浪華の梅
好文則梅開 廃学則梅不開
学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅が開かなかった。
中国の故事から梅の木は好文木と言われます。黄門様でよく知られた水戸光圀公は大日本史編纂にあたり、浪速から梅の木を取り寄せて、大日本史編纂所の庭に植えられました。これが浪華の梅です。
黄門様は初代水戸藩主の側室お久の方の子で、懐妊のとき水に流せと命ぜられたが、重臣の計らいでその屋敷内で生まれたそうです。その時お久の方は梅の実を播いて誕生の年に芽を出し、やがて花を咲かせるようになりました。黄門様は41歳のとき生誕の地、旧屋敷を訪れ、梅をながめ、母を忍んで誕生梅と命名したそうです。70歳のころふたたび訪れ、ふたたびあふぞ嬉しきと詠んでいます。この梅は座論梅と言われています。今は生誕の地に黄門神社のみがあります。
このように水戸徳川家と梅とは初めのころから深いかかわりがあったようです。
現在、浪華の梅は常磐神社の義烈館前に植えられています。
梅の木の近くには浪華の梅の石碑があります。
家乃風伊萬母 薫理乃都伎 努爾存不美 古能武 起乃佐可 梨知良流流
家の風いまも 薫りのつき ぬにそ 文 このむ 木のさか りしらるる
大日本史は250年にわたり編纂が続けられ、明治39年に完成し、皇居に納められたそうです。詩は九代藩主烈公が初めて編纂所・彰考館に行かれた時に水戸の精神・歌風を詠み、柱に書きつけたもので、書はその子・最後の将軍慶喜公によります。
鐡幹
偕楽園では樹齢100年以上の梅の古木を鐡幹と称して敬うべきものとされています。たくさんの鐡幹がありますが、寿命なのか年々減少しています。
幹がねじれて、空洞になったりしているものがおおいですが、中にはねじれていない古木もあります。
ねじれた古木をアップでみますと下のようです。
幹の両側に白線を斜めに描きました。もし幹が朽ちていなければこの白線くらいの太さだったわけです。幹の中心部が朽ち果てて、幹の円周の一部の表皮だけが残っているのです。
なぜ古木はねじれるのか。
この古木の幹はあたかも三本の枝を撚りあわせたように見えます。この1本1本の先の枝が盛んに繁っているのです。
勢いがある枝に水分を送っている表皮の部分が発達して盛り上がってきたのです。逆に勢いがなくなってきた枝に水分を送っていた部分は年輪が形成されなくなり、表皮が盛り上がらなくなりますので、相対的にはへこんでいるようになってきます。さらに枝が枯れると、その枝へ水分が流れていた表皮も枯れてしまいます。
こうして、木が若いうちはすべての枝に勢いがあって、幹の円周すべてが均等にふくれるので年輪が同心円です。でも枝の勢いに差ができると、年輪が同心円ではなくなってきて、水分の流れる道筋にそって盛り上がってきます。水分の流れは木によってらせん状のものと、縦に一直線のものとがあるようです。さらにらせんの巻方向も品種によって違いがあります。
らせん状の流れのある幹は、水脈にそって盛り上がる部分と、盛り上がらなくなった部分ができます。こうして幹がねじれているようになります。さらに進むと、盛り上がった部分が丸くなりあたかも枝のようになります。
一方枯れた部分は朽ち果ててしまいま、画像のように三本の枝を撚りあわせたようになります。
梅の木は自力で再生し若返っているようです。
雑草が古木と一日中向き合って、お前はどうしてねじれてしまったのかと考え、たどり着いた結論です。
開花10本目は八重寒紅です。最初に1輪だけ咲いたチャボ冬至は花が落ちてしまいましたので、現在偕楽園公園で咲いている梅の木は9本です。
開花10本めは東日本大震災以前は園内では1番に咲き、見晴広場と好文亭がよく見える、絵になるばしょでした。
南門手前の八重冬至は花が多くなってきました。
好文則梅開 廃学則梅不開
学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅が開かなかった。
中国の故事から梅の木は好文木と言われます。黄門様でよく知られた水戸光圀公は大日本史編纂にあたり、浪速から梅の木を取り寄せて、大日本史編纂所の庭に植えられました。これが浪華の梅です。
黄門様は初代水戸藩主の側室お久の方の子で、懐妊のとき水に流せと命ぜられたが、重臣の計らいでその屋敷内で生まれたそうです。その時お久の方は梅の実を播いて誕生の年に芽を出し、やがて花を咲かせるようになりました。黄門様は41歳のとき生誕の地、旧屋敷を訪れ、梅をながめ、母を忍んで誕生梅と命名したそうです。70歳のころふたたび訪れ、ふたたびあふぞ嬉しきと詠んでいます。この梅は座論梅と言われています。今は生誕の地に黄門神社のみがあります。
このように水戸徳川家と梅とは初めのころから深いかかわりがあったようです。
現在、浪華の梅は常磐神社の義烈館前に植えられています。
梅の木の近くには浪華の梅の石碑があります。
家乃風伊萬母 薫理乃都伎 努爾存不美 古能武 起乃佐可 梨知良流流
家の風いまも 薫りのつき ぬにそ 文 このむ 木のさか りしらるる
大日本史は250年にわたり編纂が続けられ、明治39年に完成し、皇居に納められたそうです。詩は九代藩主烈公が初めて編纂所・彰考館に行かれた時に水戸の精神・歌風を詠み、柱に書きつけたもので、書はその子・最後の将軍慶喜公によります。
鐡幹
偕楽園では樹齢100年以上の梅の古木を鐡幹と称して敬うべきものとされています。たくさんの鐡幹がありますが、寿命なのか年々減少しています。
幹がねじれて、空洞になったりしているものがおおいですが、中にはねじれていない古木もあります。
ねじれた古木をアップでみますと下のようです。
幹の両側に白線を斜めに描きました。もし幹が朽ちていなければこの白線くらいの太さだったわけです。幹の中心部が朽ち果てて、幹の円周の一部の表皮だけが残っているのです。
なぜ古木はねじれるのか。
この古木の幹はあたかも三本の枝を撚りあわせたように見えます。この1本1本の先の枝が盛んに繁っているのです。
勢いがある枝に水分を送っている表皮の部分が発達して盛り上がってきたのです。逆に勢いがなくなってきた枝に水分を送っていた部分は年輪が形成されなくなり、表皮が盛り上がらなくなりますので、相対的にはへこんでいるようになってきます。さらに枝が枯れると、その枝へ水分が流れていた表皮も枯れてしまいます。
こうして、木が若いうちはすべての枝に勢いがあって、幹の円周すべてが均等にふくれるので年輪が同心円です。でも枝の勢いに差ができると、年輪が同心円ではなくなってきて、水分の流れる道筋にそって盛り上がってきます。水分の流れは木によってらせん状のものと、縦に一直線のものとがあるようです。さらにらせんの巻方向も品種によって違いがあります。
らせん状の流れのある幹は、水脈にそって盛り上がる部分と、盛り上がらなくなった部分ができます。こうして幹がねじれているようになります。さらに進むと、盛り上がった部分が丸くなりあたかも枝のようになります。
一方枯れた部分は朽ち果ててしまいま、画像のように三本の枝を撚りあわせたようになります。
梅の木は自力で再生し若返っているようです。
雑草が古木と一日中向き合って、お前はどうしてねじれてしまったのかと考え、たどり着いた結論です。
開花10本目は八重寒紅です。最初に1輪だけ咲いたチャボ冬至は花が落ちてしまいましたので、現在偕楽園公園で咲いている梅の木は9本です。
開花10本めは東日本大震災以前は園内では1番に咲き、見晴広場と好文亭がよく見える、絵になるばしょでした。
南門手前の八重冬至は花が多くなってきました。
黄門様とのつながりから鐡幹のいわれ
更には幹のねじれなど語りつくせそうもないですね
そういえば幹がねじれている梅の木って結構見ているかもしれないです。
必死に生きようとたたかっている姿のあらわれなのかと思うと応援したくなります!
観梅のときにはそういう個所も共に鑑賞してみようと思います♪・・・有難さが増しました!
古い木は空洞になることが多い様です
ねじれた木には支えが必要になって来て 何だか人間の老後と重なってしまいました
木でも 人間でも 老後は人間に支えられなければ 生きていけないのですね
自分の老後を梅の老木を見て考えさせられました
最後の綺麗に咲いた梅の花に 癒されます
毎年 梅林へお花見に行きますが 今年は お花だけでなく
木にも目を向けたいと思います(^^♪
樹齢すごい老木ですね。
それでも若返りで花をつけるのですね~。
人間も見習いたいです。
水戸九代藩主烈公さまのこと色々読みました。
一番驚いたのは。
ご正室の他に側室が9人もいてお子も37人・・・。
時代とはいえ言葉もありません。(笑)
次は水戸藩第2代藩主徳川光圀のお勉強です。(笑)
この方も側室のお子でしたね。
偕楽園の梅もですが水戸藩にも興味津々です。
梅も必死に生きようとしていますが、当時の人も必死だったでしょう。
ねじれた人がたくさんいても、それは生きるためですね。
観梅は堅苦しいことはさておき一弛の時としてください。
梅の木は木に支えられ、人は人に支えられて助け合っていきましょう。
梅はどんなに朽ち果てようとも、最後まで生きようと芽を出し花を咲かせますね。
10人のおくさんで37人の子沢山ですね。
でもこのうち17人は10歳以下で、ほとんど誕生日を迎えるかどうかでなくなった子供が多いのです。
それにしても驚きですね。
水戸のことを詳しく学ばれておられますね。