【2024年】ツイッターつぶやき
我が家は豚キムチ炒めが好きなので、今夜も作ろうと思い材料を買ってきました。
しかし時々であってもいつもの味だと開きますね。
以前からキムチ納豆が好きで食べていましたが、キムチと納豆は相性がいいですね。
キムチが残ったらキムチ納豆にしようと考えながら作っていたら、豚キムチにも納豆が合うのではと思いました。
しかし納豆を熱い炒め物に入れるのは冒険ですなぁ。
家族に今日は納豆キムチ炒めだぞと事前に知らせて作りました。
さて大きなブーイングが出るか心配でしたが。。。
普通に豚肉と玉ねぎを炒め、火が通ったらキムチと納豆を投入。さらに炒めます。
少し粘り気が出たので火を止めた。
皿に盛り付けて、さて、夕食。。。。。。
いやぁ。。。。
これがうまかった。家族も納豆を入れたほうがおいしいと。
大成功でした。
≪過去の記事≫
【2004年】
コーヒーショップの中には10人ほど腰掛けられる丸い大きなテーブルがあります。そのひとつのいすに座りコーヒーを飲んでいたら、おばちゃんたち4人のグループが入ってきて、店内が混んでいたので僕を挟んで座ってきた。僕も一応気を使って席をずらしましょうかと聞いたのですが、「いや、すぐに出ますからいいですよ」と。
しかし・・・・
僕を挟んで叔母ちゃんたちはしゃべりはじめた。ハハハ・・・・うるさかった。。。。
『泣かない子供』
角川文庫
江國 香織 著
江國さんのエッセイ集です。
5つの章からなり、恋・家族・少女期・読書日記など、幅広いエッセイをまとめたものです。
江國さんの作品を読むと(とはいってもまだ数冊しか読んでいないのですが)、優しくサラサラと流れるような文章で、小説の終わり方も何か余韻というのかこれから先はどうなるんだろと思ってしまうようなものを感じますが、エッセイを読むと、小説と同じように優しく流れる時間を感じるとともに江國さんのはきっとした芯の強さを感じます。
江國さん、江戸っ子だったのですね。。。。。
小説のどこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションかという質問に、こんな質問をされるたびに「こいつ、頭悪いな」と思うという箇所がありますが、核心から外れたものにびしっと書いているところなどは手厳しいです。僕がエッセイを読もうと思ったのも、小説の中にどこまで江國さん自身が描かれているのかという疑問もありましたので、ガツンと頭をたたかれたような思いです。
どこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションか。「小説というのはまるごとフィクションである、と私は信じているし、それでいてどんな嘘八百をならべても、書くという行為自体、作家の内部通過の時点で内的ノンフィクションになることはまぬがれない」本を読むというのは、このような作家の内面と読んだものの内面の会話ですね。このエッセイ集には江國さんの書く姿勢や、読書日記からどのような小説を評価するかがちろばめられています。
小説中に出てくる場面、それがどれだけ作家の実体験かというような詮索はともかく、このようなエッセイで作家が生い立ち・家族・読書傾向などさまざまな自分自身を描くとすれば、読者がそれを読み、小説を解釈していくうえでエッセイの影響を受けることもまぬがれない。内面を描いているとはいえ、その内面は、それまでの作家の実際的な経験から出来上がっているのだから。作家が内面を表現しようとし、読者はその内面を読み取り自己の内面と作家の内面は会話されるが、それは作家という人間を見ることになる。読者がその作家を好きであれば好きなほど人間を知りたくなるのも仕方ないだろう。
「スイカの匂い」に出てくる少し厳しいような父親、やはりその父親を描く中に江國さんは父親のある一面を思うことになるだろうと、エッセイ集を読むとそこに描かれている実際の少し厳しいところのある父親をダブらせてしまう。
これは、作品を読み続けていくうえでイメージを作り上げてしまう意味でマイナス面もあるが、作家や作品をより深く理解するうえでは欠かせないものになる。
難しいです。
このエッセイ集に書かれている江國さんのご家族、素敵ですね。。。。
【2005年】
(記事なし)
【2006年】
昨日は寒かったです。
その分今日は暖かく感じました。晴れると寒いし天気が崩れると暖かくなる。どちらを選べばいいのか。。。究極の選択を季節の変わり目という気候に突きつけられているような気がします。
日が長くなってきたのもうれしいです。もう、5時になっても明るくなりました。公園で見かける子供達も5時まで遊ぶようになりました。
春のおとづれはいいですなぁ。。。。
しかし、もうスギ花粉が飛び始めたようです。このニュースを聞いただけで花がむずむずしてクシャミが出ました。いつもながら暗示にかかりやすい性格です。
一昨日の新聞だったか?今日本は好景気らしい?景気の継続が記録を抜くのではないかと?
なんだかなぁ。。。。
それにしてもデフレ傾向は相変わらずだという。そしてデフレからの脱却が望まれているようである。このデフレからの脱却は、インフレを言うのだろうか?
今の景気のよさといわれているのは、設備投資とアメリカ中国の経済発展に支えられているのか?以前から言われている個人消費はどうか?個人消費がまだ回復していないか伸びが危ういかであるなら、少しのインフレでも個人消費は落ち込むのでは?
設備投資はいつか大衆消費財の生産と販売により減価償却されなくてはならないが、それがあんがい危うくて、アメリカの経済の不安もあり、日中の関係も危うい。。。。
まだまだ本格的な景気回復は先のような気がする。
なんて書いたが、要するに我が家の家計には景気回復は見られないということがいいたいのである。
【2007年】
晴れてはいましたがそれにしても寒い。。。
まぁ、まだ2月ですからね。これが普通でしょう。
東京では昨日、市民マラソンがあった。でも、どうも僕は冷めた目で見てしまった。
何でだろ?もともとがお祭り騒ぎが嫌いな性格もあるが、ニュースで市民マラソンを見ていたら、ドライブでよく立ち寄る地方の自治体が作った博物館や美術館と重ねみてしまった。
建物はすごく立派で自慢できるものだが、中身がついてこないような博物館や美術館を。もちろん市民マラソンは立派でした。でもその市民マラソンを企画した動機が世界に東京をアピールするといったものが目立ったように感じた。東京はオリンピック誘致にこれから動くのだからこういう催しも必要だろうが、経済的にも政治外交的にもぱっとしない日本を健在だとアピールするような動機はいただけない。どのくらい金を使ったかわからないけど。。。。
北朝鮮や一昔前の中国で行われていたマスゲームのようなものかも?とさえ思えた。官製のお祭り。
今なぜ東京都民のための市民マラソンか?というその意義がどうも薄いのではないか?東京にカジノという提案もあるそうな。。。ううう
【2008年】
ここんとこ、夕飯を食べてごろんとコタツのなかで横になると眠ってしまう。
この日記は寝る前にチョコっと書いているのですが、妻から「お父さん!お風呂!!」とおこされると10時を回っていたりして、日記を書くどころではなくなる。やはり酒がよくないのかなぁ?それともコタツが。。。。という事で、今日は昼間に書いています。
そういえば、リンクさせていただいている方のサイトが見えなくなったり、一時お休みをされる方がいらっしゃいます。このホームページも5年目にはいっていますし、古くからリンクしていただいている方も含め、5年という月日にはいろいろとおありなのだと思います。また復活をされるようお待ち申し上げます。
いろいろとあれば継続がどうしてもできない事もあるけど、細く長くというのがいいのかなと自分のホームページを見ながら自己満足的に考えたりもしています。ブログもだいぶ形になってきましたし、両立させるにはたいへんな面がありますが、自分の中に「書きたい!」というものがあれば続けられるかなと思っています。
無理をしないで細く長く。。。。。。
長くやっていれば何かが見えてくるだろう。。。。。
「乳と卵」 川上 未映子 著
2008年春の芥川賞作品です。
子供から見ると、親というものはその昔にさかのぼるほど霧の中に霞んでいく。親から聞いた昔の話をぼんやりとその景色として描いていく。
親は、自分の子供時代のように自分自身の昔にさかのぼると、やはり霧の中に霞んでいく。
葉子から見た草子への目。草子から見た葉子への目。お互いに心配をしながら、思いやりながらも時間の中で違うボートに乗っていく。
(江國香織「神様のボート」感想より)
別れてしまった夫(父親)を霧の中に捜し求めるような、この葉子と少女から思春期に向かう草子の母娘関係に見るような関係を巻子と緑子にも見ることができると思います。
夫と離婚をして下町らしいスナックに勤める巻子は小学6年生の思春期を迎えようとしている娘緑子と大阪に住んでいる。そんな二人が東京に住む「私」のところに遊びに来る。しかし遊びに来るといっても観光に来るわけではなく、巻子の豊胸手術という目的である。「私」は、東京駅に二人を迎えに行く。
「卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのがほんとうで、ならばなぜ子、という字がつくのか、っていうのは、精子、という言葉にあわせて子、をつけてるだけなのです。」
「乳と卵」(ちちとらん)は、緑子の日記のようなものからはじまる。
6年生といえば、もう胸も膨らみはじめ生理もやってくる。緑子の友達の中には膨らむ胸を自慢する女の子もいる。緑子自身もこの体の変化を感じつつ戸惑いをも感じる。そんな中母である巻子が豊胸手術に夢中になっている。なぜ母親が豊胸手術に夢中になるのか緑子は理解できない。江國さんの「神様のボート」もそうだったが、母親は母親なのだが、一人の「女」でもあるわけで、娘から見たこの母親に「女」を見る複雑さは大きいだろう。葉子と草子という母娘関係も巻子と緑子という母娘関係も、その互いの親子関係にもかかわらず母も娘も別々のボートに乗ってきりの中を進んでいるのである。
そんな中で、緑子は、日記を書くと同時に巻子と一切話をしなくなり、返事はノートに文字を書いて見せるだけ。東京に出てきても「私」への返事も文字に書くだけである。
このようにこの作品は、母親と娘の確執を表現したものと受け止める事ができるだろうが、ただそれを表現しただけだろうかといえば、またはその確執の根底にあるものが何かという点ではそう単純な作品ではないだろう。
緑子は、すでに生まれる前の母親のおなかの中にいるときから、女と性別が決まればすでに卵巣には卵子が存在してしまっている事に驚き愕然とする。少女から女になっていく自分を呪うようでもある。ここには性としての「女」が表現をされ、母親巻子は40歳を過ぎて肉体の美的衰えを感じて豊胸手術を考える。ここにも性としての「女」がある。「私」は生理となりその処置をするが、祖祖をしてしまった事を緑子に話し、「血は水で洗うもの。お湯では駄目だからよく覚えておくように」と話す。緑子はうなづく。ここの表現に読者は性としての「女」を感じ取るだろう。巻子と緑子の確執のようなものは、この性としての「女」の中にあるのではないか。思春期そして盛りを過ぎた40歳代へという体の変化。「私」の子を産めるかという事への思い。この作品にはこの性としての「女」がストレートに表現をされているのである。
この作品を男性読者が読んだら性の意識が(人それぞれにもよるだろうが)変わるほどに心うたれるだろう。
女性作家の作品には男女間の性を女性の視点から表現したものはたくさんあるだろうと思うし、読者はその描写に性を感じ取るだろう。
しかし女性の性は、この男女間の性に現れない本来の性があるのである。
巻子の離婚をした男は、緑子が生まれるのは「誰かの意図および作為であるわけがないのだし、孕むというのは人為ではないよ。」(378ページ上段)とわけのわからぬ言葉を残す。離婚をするなら「お前が育てろ」という意味だろうか?
子を生むということ。。。。。
それも女性だけの性である。
緑子の巻子への確執は、豊胸手術をするという巻子の「女」の部分への「何で?」というものであり、いつも金に困っているがスナックでは男相手に酒を飲むという「女」を売っているような巻子を見るからだろう。そして自分の体もだんだんと母親と同じ「女」になっていくという戸惑いでもあるだろう。このような意味では、この作品は女が生きることって何かというものを描きながら登場人物の三人の女を描いているのではないか。
ただ単に母娘間の確執を単純に描いたものではない。
作品中にはなぜ巻子が豊胸手術をしようと思うのかは出てこない。出てこないから巻子を読み方によっては「何を考えているのか?母親でしょ!」という批判的な見方で見てしまうかもしれない。そしてなぜ別れた男のところに行き、何を話しなんて答えられたのか、そしてなぜべろんべろんになって帰ってきたのか?そこもわからないから見方によっては馬鹿な女と見える。
しかし、もう少し深読みをするなら、巻子はすでの40歳を超えている。男相手に仕事をするとなれば、もう魅力は若い女にはかなわない。「せめて胸だけでも大きかったら。。。。」まさに巻子にとっては体が資本なのである。それは40歳を越えて生きていく事への不安でもあるのではないか?「私」から見ても、痩せてもう50歳にも見えてしまうという巻子。豊胸手術が現実的でないならば、昔の男に頼るしか。。。。。?
緑子は、その日記に巻子に感謝をし心配をもしている。でも、何で豊胸手術をするの?との想いが湧き出る。
「女」である事の暗い部分が緑子にも見えているのか?
巻子も駄目で馬鹿な女ではない。でも、暗い部分のほんとのことは緑子には言えないだろう。なぜ豊胸手術をするのかなんて。。。
巻子もつらいし緑子もつらいんだろう。。。。でもそのお互いのつらさがわかりすぎるほどお互いにわかってもどうする事も出来ない生きるという現実がそこにはあるわけで、そのつらさがどうすることもできないことが緑子の心をかき乱し、どうすればよいのかわからない中に「お母さん!」と泣き叫ぶ緑子がいる。
母娘の確執であると同時に互いに大切だと思ってもどうする事もできない現実に苛立ちというのかその苛立ちが互いに向けられてしまうというのか。。。。
うまく書けないのですが巻子の気持ちも緑子の気持ちもよくわかるわけでして。。。。。
3泊して巻子と緑子は大阪に帰っていく。
文体は、樋口一葉を思い起こすような「 」もほとんどなく「私」の一人称と緑子の日記だけで表現をされている。文章は粗削りの感じは否めないし、退屈さも感じるかもしれない。しかし、飾り立てた文章のいやらしさや作為というようなひねりもない。この作品には知性も文章上のひねくれた作為がないのである。それが樋口一葉を思い起こすような文体にそうだろう。もちろん川上さんに知性を感じないというのではなく、作品上に知性を感じさせない中に作品が生きてくるという意味ですが。
【2009年】
(記事なし)
【2010年】
(記事なし)
【2011年】ツイッターつぶやき
今朝の朝日新聞社説に「異様な行動に理はない」という記事があった。
小沢系と言われる16人の議員が会派を離脱したことに関してだ。「そんなことしている場合か」という民意が働き政党政治への冷笑という病がさらに重くしかねないと書かれているが、それを16人に押し付けることがどうなんだろ?民意は、国民生活重視と無駄なものはなくすというものの中に衆議院選において民主党を勝たせた。しかし民主党内閣が唐突ともいえるように消費税を打ち出し、それは参議院選において民意は「ノー」と応えた。同時にそれは民主党のマニフェストの変質に見えたことが大きいだろう。そうすると16人がどうのということではなくて民主党自体の問題なのである。もちろん政治における政治的駆け引きだけの政治は国民を不幸にするばかりであるが、政治的政策の定まらないものが上に書いたような民意に沿わないものならばそれも不幸である。
自民党も消費税をいっていたが、少なくと経済の安定の中でというものがあったと記憶する。いくら年金や社会保障人はいえ今のような国民生活に展望が持てない情勢の中でとうとうな消費税論議は生活をなお悪化する中での「異様な行動」であり「理はない」。
バラマキではだめだということでしょうが、エコカー減税はどうなっているのか、新たな高速道路料金での税金負担は、その他住宅関連も?バラマキというのはデフレ下においてどう消費を伸ばし企業利益を安定させるかにばかり税金が使われることである。ついでにわずかな消費にポイントがつきますよといった程度のどこかの量販店のポイントのようなものである。この財源はどうなっていたのかこれからどう支出するのか。このバラマキがどうだったのかの反省とその金があればどのくらい不足するといわれる年金や社会保障費に回せるか?これはある意味出そうとすれば出せる恒久的財源であるのでは?子供手当ても結局は消費拡大のためで子供の将来とかにはそうは今までと変わらないものでしょう。そのためにサラリーマンなどの税制も変わる。
マスコミが自民党から民主党への政権交代をどのように報じていたか、政治評論家は?多くの方が今のような情勢を見越して報道しただろうか?今になってマニフェストの変更と消費税は待ったなしといわれても困るわけです。国民生活重視というマニフェストの基本理念は変更しないでできるものは何かという視点で問題提起されなくてはいけないでしょう。
【2012年】ツイッターつぶやき
親父は去年、介護保険のお世話にならないうちにぽっくり逝ってしまいました。
そしてまたお袋もそろそろというのか遅すぎかもしれませんが介護保険のお世話になりそうです。
病院での治療としての医療保険か、介護保険かは微妙な違いがありますね。親父は入院中に病院より介護保険を使った施設を紹介されましたが、結局は病気でぽっくり逝った。
たしか以前はやたらとお年寄りの入院が多くて医療保険制度も危なくなったというようなことがあったと記憶しています。そのような事情で介護保険制度が作られたのでしょうか。
そうは高くない額ですが介護保険料を納めています。健康保険も納めているわけですので支出は多くなっていると思います。介護保険制度により病院も介護施設を持ったりして受け入れている。
病院への入院は極力避けて介護保険での介護施設利用や在宅サービスが増えたわけですが、どうなんでしょ。以前より良くなったのか悪くなったのか。。。少し勉強しなくてはなりません。。。。
【2013年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2014年】ツイッターつぶやき
以前書いたかもしれませんがもう一度。昼に作りました。
多目のオリーブ油でニンニクのスライスと鷹の爪を炒めます。香ばしさが出たら鷹の爪は取り除きベーコンを入れて炒めます。ベーコンにさっと火が通ったらキャベツを入れて塩・コショウで味付けをします。最後に醤油をひと垂らし。そしてアンチョビを適当な大きさにきったものを入れ(アンチョビの油も)て茹で上がったパスタを入れて炒めます。このとき少しパスタのゆで汁を入れるといいです。火をとめたらオリーブ油をかけてなじませます。
できあがり。。。。。
おいしいですよ!!
アンチョビの塩気もありますが少し恋 濃い味付けがおいしいと思います。塩加減は好みですが。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
若いころ10年間書き込める日記帳を見つけて書いていました。
毎日今でいえばツイッターほどの文字数を書き込んで1年過ぎると次の段に進みます。10段書き込めば10年日記の完成でした。
しかし子育てやらで書き続けることができずに3年ほどでやめてしまいました。今思うと楽しい時期の日記が残っていないことを残念に思います。でも、当時はとても日記どころではない状態ですから、この残念も今でこそ思えることなのでしょう。
その10年日記を今ネット社会で実現しています。
このブログのカテゴリーに「何を思ってた?」がありますが、ここに「〇月✖日という日」として同じ日に血の日記をまとめています。丸一年書けない年がありましたが、どうにか10年も過ぎました。
日記は二十歳のころから書いていましたが、結婚後だったか?終わりにしました。
結婚後しばらくしてワープロが手に入る時代となりギザギザ文字で家庭新聞をつくったりリアル社会で必要な文章を書いていました。
そうこうしている間にパソコンが出てきたのですがだいぶ長い間手を出しませんでした。でもパソコン自体は外部記憶装置のない時代(カセットテープに保存)にゲームなどをつくっていました。もちろん遊びでしたが、コンピューター言語の面白さを知りました。
時代はワープロからパソコンに。仕方ないので導入。しかしその発達した姿にまるで浦島太郎でした。ワープロ機能だけではなくてインターネットにも興味を持ち始めたころ、あるサイトのコミュニティーを知り始めました。これがネット上に日記のような文章を書く始まりまでした。
その後はブログができはじめたり、ホームページをつくったりして日記を続けました。
ブログもサービスの収量もあり2回ほど引っ越しながらこのgooブログにたどり着きました。でも、この間消えてしまった日記は多いです。
やっと落ち着き場所ができましたが。。。そこにツイッターなるものが現れて昔書いていた10年日記のように140文字の日記を書いています。
いろいろと漂流しながら毎日自分が書きたいものを書き、何よりもそうは多くの方ではありませんが読んでいただける喜びを感じています。
「何を思ってた?」。。。案外読み返すと書いたころを覚えているもんですね。思い出しているのでしょう。。。。今は、未来日記なるものがあるようですが、もう年齢もも年齢ですからはるかなる未来はない。まぁ、行き着くところまで書いていければ幸せです。
【2018年】ツイッターつぶやき
2017年2月13日に
「俳句を世界文化遺産に?」というものを書きましたが、すでに
「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会」というものができているようです。また、早くも
「俳句のユネスコ無形文化遺産への登録を目指す議員連盟」も発足しているようです。
国際俳句交流協会会長 有馬 朗人さんは
「ユネスコ無形文化遺産登録に向けて」として詳しく設立の趣意を書いています。
俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会の設立趣意書でも同議員連盟設立趣意書でも「俳句は人類が保全すべき文化的価値を有するものである」と共通認識においてユネスコ無形文化遺産に登録を進めるという事です。ではこの「俳句は人類が保全すべき文化的価値を有するものである」となるとどのような中身かはわかりません。ただ有馬さんの「ユネスコ無形文化遺産登録に向けて」でその中身がある程度分かるような気がします。
以下、この有馬さんの「ユネスコ無形文化遺産登録に向けて」について感想を書きたいと思います。「 」内は引用です。またユネスコ世界文化遺産についてや日本から登録されている文化遺産にどのようなものがあるかは
こちらのサイトを参考にさせていただきました。
なお、わかりやすく解説されているのが
NHKの「俳句を世界文化遺産に」かと思います。
まず少し長いですが引用をします。
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです。 当協会の俳句コンテストへの海外からの応募は49か国に及びます。
俳句の普遍性……アメリカの代表的な詩人アレン・ギンスバーグは俳句のように短いしかも自然をテーマにした詩を沢山作りました。 又、ノーベル文学賞を受賞したスウェーデンのトマス・トランストロメルや同じく平和賞をその死後に贈られたスウエーデン人のダグ・ハマーショルド元国連事務総長が俳句詩を詠まれたことはよく知られています。 このように一流の詩人や文人政治家が俳句を詠んでいることは俳句の普遍性を表していると思います。 一方俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。
俳句の平和性……俳句の主題は自然観察と日々の生活の中にあります。 俳句は瞬間を永遠のものにすることが可能です。 身近な自然を観察することは自然保護の心にも繋がり、人々の相互理解を生み、ひいては世界の平和へと繋がることになるのです。
次世代への教育力……言葉に関する感性を磨くことは表現力を高め、自分の考えを簡潔にまとめる訓練になります。 アメリカでは俳句を授業に取り入れて子ども達の表現力を育んでいるそうです。 俳句がユネスコに登録されれば日本の子どもをはじめ世界の子ども達の国語力の向上にも役立つでしょう。」
和食が去年でしたっけ、世界文化遺産になり世界中で日本食ブームにもなりました。しかし和食って何でしょうか?三ツ星レストランにもなっている日本食店もあれば、地方の郷土料理もある。そして我が家で日常食している和食もある。ここにはプロの料理もあれば大衆料理もある。和食と言っても、刺身一つとってもたしかな食材としての魚も必要でプロでなければうまい刺身はできない。一方では100円の回転寿司でも刺身を楽しめる。ここで和食とは「和食の大衆性」という形で世界文化遺産に登録されたのでしょうか?
「俳句の大衆性……短いという俳句の持つ簡潔さゆえに誰もが俳句を簡単に作ることが出来るのです」では俳句全体を言い表していませんし、「伝統文学」としての俳句を語ってはいません。俳句の大衆性と言いますが、文学としての俳句と同じように文学には初心者が作る小説や詩などもありますから文学全体が大衆性を持ちます。しかし文学となれば一定程度完成されたものでなければなりません。
「俳句が短いことによって、一般の人々が俳句を作る楽しみを知り始めました。 こうして俳句によって詩人の数が急激に増えつつあると言えます。」という「俳句の普遍性」も同じで私人が急速に増えるという事はあり得ないでしょう。
「俳句の大衆性」を世界文化遺産登録のための道具としてはならにでしょう。
僕も俳句も含めて文学の大衆化は良いことと思います。より多くの人々が俳句を詠むこと自体は良いことで、そのうまさや下手さを大目に見ていただきながら底辺を広げることは大切です。しかし、ただこれだけで世界文化遺産に登録させようというのは乱暴だという事です。
「俳句の平和性」と言いますが、俳句を詠んでいても戦争を支持する人々もいるでしょう。同時に俳句だけではなくて文学全体が平和を作り上げる作用があります。俳句=平和という世界遺産登録のためのこじつけもよくない。
俳句を教育に「利用」するのは良くない。俳句は教育にも「役立つ」というだけです。
どうも世界遺産というものが観光開発につながりすぎるという面も気になります。
俳句の世界遺産にしてもいくつかの自治体が動いているようです。議員連盟もそれを後押しするという方もいるかもしれないという懸念があります。
海外旅行に行けば、世界遺産だから見ておくかとなると思いますが、外国の方も日本に来れば世界遺産だからと見に来るかもしれない。しかし、テレビなどを見ていると、ネットで広まって世界遺産ではない日本人が当たり前の世界だと思っている処に人気が集まっている。日本人が知らない歴史や文化を見つけにきている。ここに大衆性がありますね。和食がラーメンであったりおでんであったり。俳句に興味を見つける外国の方が日本人と一緒に能動的に動いて世界文化遺産化は進むでしょう。そのためのおぜん立てを作り上げることはないと思います。
それでは俳句文学を作り上げている方がどう思っているのか?ここも大切で、一部の俳人が世界文化遺産に動くことは片手落ちです。時間があればこの点も。。。。。
【2019年】ツイッターつぶやき
日刊ゲンダイに「貯蓄ゼロ世帯」の推移の表があった。
これを見ると単身世帯においては民主党政権時より大きく貯蓄ゼロ世帯が増加をしている。
二人世帯以上においても増加をしている。
しかし2018年度になって民主党政権時の数字に近いものとなった。
これを含めて「アベノミクスの成果」という印象を国民に与えている。
2018年度は預貯金以外の金融資産(
学資保険、養老保険、傷害保険なども含まれます)を含めるようにしたことから大幅に数字は落ちている。
たしかに株価の高騰があり、金融緩和により銀行の利息もほぼゼロになっている中で、預金から金融商品へカネは動いたでしょう。しかしこれを持ってアベノミクスの成果とは言えないはずです。ただ民主党時代に戻った数字ですから。民主党時代も株や学資保険、養老保険、傷害保険なども含めれば「貯蓄ゼロ世帯」の数字は小さくなるでしょう。
GDPについても統計の操作があるといいますし、ましてやこれまで明らかになった統計不正もあります。
アベノミクスの成果というのは、国民への印象操作でしかないでしょう。
【2020年】ツイッターつぶやき
「隔離(5)」の続きです。
以下僕のツイッターから転載
クルーズ船の500人の乗客が下船するという。外国人乗客がクルーズ船から「退避」するような形で帰国している中、この500人も「退避」するという位置づけが必要。
アメリカでは帰国後2週間経過観察をするという。
日本は公共交通を使って自宅へ?最悪のタイミングでは?
先のツイートのようなことを書くと、風評被害だというような批判が日本では出てくるでしょう。しかしこの風評被害を出さないために、下船後2週間の経過観察が必要なのです。このことにより陽性反応は出ていないと社会的にも認められて帰宅後も変な目で見られることはないでしょう。
一方では一度陰性反応でも数日後に陽性反応が出る確率がありますから、最悪帰宅後下船の方が陽性反応が出たとなると、社会的にもパニックが起きて風評被害もさらに拡大してしまう。
政府は2週間の経過観察を行うべきかと思います。
【2021年】ツイッターつぶやき
東京は12月末から1月初めをピークに新規感染者数が急激に減少してきた。
現在は500人を割っている。
しかし新規感染者数の減少の仕方を見ると、2月の中旬に入り7日間移動平均が横ばい状態になっている。
昨日今日の新規感染者数は前の同じ曜日を比べると微増している。
このまま400人から500人ほどで推移すると新規感染者数は下げ止まり状態と見たほうが良いかもしれ無し。
検査数は1月の中旬ぐらいまでをピークに徐々に減少している。その減少の状態は新規感染者数の急激な減少に比べると緩やかですから、新規感染者数自体が減少していることは確かでしょう。これは検査数が減少しても陽性率も下がっていることからもわかると思う。
今後陽性率が上昇傾向を示すと新規感染者数は横ばいから上昇傾向を示すことになるでしょう。
しかしここで注意しなければならないのは、1月22日に
「感染経路を追跡する「積極的疫学調査」の対象を同日から縮小することを決め、都内の保健所に通知した。高齢者ら重症化リスクのある感染者への対応を優先する。」(
JIJI.com)
としました。
これは新規感染者数の急増により保健所の事務が逼迫したためで、積極的疫学検査すなわちクラスターや陽性者との濃厚接触者の後追い検査を高齢者などに絞っているということです。ですから最近は新規陽性者に占める
高齢者の割合が高くなっています。
陽性者との濃厚接触を知らせるCOCOAもここ4カ月不具合を示していますし、若い人の無症状者見逃している危険性があるでしょう。
無症状で濃厚接触をしても検査されないのですから東京都の様々な統計発表にカウントされていないことも考えられます。
最近は高齢者施設(病院)でのクラスターが多くなっています。これは若い人たちが無症状ならば検査もされないことが増えてきていることから家庭内感染や施設などでの高齢者んへの感染が上昇しているということかもしれません。
こうみると、現実は新規感染者数の減少はそうは急激に現れておらず隠れ感染者の増加も陽性率には現れていない可能性があります。
こう見ると都の発表は不手際があるにしても減少傾向の下げ止まりは確実ではないでしょうか。下げ止まりがだらだらと続きそのうちに第四の波が訪れるでしょ。
ワクチンもだいぶ遅れるようですし安全性も未知数です。
【2022年】ツイッターつぶやき
白菜が4分の1残っていたので何をつくろうかと思いました。
これという料理に使わない時は味噌汁にするか辛子醤油和えにするのですが、何となく飽きたので何か変わった味付けにしようと思いました。白菜というのは和風のイメージがあるのですが、洋風にしたらどんな味だろと思いオリーブオイルを使うことにしました。
白菜をさっと塩茹でしてそのままざるで冷まします。
ドレッシングというのかタレと言うのか。。。。。
オリーブオイル、粗びきコショウ、塩、砂糖、酢で作りました。
オリーブオイルと言ったらニンニクでしょうと思いましたが、さて白菜に合うかどうか。。。。
でも思い切ってすりおろして入れました。
レモンでも欲しかったのですが、ない・・・
冷蔵庫に半分残っていた柚子を思い出しました。
ニンニクの風味に柚子。。。。。。
まぁ、いいかと思い皮をみじん切りにして入れてみました。
旨いかといえば「うまいっ!!」というほどでもなく、まずいのかと言えばまず苦もなく。
個性的?な味でした。
【2023年】ツイッターつぶやき
江戸時代の銭湯は混浴だったらしいですね。もちろん温泉も混浴。
明治や大正の時代は同ったのでしょ。でも思い出すと若いころ温泉地の露天風呂に行くと混浴でおばちゃんたちと一緒に浸かっていました。まぁ、混浴というわけではないけど銭湯も番台があり見晴らしがよかった。同級生の女の子が座っていたり(笑)
この日本人の性に対する感覚というのはどういうものなんでしょうね。
どこかの国でLGBTの方が女子のシャワールームに入ったらしい。女性は怒ったが逆に差別者扱いにされた。昔の日本のようなら何の問題にもならなかったのでしょう。その意味でも昔はLGBTの人も住みやすい社会だったのかもしれない。男色というのもオープンだったようです。
しかし現代は昔のようにはいきませんね。
LGBTについては、スポーツ界でもトラブルがあるようで、心が女性の肉体が男性が女性の競技に入り優勝をする。
どう見ても性の違いは肉体を抜きに考えられませんね。
トイレやシャワールームの改善が進むでしょう。
しかし肉体的な差異が重要といっても差別はいけません。
同性から告白されたら「私はあなたに魅力を感じません」というしかない。これは仕方がないことで差別ではありません。ですから肉体的差異は仕方ないのです。
肉体的な差異を差別としてはいけないのですが、社会的差別はなくさねばいけません。
同性婚を認めるかが問題になっていますが、婚姻という概念がよくないですね。どうしても性的な異性間の婚姻となってしまっている。婚姻関係ではなく共同生活者という面で見れば性的なものを無くした社会的婚姻関係の権利が保たれます。共同生活者に現在の婚姻関係の自由と権利を与えればいいのです。
現在の婚姻関係も共同生活者同士にありますから。。。。。