「石をもって追われた」日本軍の撤退
「一下級将校の見た帝国陸軍」山本七平(文春文庫)の中に重要な指摘があるかつて、多くの人たちが口にした「ピリ公なんざぁアジア人じゃネェ」(ピリ公フィリピン人への蔑称)という言葉やこれに類した言葉、また逆に「アメリカはアジアの心を知らなかった」という言葉の中の「アジアの心」とは何なのか。「全アジアを経めぐった上で形成された概念なのか?」というような問いである。
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30年前、何百万という人が、入れかわり立ちかわり、東アジアの各地へ行った。私もその一人だった。そして、現地で会った人びとが、自分がもっているアジア人という概念に適合しなかったとき「こりゃ、われわれの”見ずして思い込んでいるアジア人という概念”が誤っているのではないか、否、この広大なユーラシア大陸の大部分を占める地に”アジアといった共通の像”があると一方的にきめてしまうのは誤りで、単なる一人よがりの思いこみではなかったのか?」 と反省することができたなら、日本のおかした過ちはもっと軽いものであったろう、と私は思う。
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そして、私が忘れてはならないと思うのが、下記のような歴史的事実である。
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米海兵隊によるベトナムからの米軍引揚げ作戦の報道は私を憂鬱にした。何万という難民がそのあとについて脱出していくが、石を投げる者はいない。その記事の一つ一つは、しまいには、読むのが苦痛になった。形は変わるが30年前われわれも比島から撤退した。だれか、われわれのあとについて来たであろうか。もちろん事情は違う。私が言うのは本当について来てほしいということではない。だれかが、「日本軍のあとについて脱出したい、しかしそれは現実にはできない」と内心で思ってくれたであろうか、ということである。
もちろん何事にも例外はある。しかしわれわれは、アメリカ軍と違って、字義通りに「石をもって追われた」のであった。人間は失意のときに、国家・民族はその敗退のときに、虚飾なき姿を露呈してしまうのなら、自己の体験と彼らの敗退ぶりとの対比は、まるでわれわれの弱点が遠慮なく、えぐり出されるようで苦しかった。そして、その苦痛をだれも感じていないらしいのが不思議であった。というのはそれは30年前の、マニラ埠頭の罵声と石の雨を、昨日のことのように思い出させたからである。
私も同じ体験を記したことがあるが、ここではまずその時点の正確な記述である故小松真一氏の『虜人日記』から、引用させていただこう。
「・・・『バカ野郎』『ドロボー』『コラー』『コノヤロウ』『人殺し』『イカホ・パッチョン(お前なんぞ死んじまえ)』憎悪に満ちた表情で罵り、首を切るまねをしり、石を投げ、木切れがとんでくる。パチンコさえ打ってくる。隣の人の頭に石が当たり、血がでた・・・」
これは21年4月、戦後8ヶ月目の記録であり、従って投石・罵声にもやや落ち着きがあるが、これが20年9月ごろだと、異様な憎悪の熱気のようなものが群衆の中に充満しており、その中をひかれて行くと、今にも左右から全員が殺到して来て、八つ裂きのリンチにあうのではないかと思われるほどであった。だが、サイゴンの市民は、「アジアの心をしらない」米軍に、1個でも、石をなげたであろうか。
護送の米兵の威嚇射撃のおかげで、われわれはリンチを免れた。考えてみればわれわれは「護送」において常にここまではしていない。内地でも重傷を負ったB29搭乗員捕虜を、軍が住民のリンチに委ねた例がある。だが、私とてもし、「親のカタキだ、1回でよいから撲らせてくれ」などと言われたら、威嚇射撃でこれに答えることは、できそうにない。だがこの1回が恐るべき状態への導火線になりうる。そしてこれが、後述する日本的中途半端なのである。
私は幸運だったのだろう。だがすべての日本兵がそのように幸運だったわけではない。戦争末期、特にレイテ戦の後で、小舟でレイテを脱出して付近の島に流れ着いた、戦闘能力なき日本軍小部隊への集団リンチの記録は、すさまじい。
これらについては、もちろん日本側には一切資料はなく、戦争直後に、比島の新聞・週刊誌等に挿絵入りで連載された「日本軍殲滅記」から推定する以外にない。
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日本は8月15日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたが、ミンダナオでは、9月3日原田師団長が師団将兵に降伏命令を出した。そして、半信半疑ながら、米軍機より撒かれた投降命令にしたがって投降した広瀬繁治氏は「嗚呼・ミンダナオ戦-生死をわかつ我が青春」の中で、収容所に送られる時の様子を、次のように書いている。
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我々は元陸軍の飛行場に造られた、ダリアオン収容所にむかったのである。道路の両側には、沢山のフィリピン人が立ち並んでいる。その列のなかからは、我々に向かって、手で首をちょん切るまねをしたり、片言の日本語で、バカヤロー、ドロボウ、という罵声が飛ぶ。その声に刺激されてか、石を投げる者もいる。当たれば傷をする。
しかし、こうされるのも、当然かも知れない。自分たちの愛する土地を戦場にされ、農作物は荒らされ、家は焼かれ、肉親、知人に沢山の犠牲者を出しているのだ。
日本軍が抵抗できない、と知れば、仕返しに石でも投げたくなるだろう。だが、我々ペイペイの兵隊も、来たくて来たわけではない。
ただし、投石は護送する米兵にとっても危険である。投石があると空に向けて威嚇射撃をする。
幸い我々は無事、収容所へ到着した。