「プラハの春」にも何度も出てきた、ヴァーツラフ広場の名前。ここで民衆が集まり、大討論会が行われたり、ソ連軍がこの広場に戦車を乗入れ、占拠し、市民は広場に座り込んで抗議をし、そして物語のクライマックスを迎える場所です。
ユーリ先生がこの場所のことを熱っぽく説明してくれたのですが、その時にはきちんと理解できていなかった。
プラハの春(地球の歩き方からの抜粋)
1968年に、旧チェコスロバキアで始まった民主化運動の総称を”プラハの春”という。1960年代に入り、チェコスロバキアではそれまでの共産党一等支配の「スターリン型」政治経済体制への批判が表面化し、より自由な社会を目指すべく改革の気運が高まった。国内の保守派も、改革派の勢いを抑えることはできず、1968年1月に改革派のドゥブチェクが第一書記に就任。一気に言論の自由をはじめとするさまざまな権利と自由の獲得に向かって走り出した。しかし改革の波が自国にも押し寄せることを懸念した旧ソ連以下の旧東欧諸国は、この改革運動を批判し始め、ついに同年8月21日、ワルシャワ条約機構諸国は民主化を阻止するため軍事介入を決行。旧ソ連がヴァーツラフ広場に戦車を乗り入れ占拠。これは「チェコ事件」と呼ばれる。市民は広場に座り込んで抗議をし、さらに、学生ヤンパラフは焼身自殺を図り死をもって抗議した。しかしチェコスロバキアの自由への革命、「プラハの春」は実ることなく鎮圧された。