「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。俳句の伝統とは。」の続きです。
「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。俳句の伝統とは何か。」では、俳句による自然の保護や平和性については俳句の普遍的な遺産ではないと書いた。人は自然に働きかけながらその恵みを得ていた。そしてその自然の厳しさや恵みと人の生活の営みとの関係をうたったものが俳句の一つの遺産でしょう。未来に向かっても同じであります。自然保護のために俳句は作られてきたのではないという事です。自然を破壊していけば自然からの驚異は増大をしてめぐみは少なくなります。その過程から俳句はまた生まれるでしょう。平和についても現在「積極的平和主義」が言われ、アメリカの軍事政策も世界平和が言われています。この中におて積極的平和主義自体が戦争による平和の維持という面を色濃くしてきました。俳句もこの積極的平和主義の平和感から詠まれるようになるでしょう。一方で戦後の平和主義からの俳句も詠まれるでしょう。ここでは俳句の平和性は抽象的であり俳句の遺産としては普遍性を持たなくなります。平和のための戦争を煽る俳句も、平和主義を直接問う俳句も交通安全運動や防火運動の標語的5・7・5のような月並み俳句以上の物ではなくて俳句の遺産という発展の中では「下手な俳句」等の位置づけになるでしょう。一方ではその中での自然とともにある生活の営みの本来の俳句から自然を愛することや平和を愛することの心が現れてくるでしょう。これが未来に向かっての俳句の発展性であり、未来への遺産となるでしょう。
さて、それでは過去の俳句の歴史からの遺産とは何か、伝統とは何かが問題となります。
まず、「5・7・5定型有季」と「大衆性」「娯楽性」を見てみましょう。
交通安全運動の標語に見る17文字のリズムは日本人の表現方法として血肉のようになっています。もちろんこの17文字のリズムは俳句からきており俳句が無意識的にも遺産として残されているという事です。しかし交通安全運動の標語と俳句とは違います。正岡子規によって俳句の詩的な重要性が遺産として残されました。ですから俳句は詩でなければなりません。
日本人の血肉ともなっている5・7・5のリズムと17文字内に詩的な気持ちを込めるという定型こそが俳句と言えるでしょう。ですから俳句の歴史における遺産の一つは定型という事になります。そこには変調やどうしても必要な字余りは許容範囲内となるでしょう。もちろん5・7・5が基本形とはなるでしょう。表現の強さや心の現れの表現として必要な場合に変調は許されるでしょう。
俳句の定型としての詩形は、自然と向き合う生活の営みにあります。
自然と向き合う事では日本では四季があり、その四季に人は向き合い生きていくために不可欠な農業などと結びついてそれが生活の営みとなります。現代は農業から離れた自然との向き合いが多くなりましたが、ファッションなどの文化を通じても自然に向き合い心は変わりないでしょう。ですから有季は俳句には切り離せないものですからそれは俳句の歴史における遺産です。
以上に「定型」と「有季」については
「俳句の窮屈さ」と
「季語の窮屈さ」で思うところを書いていますが、この二つの窮屈さこそが俳句の死としての特徴でもあるのでしょう。窮屈さから解放されたいという中に定型破りや無季も生まれますが、川柳を見てみれば、無季であり俳句の持つ滑稽さや自虐性等に特化していけば俳句とは違う世界観の一つの文学となります。俳句の窮屈さから離れた川柳のような文学を作り上げることも俳句の発展であり、同時に俳句からの飛躍となるでしょう。しかしそれを俳句だと言い張るのは無理があります。
俳句が持つ「大衆性」ですが、これをどのようにとらえるべきか。
「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは何か。(3) 」につづく