猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

命の値段.....?

2005年07月26日 22時00分55秒 | 猫たち
我が家の1階には犬猫病院がある。
ちびくんとちゃあこもお世話になっているその病院の先生は、私達が住んでいるこのマンションの管理人さんでもあるのだが...。
どうやらブリーダーさんも兼ねていらっしゃるのか、歩道に面した病院のウインドーには仔猫がわんさか入ったケージが置いてあったりして、値段表なんかも張られている。それは時によって、スコティッシュフォールドだったり、ロシアンブルーだったり、「市場」では高価な「値段」をつけられている猫達なのだが、それでも「市場価格」の半値ほど。大変良心的な「値段」で「売られて」いることもあってか、いつの間にやら1匹、また1匹といなくなってゆく。また、時にはいわゆる普通の日本猫が「お譲りします」と、そこに入れられていることもあり、それはたぶん「予定外」の仔猫が生まれてしまって、その処遇に困り果てた飼い主が持ち込んだものであろうが、その子たちもいつの間にか姿を消していくから、きっと新たな家族をそれぞれ見つけていったと見える。

私とゴンザにとって仔猫たちを見るのは大変な楽しみであり、その愛くるしさに通りかかるたび足を止められ、ガラスに張り付いては通行人の大いなる邪魔になっているのだが...。
その可愛らしさを見るにつけ、同時に胸が騒いでならない。

興味本位で買われていって、途中で捨てられたりしないだろうか。
老いても、病気になっても、可愛がってもらえるだろうか。
家族の一員として、命あるものとして、生涯愛してもらえるだろうか。

なぜなら、この日本で、1年間に「処分」されている犬や猫は、60万匹に及ぶからである。
60万匹。60万匹.....。60万匹である。
果たしてそれが、すべて自然に増えていったものたちだろうか?

そのうち、去勢や避妊手術を怠ったがために増えた命はいくつだろう?
そしてその中で殺されてゆく命の数は?
興味本位で買われ「飽きたから」「面倒が見れなくなったから」、捨てられ、殺されてゆく命はいくつだろう?

あるとき、こんなことがあった。
大変お世話になっている知人とお酒を飲んでいたときのことである。その人の同級生だという1人の男性がたまたま同席することとなった。その人は、私が猫と暮らしていること、年老いた猫を心配していることを知り、こう言った。
「その猫って何の種類なの?純潔種じゃないのに、別にいいじゃん。高いやつならわかるけど。うちのは高いから別だけどね」

一瞬私は、彼が何を言っているのかわからなかった。
「そういう問題なの?」と相手を罵りながらも、それ以上言うべき言葉も見つからなかったし、何かを言おうとも思わなかった。そしてその卑しい人物の職業が、人を助けるべき医者であることを知って絶望した。

私に偉そうなことなど言えた義理じゃないのはわかっている。
動物の、植物の命を日々頂いて生きながらえている私には、きっと彼のことを責める資格なんてない。
けれど。
命に値段があるのだろうか?
草むらで、軒下で生まれた命と、
始めから、人が利益を得るために生まれた命。
そこに何かの差があるのだろうか?

母親のお乳を吸い、ふわふわと寝息をたて、互いにじゃれあい、我々を真っ直ぐに見つめる、仔猫たちの瞳は等しく澄んでいる。
彼らは「値段」の意味など知らない。
むしろそこから1番遠いところに存在しているのに。

物思う人間を恨むでも恨まないでもなく、ただ仔猫たちは寝息をたてている.....。