サンダカン捕虜収容所-NO3
簡単に比較することはできないが、サンダカンの捕虜や日本兵がバターン死の
行進に優るとも劣らない悲惨な「死の行進」によって亡くなっている。ボルネオ島のサンダカンからラナウの約260キロの行進であったが、鬱蒼としたジャングルや湿地帯でおおわれており、また雨期でであったため、時には20cmのぬかるみの中を2日間も行進しなければならなかったという。したがって、ほとんどの捕虜が素足での行進を余儀なくされ、熱帯性潰瘍に冒されていた捕虜は潰瘍をさらに悪化させたわけである。また、ジャングルの中にはコブラやトカゲがおり、沼地にはワニもいたというのであるが、特に茶色の大きなヒルが生息しており悩まされたということである。
「知られざる戦争犯罪-日本軍はオーストラリア人に何をしたか」田中利幸著
-大月書店によると死の行進の概要は下記のようなことである。
戦況悪化------ -----------------------
連合軍によるサンダカンへの引き続く空襲のために、飛行場が使いものにならなくなり、1945年1月10日、日本軍は修復工事をあきらめ、捕虜の強制労働も停止させた。そして、連合軍の上陸が予想される西海岸の防備を強化することを決定し、兵力の移動とともに、体力の残っている捕虜500名を軍の物資輸送に利用しながら移動させることにしたのである。
捕虜500名を山本部隊に引き渡すよう命令された捕虜収容所の星島所長はなぜか470名しか引き渡していないという。
山本は470名の捕虜を9班に分け、各班を50名前後の捕虜で構成し、各班の護送責任者として士官を一人、下士官を一人ないし二人ずつ割り当て、さらに各班に40人前後の兵卒を護衛としてつけた。
「捕虜処分」の許可-------------------------
「落伍者を出すな」という命令とともに、サンダカンからラナウまで捕虜を移動させる命令を受けた山本大尉は、任務遂行はきわめて困難と考え、行程期間の延長や医薬品の増加、休憩地点を増やすことなどいくつかの要望を司令部に出した。しかし、受け入れてもらえず、「落伍者を出すな」という司令部からの命令を「落伍者は処分してよい」というかたちで、最後尾の班の責任者に命令せざるを得なかったようである。
ラナウへの移動 第一団-----------------------
1945年1月29日早朝6時、総責任者である山本大尉、それに第1班のオーストラリア軍捕虜55人が40人の日本兵に付き添われてサンダカンを出発した。その後毎日各班が前の班を追うかたちで出発し、最後の9班がサンダカンをでたのは2月6日であった。前述したように、出発時に米や乾し魚、少量の塩ビスケットなど4日分の食料を与えられ、途中のムアナッド、ボト、パパン、ムリル、パギナタンの5カ所の各食糧補給地点で、次の数日分の米や野菜の供給を受けることになっていた。ところが・・・、
結局第1班は2月12日午後4時にラナウに到着したが、55人の捕虜のうち15人が死亡。
第2、は17日の行進でラナウに到着した捕虜は30人であった。(出発当初50人)さらに10名の日本兵が病死している。
最後尾の9班の捕虜50人(全員英国兵)は2月6日にサンダカンを出発、最後の食糧補給地点であるパギタナンに21日に到着している。この間18人の捕虜と7人の日本兵が死亡している。
第6班から第9班、パギタナンで行進中止----------------
かくして、食糧準備不足のために、すでに述べたように後列の班になるほど状況が悪化し、捕虜たちはカタツムリやカエル、しだの葉っぱなどとにかく食べられるものは何でも口に入れて飢えをしのぎながら行進しなければならあなかった。しかしあまりにも衰弱が激しかったため、捕虜と日本兵両方の体力回復をはかるために、第6班から第9班までの4つの班の行進を最後の食糧供給地点であるパギタナンでいったん中止させている。この4つの班はパギタナンに2月17日から21日の間に到着したが、合計200人近くいた捕虜のうち40名ほどが途中で「落伍」していた。さらに、ここまでたどりついた160名も極端に衰弱しほとんどの捕虜が熱帯病に冒されていたため、毎日何人も死んでいった。結局彼らは ラナウから運ばれてくる米の補給にたよりながら1ヶ月ほど留まったが、この間に100名ほどが死亡した。
捕虜による物資運搬中止-----------------------
一方、第1班から第5班はラナウに2月12日から19日にかけて到着したが、もともと270名ほどいた捕虜のうちラナウに到着したのは200名弱であった。しかし彼らの多くもまた苛酷な行進のため体力を消耗しきっており、そのほとんどが脚気やマラリアに冒されていた。これ以上の行進はまったく不可能であった。第37軍司令部は、捕虜の中にあまりにも多くの死亡者が出たため捕虜を軍の物資運搬にこれ以上利用することをあきらめたのか、命令を変更して捕虜をそのまま留めることを決定した。
ラナウに残された200名たらずの捕虜は2週間ほどの休息を与えられたが、食糧配給事情は相変わらず悪く、医薬品の供給もまったくなかったため、この間に数多くが死んでいった。
第二陣の行進でサンダカンから連れてこられた捕虜たちがラナウに到着したとき、生き残っていた捕虜はたった6人だけであった。
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