徒然なか話

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牛深ハイヤ節が日本全国に伝播したワケ(1)

2012-07-07 22:39:22 | 熊本
 牛深ハイヤ節は全国ハイヤ系民謡の源流だといわれる。牛深は天然の良港として江戸時代から明治初期にかけて海道の要衝であり、行き交う廻船の船乗りたちが聞き覚えた唄や踊りを日本各地に伝えたといわれる。それはたしかにそうなのであろう。しかし、廻船の寄港地は全国何十箇所とあり、それぞれの港にも民謡はあったはずだ。なのになぜ牛深のハイヤ節が特別だったのだろうか。たしかに奄美系といわれるアップテンポの六調は魅力的な音楽であるが、それだけではどうも説明できないような気がするのである。
 そこでその背景を探る手がかりの一つとして、昭和2年に出版された民俗学者・宮武省三著「習俗雑記」の中に探ってみた。これは大正時代に宮武が牛深に赴き、現地で見聞きした内容をまとめたものである。今日では不適切と思われる表現も散見されるが、作者の意図を尊重しそのまま掲載した。なお、原文を新仮名使いに変えてみたが、わかりにくい部分があるのはご勘弁を。

牛深女とその俗謡について -前編-
   宮武省三著「習俗雑記」より

 牛深と言っても知る人は少なくなかろうが、九州をぶらついた方なら直ぐウンあの鰯と給仕女との名所かと天窓(あたま)に響くところである。地は天草下島の南端にある一小港で、北九州方面からすると宇土線乗換え三角(みすみ)に出で、ここで牛深行汽船に塔ずれば沿岸の諸港をへて海上七時間で行かれるところである。このように邊陬(へんすう)な地であるけれど「牛深三度行きゃ三度裸、鍋釜売っても酒盛して来い」と言う俗謡でその名を知られた女の評判な所で、未だ足踏(あしぶみ)しない者にはこの俗謠を聞いただけでもなんだか歓楽気分の溢れるあるいは「二度と行くまい丹後の宮津」式に縞の財布を空にしなければおさまらない所ではないかと想像されるのであるが、さて行って見るとその予想は全く裏切られて頗る無粋極まる殊にここの女ときては至ってウブな、馬鹿正直な、男を槍玉にあげる能は更にない、そして無愛嬌な点にかけては決してヒケを取らぬ珍無類の女の国であるに驚かされるのである。
 総じて九州路でも肥前肥後の女は格別朴訥で、天草女と対立してその名を知られる島原女も「わたしゃ肥前の島原そだち、剛毅朴訥ありのまま」という俗謡がある程無骨であるが、それでも、まだここの女は評判だけに愛嬌もよく男を魅する力があるに一方、この天草女殊に牛深女ときては全く俗謡の意義が判らぬほど無愛想に、そして別にこれという取柄のない女であるに気付かるるのである。今少し序(ついで)に、島原女と牛深女とを比較して見ると、島原女は後朝(きぬぎぬ)の別れに背中をポンと叩く吉原のやさしさがあるにひきかえ、牛深女は「岡場所はくらわせるのが、いとま乞(ごい)」式の根津や音羽辺の荒素振がなくとも、頗るブッキラ棒であることはいかに贔屓目(ひいきめ)に見ても感ぜられるのである。また第一容色(きりょう)の点から言っても幽邃(ゆうすい)な眉山(まゆやま)の麓、清冽な音無川の水で育った島原女には飛びつくほどの別嬪が多いのも無理ないが、悪水も悪水、天下無類の悪水の牛深に情けない程美人のいない事も説明を要するまでもないのである。
 そこで牛深女はこのように愛嬌もなく、おまけに不器量ときているのに、なぜ「牛深三度行きゃ三度裸、鍋釜売っても酒盛して来い」の俗謡がある程評判になっているかとの疑問が外来者には、起ってくるのである。私はこの質問の矢をまず宿屋の女主人公に放って見た。ところが彼女禅家の問答ぶりよろしく忽ち手を胸にあててこれがちがうと言う表情をした。このパントマイムは蓋(けだ)しここの女は容貌は悪いが、心はどん底まで善根であるとの意味で、解かり易く言えば「芸者の深切雪駄(せった)の皮よ、お金のあるときゃチャラチャラと」というのは普通水仕女(みずしおんな)に適用せられる文句であるが、ここの女は愛嬌がなくとも、そんな薄情もんでない、「一輪咲いても花は花、一夜そうても妻は妻」式なところに本色があると言うのである。
 段々噺(はなし)を聴き見ると、牛深ではお客をお婿、給仕女をお嬶(かか)、またはお嫁と言い、お客と女との関係は夫婦関係となっている。即ちお客の方では、そんな事とは夢にも思っていなくとも女の方ではチャンと夫婦じゃと心得すまして御坐る珍妙な所であるのである。(後編に続く)