虐待ではなく、日本軍なみ
泰緬鉄道建設工事に従事させられていた元捕虜の証言の中に、「日本軍
は捕虜に対して極めて残虐・残忍であると思っていたが、敗戦で引き上げ
てくる多くの骸骨のようにやせ細り何の手当もされていない傷だらけの日
本軍兵士を見て、自国の兵士をさえこのような状況に追い込む日本軍にと
っては、特に捕虜を虐待をしたということではなかったのかも知れない」
というよう内容の証言があったことを覚えている。
「一下級将校の見た帝国陸軍」(山本七平:文春文庫)の中に、「バター
ン死の行進」について、次のような一節があり思い出したのである。
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だが、収容所で、「バターン」「バターン」と米兵から言われたときの
われわれの心境は、複雑であった。というのは本間中将としては、別に、
捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけでもなく、日本軍なみ、
というよりむしろ日本的基準では温情をもって待遇したからである。日本
軍の行軍は、こんな生やさしいものではなく、「六キロ行軍」(小休止を
含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れ
るのはあたりまえであった。そして、これは単に行軍だけではなく他の面
でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った。
「卒業までに、お前らの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入
っトル」と。───こういう背景から出てくる本間中将処刑の受け取り方
は、次のような言葉になった。「あれが”死の行進”ならオレたちの行軍
はなんだったのだ」「きっと”地獄の行進”だろ」「あれが”米兵への罪”
で死刑になるんなら、日本軍の司令官は”日本兵への罪”で全部死刑だな」。
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