「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。俳句の伝統とは何か。(2)」の続きです。
俳句が持つ「大衆性」ですが、これをどのようにとらえるべきか。
有馬朗人さんは「ユネスコ無形文化遺産登録に向けて」でこの俳句の大衆性につて次のように書いています。
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです。 当協会の俳句コンテストへの海外からの応募は49か国に及びます。」
また、「俳句の普遍性」としても次のように書いています。
「一方俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。」
「短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです」そして俳句が短いという事で「俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます」とありますが、これは世界遺産登録に向けてのリップサービスではないでしょうか。また、誰でもが作ることができたり詩的になったりできるのは何も俳句ばかりではないでしょう。詩や小説やエッセイや。。。。文学だけではなくて絵や写真や様々な分野において多くの人々が参加をしています。特にインターネットの時代ですから、本や雑誌に投稿して載せてもらうような壁はなくなりブログやツイッターやもちろんホームページでも簡単に参加できるようになっています。それに対して俳句は季語があり17文字という短い詩であるからこそとっつきにくさもあるのではないでしょうか。「詩人」は自由詩が多いでしょう。ですから俳句にも自由を求めていく傾向が強いと思います。「簡潔」や「短い」という事から俳句を世界遺産にという論点はやはりリップサービスであり、下手をすればポピュリズムになってしまいます。
たしかに正岡子規も多くの初心者を歓迎しており、心に浮かんだ句を即興的にもたくさん作れと何かに書いていたと思います。ですから俳句は難しいものと見て大衆の句を排除するものではないでしょう。多くの初心者を歓迎しながらも中休中級そして俳人へと昇っていくことを言っているのではないでしょうか。この正岡子規の考え方と、簡潔だから短いのだからとすることは少し違いがあるでしょう。
次は俳句の持つ自由さについて書いてみたいと思います。
「俳句と自由」につづく
俳句が持つ「大衆性」ですが、これをどのようにとらえるべきか。
有馬朗人さんは「ユネスコ無形文化遺産登録に向けて」でこの俳句の大衆性につて次のように書いています。
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです。 当協会の俳句コンテストへの海外からの応募は49か国に及びます。」
また、「俳句の普遍性」としても次のように書いています。
「一方俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。」
「短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです」そして俳句が短いという事で「俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます」とありますが、これは世界遺産登録に向けてのリップサービスではないでしょうか。また、誰でもが作ることができたり詩的になったりできるのは何も俳句ばかりではないでしょう。詩や小説やエッセイや。。。。文学だけではなくて絵や写真や様々な分野において多くの人々が参加をしています。特にインターネットの時代ですから、本や雑誌に投稿して載せてもらうような壁はなくなりブログやツイッターやもちろんホームページでも簡単に参加できるようになっています。それに対して俳句は季語があり17文字という短い詩であるからこそとっつきにくさもあるのではないでしょうか。「詩人」は自由詩が多いでしょう。ですから俳句にも自由を求めていく傾向が強いと思います。「簡潔」や「短い」という事から俳句を世界遺産にという論点はやはりリップサービスであり、下手をすればポピュリズムになってしまいます。
たしかに正岡子規も多くの初心者を歓迎しており、心に浮かんだ句を即興的にもたくさん作れと何かに書いていたと思います。ですから俳句は難しいものと見て大衆の句を排除するものではないでしょう。多くの初心者を歓迎しながらも
次は俳句の持つ自由さについて書いてみたいと思います。
「俳句と自由」につづく