まずツイッターから
戦後レジームからの脱却としての終戦記念日。不戦の誓いから積極的平和主義へ。
戦後レジームからの脱却は世界史レベルからすれば、敗戦国だが戦前の日本を世界は認めよというものでしょう。それは戦後の世界秩序の否定への挑戦でしょう。しかし、日本は敗戦国だから戦前の日本を否定されているのではないでしょう。
今日は敗戦の日ではなくて終戦の日なのです。
「終戦という言葉は9条なくして語れないものでしょう。 厳密には8月15日は敗戦の日です。しかしこの日から終戦に向かうこととなり11月3日が終戦の日ということになるでしょう。世界的に見ても類のない戦争を終わらせる日としての終戦記念日です。」(旧ブログから)
戦後レジームからの脱却とは、終戦記念日ではなくて敗戦の日という色合いが強い。
この敗戦意識だけが残り、終戦としての平和主義を薄める中に日本の誇りが語られはじめる。戦後平和主義によって自国民も殺されずに他国民も殺さずに済んだ日本人の戦後の誇りをも薄めていく。
日本人は戦争に負けたから誇りを失ったのか?
しかし国として本当に誇りを持てる状態だったのだろうか?兵士も国民も飲まず食わずの状態で国民はB29に対しては竹槍とバケツリレー訓練で。原爆そして東京大空襲や沖縄戦などでの市民の犠牲者。戦士の状態は「戦没者230万人:兵士を「駒」扱い 愚劣な軍事指導者たち」という記事があった。
自国の兵士や国民を多く犠牲にしたと同時に中国や朝鮮半島の国民への謝罪は今も続いている。
続き
侵略だろうが「多大な迷惑をおかけした。。。」などと言葉は違うが軍事力を背景にしたアジア政策による加害国として戦前の日本を否定してきた。
こう見ると戦前の日本の誇りは揺らぎざるを得ない。
日本の誇りは敗戦を機にした終戦後の日本にある。
しかしこの戦後の日本を自虐的とした中に戦後れレジームからの脱却が位置付けられてきている。少なくともネットなどにみられる発言にこの傾向があり、一つに日本人が見えていることに間違いはないでしょう。
戦後レジームからの脱却としての終戦記念日。不戦の誓いから積極的平和主義へ。
戦後レジームからの脱却は世界史レベルからすれば、敗戦国だが戦前の日本を世界は認めよというものでしょう。それは戦後の世界秩序の否定への挑戦でしょう。しかし、日本は敗戦国だから戦前の日本を否定されているのではないでしょう。
今日は敗戦の日ではなくて終戦の日なのです。
「終戦という言葉は9条なくして語れないものでしょう。 厳密には8月15日は敗戦の日です。しかしこの日から終戦に向かうこととなり11月3日が終戦の日ということになるでしょう。世界的に見ても類のない戦争を終わらせる日としての終戦記念日です。」(旧ブログから)
戦後レジームからの脱却とは、終戦記念日ではなくて敗戦の日という色合いが強い。
この敗戦意識だけが残り、終戦としての平和主義を薄める中に日本の誇りが語られはじめる。戦後平和主義によって自国民も殺されずに他国民も殺さずに済んだ日本人の戦後の誇りをも薄めていく。
日本人は戦争に負けたから誇りを失ったのか?
しかし国として本当に誇りを持てる状態だったのだろうか?兵士も国民も飲まず食わずの状態で国民はB29に対しては竹槍とバケツリレー訓練で。原爆そして東京大空襲や沖縄戦などでの市民の犠牲者。戦士の状態は「戦没者230万人:兵士を「駒」扱い 愚劣な軍事指導者たち」という記事があった。
自国の兵士や国民を多く犠牲にしたと同時に中国や朝鮮半島の国民への謝罪は今も続いている。
続き
侵略だろうが「多大な迷惑をおかけした。。。」などと言葉は違うが軍事力を背景にしたアジア政策による加害国として戦前の日本を否定してきた。
こう見ると戦前の日本の誇りは揺らぎざるを得ない。
日本の誇りは敗戦を機にした終戦後の日本にある。
しかしこの戦後の日本を自虐的とした中に戦後れレジームからの脱却が位置付けられてきている。少なくともネットなどにみられる発言にこの傾向があり、一つに日本人が見えていることに間違いはないでしょう。