から 約7キロ離れた地点に到着したとき、各班につ
き45キログラム入りの米袋が二つずつ配られた。つまり捕虜一人あたり約
1,8キログラムが、最初の食糧補給地点であるムアナッドまでの10日分の
食糧として配給されたわけである。実はこの地点には日本軍の米50トンほど
が集積されていたが、この米は連合軍が上陸してきて戦闘状態になったときの
ことを考えて、警備隊のためにサンダカンの近辺のあちこち密かに備蓄されて
いたものの一部である。行進は夜通し続けられ、翌朝2時間ほどの休憩をとっ
ただけで行進が再会され、午後3時になってやっとその日の行進が終わった。
しかし、ほとんどの捕虜が行進を開始する前から病気で相当衰弱していたた
め、収容所から米を配給された地点までの約7キロの間ですでに落伍者が出て
おり、たとえば戦後まで生き残った捕虜の一人スティップ・ウィッチが捕虜班
長を務めた第2班などは早くも6人を失っている。
落伍した捕虜は処分せよ-----------------------
病弱のためどうしても足が遅くなる捕虜を、監視員がこん棒や銃床でなぐり
つけながら追いたてるようにして行進しなければならなかったため、最初から
行進の先頭と最後尾の間隔が大幅に空いてしまい、5月30日午後3時に休息
についた第一、第二グループに第三グループが追いついたのはその日の夜であ
った。(第一グループは第1班から4班、第二グループは第5班から8班、第
三グループは第9班から11班)
その間、監視員になぐりつけられますます体力を失った捕虜たちは、道路か
らジャングルの中に追いたてられ銃殺されるかなぐり殺された。逃亡する者は
もちろんのこと、落伍した捕虜も処分せよという高桑の命令が今回は初めから
日本軍兵員や監視員に出されていたのである。たとえば、5月30日の夕方、
第三グループの監視にあたっていた日本兵の一人、片山伍長は、二人の監視員
とともに、ほとんど動けなくなった捕虜7人を足で蹴ったりなぐりつけながら
ジャングルの中に追いたてて、全員を銃殺している。
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