「話の訊き方から見た軽度発達障害」の中で、畑中千紘氏は「発達障害の人は換喩で話す」
と書いているが、「人間という症候」の中で藤田博史氏は、母子関係などの外に参照点と
しての第三項が無いと、二者間での伝言ゲーム的な換喩が在るのみで、
第三項を参照する隠喩は成立しないとのこと。(「人間という症候」P207~P212)
森さち子氏などが、共同注視、間主観性などを重視するのもそのためだろう。
子供の臨床で、子供がごっこ遊びをするようになると、その後の改善が著しいことなども、
参照すべき第三項が出来て来たことが大きいのだろう。
哲学者にラカン派に興味を持つ人がいても、臨床家には少ないというのは、
母子関係、生育環境、その後の生活状況が困難なために、そこへの対応で手一杯なため、
構造を考えるなどの悠長なことをできないのではないのだろうか。
と書いているが、「人間という症候」の中で藤田博史氏は、母子関係などの外に参照点と
しての第三項が無いと、二者間での伝言ゲーム的な換喩が在るのみで、
第三項を参照する隠喩は成立しないとのこと。(「人間という症候」P207~P212)
森さち子氏などが、共同注視、間主観性などを重視するのもそのためだろう。
子供の臨床で、子供がごっこ遊びをするようになると、その後の改善が著しいことなども、
参照すべき第三項が出来て来たことが大きいのだろう。
哲学者にラカン派に興味を持つ人がいても、臨床家には少ないというのは、
母子関係、生育環境、その後の生活状況が困難なために、そこへの対応で手一杯なため、
構造を考えるなどの悠長なことをできないのではないのだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます