徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

母の娘時代

2012-02-25 15:44:12 | ファミリー
 僕の両親は共働きだったので、幼い頃は祖母に育てられた。兄弟姉妹4人みなそうだった。明治女の気骨を絵に描いたような人で躾は厳しく僕らにとっては怖い存在だった。祖母は膝が悪かった。ほとんど曲がらなくなっていた。永年続けた機織り仕事のせいだと聞かされていた。気位の高い人だった。しかし、ご用聞きに来る商店の人や行商のおばさんたちなど、わが家に出入りする人にはよく気を使っていた。そんな祖母の人となりをよく理解できるようになったのは、父が、わが母(僕の祖母)について書き残した下記の記録を読んでからである。
※写真は小学生時代の父
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 母が大江村にあった河田経緯堂という絹織物工場に通い始めたのは16歳の時だったという。この工場は、かの文豪・徳富蘇峰先生が開いた大江義塾があったところである。先生がこの塾を閉鎖して上京するや、先生の姉婿河田精一氏がその屋敷を譲り受け、この工場を開設したそうである。若くして夫に先立たれた母は、この工場で身に付けた機織り仕事に夜を日に継いで働き、私と弟の幼い兄弟と出戻りの義姉を養っていたのである。娘時代、機織りの工場に行った理由について母は、縮緬、羽二重、絽などの特殊な織りの技術を身に付けるためであって、けっして労賃目当てではないと言い張った。なぜなら、娘時代、母の父親は大江村の村長を務めていて、祭りや折々に家で行われる宴が盛大であったことや水道町一帯の大火で持ち家十数軒が烏有に帰してしまったことなどを何十ぺん、何百ぺんとなく聞かされたものだ。
 私が小学6年生の頃こんなことがあった。母と二人で街を歩いていると向う側からやってきた70歳前後と思しき老婆が急に立ち止まり、「お人違いかもしれませんが阿部さんのお嬢さんではありませんか?」という。母も一瞬驚いた様子だったが、それからなんと1時間にもおよぶ立ち話が続いた。酒盛りのこと、火事のことなど話題は尽きない様子だった。あとで聞いた母の話によると、その老婆は阿部家の酒宴の時によく呼んだ町芸者だったそうである。また、わが家によく訪れていた母の昔の機織り仲間が、「阿部村長の時は父が戸籍係として大変お世話になりました」と言っていたのを聞いたこともあった。
 母の実家は女系の家だったから、私が生まれると祖父は6キロの道もいとわず、孫の顔を見に日参したそうである。その祖父も私が生まれた翌年には他界した。そんなわけで母の娘時代は割と恵まれた家庭環境にあったようである。