徒然なか話

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肥後五十四万石の秘話ヒストリア

2012-02-23 15:12:42 | 熊本
 今年は肥後五十四万石の礎を築いた加藤清正公の生誕450年にあたる。二代目忠広公の時に改易になった加藤家に替わって肥後藩主となったのが細川家三代目・細川忠利公(細川忠興公・ガラシャ夫人の三男)だが、加藤清正公とも旧知の間柄であり、清正公の治政を熟知していた細川忠利公は、肥後に入ったその時から、徹底的に清正公を立て、礼を尽くしたといわれる。これが結局、以後13代、237年に及ぶ肥後細川藩の安定の基礎となったわけである。しかし、このことが今なお残る熊本県民の加藤清正信奉(熊本県民は加藤清正公のことを「清正公さん:セイショコサン」と二重の敬称を付けて呼ぶ)にも繋がったのは皮肉でもある。その細川忠利公が、肥後に入ってすぐに調べた藩の実石高が54万石を遥かに上回り、70万石をも軽く超えていたことに驚き、狂喜したと伝えられる。これはとりもなおさず、清正公が行なった新田開発、灌漑用水の整備、堤防建設による治水などの農業振興策の賜であったわけだが、そのことにより細川忠利公はますます清正公への尊敬の念を深めたものと推察される。そして江戸後期にはなんと90万石を記録した年もあったという。


▼熊本民謡「五十四万石」(作詞:野口雨情 作曲:大村能章)
  昭和初期に作られた新民謡

♪五十四万石 細川様は
 大名中の大大名
 肥後では熊本清正公様は
 丸い蛇の目の紋どころ

♪にわか雨でさえ 御紋の下は
 蛇の目のから傘 濡れはせぬ
 お城は石垣 七重に八重に
 濠は深濠 武者返し

♪無理はいわねども
 後へは引かぬ
 熊本生まれは気も強い
 神風連やらまた田原坂
 城に輝く 宇土櫓