アンボン島における日本軍-NO3
アンボン島における日本軍の問題で忘れてはならないのは、虐待・虐殺の
事実とともに慰安所設置の問題である。「慰安婦はいたけれど、従軍慰安婦
はいなかった」というようなことが、最近いろいろな場面で(著作物を含め)
主張されるようになってきているが、下記を読めば、アンボン島でも軍が深
く関わり、軍が主導していることは明らかであると思う。
----------------------------------
それまでも、毎月一回司令部の庭で政務会議が開かれていた。政務会議と
いうのは、島の防衛を中心とした警備隊の任務本来の会議とちがって、島の
民政に関する会議だった。この島の警備に民政関係の方針をどうするかとか、
民政関係からみて警備隊はこの点とくに注意してもらいたいとか、本質的に
対立する戦争目的の警備隊と民政部の矛盾をできるだけ解決していこうとす
る会議だった。
出席者は各警備隊の司令・副長、民生部は当時政務隊となって成良司令官
が政務隊長として出席し、民政警察の木村司令官も顔をだしていた。セラム
新聞社から青木さん、インドネシア語新聞は木村元記者、宗教関係からはキ
リスト教牧師の花房氏か若い加藤牧師だった。特警隊からは、わたし、司令
部からは、参謀長、先任参謀・副官であった。陸軍側からはアンボン地区の
憲兵分隊長、陸軍少佐沼田氏も出席していた。・・・
その日の政務会議は少し変わっていた。議題はどうやって至急に元のよう
な慰安所をつくるために慰安婦を多く集めるかということだった。そのため
に、慰安婦を集めることと治安上起きるかも知れない民衆の反感について討
議されることとなった。・・・
このアンボン島の周辺の小島から、多くの慰安婦を集めようとすれば、慰
安婦志望者だけでは少ないだろうし、多少強制でもすれば住民の反日感情を
高めて治安上おもしろくないことが起きはしないだろうかという心配の点が
中心になるだろうと思われた。
そして、慰安婦を集める作業はどこがやるのか、各隊はそれにどのように
、どの程度まで協力するかが討議されなければならなかった。問題は現地人
を、どううまくごまかすかが会議の本当の議題でしかなかった。それは一つ
の謀議でもあった。
副官の大島主計大尉は、なにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一
面に現して、
「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めるこ
と、そのためには、宣撫用の物資も用意する。いまのところ集める場所は、
海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まってく
る女には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活させる。
その間に、来てよかったという空気をつくらせてうわさになるようにして
いきたい。そして、ひとりひとりのの女性から、慰安婦として働いてもよ
いという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしていま
す。」
民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として
収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいこ
とがあったことを知った。
「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、
リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いま
でも忘れられないが、娘たちが住んでいたの住民が、ぞくぞく港に集
まってきて、娘を返せ!!娘を返せ!!と叫んだ声が耳に残っていますよ。
こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピスト
ルに手をかけましたよ。思い出してもゾーッとしますよ。敗れた日本で、
占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ。」
わたしは、そこまで強制されたとは知らなかった。特警隊からも売春容
疑者を捕らえて、収容所に送って協力していた。それは犯罪容疑者として
捕らえていた。
---------------------------------