夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

2018年 2月24日(土)「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは何か。」

2018年02月24日 21時36分54秒 | * 俳句 *
昨日書いた遺産としての俳句の続きです。
上野「遺産としての俳句」に次のように書きました。
「この過去の時間の流れは俳句界にとってはもちろん日本文化にとっても「遺産」です。
しかし俳句の歴史において発展をした過程が遺産だからと言ってそれが「俳句は遺産だ」とはならにでしょう。
俳句自体は遺産ではなくて生きていて未来に向かって発展をするものですから。
俳句自体を遺産としてしまうと伝統的な過去の俳句の歴史がそして過去の俳句自体が俳句であると定義をされてしまう危険性があります。それは俳句を壊してしまう結果となります。」

俳句自体が遺産ではなく、俳句が進化しながら今に至った歴史自体が遺産であるという事です。ですから俳句の歴史自体の遺産をどう引き継ぎ発展させるかが伝統を引き継ぐという事になります。俳句をユネスコ無形文化遺産に残すならば、俳句自体を遺産とすることなく俳句の発展自体そして何を作り上げたかを遺産とすべきなんです。
では、この意味でこの遺産から現代の俳句界は何を伝統として学び、どう発展させるかがその責任となります。
これについて考える一つのための論文があります。先の「遺産としての俳句」でも紹介させていただいた福田若之さんが有馬朗人氏に反対する 俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐってを書いています。この論文は、有馬朗人さんのインタビュー記事そこが聞きたい:世界のHIKUへの批判です。
有馬さんはインタビューにおいて
「豊かな自然あってこその俳句です。学校で子供たちが俳句を学ぶ目的の一つが自然の大切さを知ること。さらには自然を保護する心を養うこと」(引用)
と語り、また俳句のユネスコ無形文化遺産登録に向けてで俳句で世界平和をとか俳句の平和性を書いていますが、これは俳句の歴史からの普遍的な遺産でも伝統でもないでしょう。
自然破壊からの季語の乱れはあるでしょうが、季語の問題からすれば居住する地域の差などからその差をどうするのかを考えてきた過去概算が遺産なわけで、自然の脅威を詠むのもまた俳句でしょう。平和をつくるというよりも戦争時にも俳句が読まれ、時には戦争養護のような句もあったかもしれませんし、戦時中にも日常と自然を詠んだものもあったはずです。

 「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは。につづく
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池に浮かぶ月55【2月24日】

2018年02月24日 18時39分20秒 | 「池に浮かぶ月」
去年は夏目漱石の小説『こころ』の中で、なぜKや「先生」が自殺したのかについて書いていたようです。
特に『先生』の自殺がなぜかという問いは、高校時代の国語の先生からの宿題でした。
教科書だけでは物足りなくて後に『こころ』の文庫本を買って読み始めてぐっと引き込まれたことを思い出します。それまでは「坊っちゃん」ぐらいは読んでいたのですが、『こころ』はまったく違う世界でしたのでびっくりもしました。後に「坊っちゃん」も『こころ』も漱石にとっては同じ命題だったのだろうと思いましたが。
よく死ぬ前に何を食べたいかというものを聞きますが、死ぬ前に何を読みたいか。。。。。漱石全集ですなぁ。

「池の上に月が昇る
その池に写る月は現実の月ではない
しかし現実の月を写したものであることでその池に浮かぶ月も現実である
人間の過去もすでに現実としては存在しない
しかし過去の時間の中で現実であった」

「2月24日という日」

【2017年】ツイッターつぶやき駅で妻と待ち合わせをしていたら、旅行などのパンフレットのケースに「Kはなぜ死んだのか」という文字が書かれたパンフレット(講演会)があった。夏目漱石......

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