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夏目漱石「坊っちゃん」異聞

2013-02-21 17:25:28 | 文芸
 昨日、僕の恩師・平田忠彦先生の息子であり、僕の同級生でもある和彦君が、「父がこんなものを書いているよ」と一冊の本を持ってきてくれた。それは平成11年(1999)度の「熊本県民文芸賞」の入選作品をまとめた作品集だった。僕はその本を見るのは初めてだったが、その中に収められた一篇が、平田先生が書かれた「漱石の『坊っちゃん』を考える」と題する書評だった。つい2週間前、「坊っちゃん」についてこのブログに書いたばかりだったこともあって、その書評に書かれていたことは実に興味深い。その要点を抜粋してみると

 「坊っちゃん」の前半はたしかに松山時代の体験がもとになっていると思われるが、後半は熊本時代の体験がもとになっている。中でも中学と師範との喧嘩の場面などは五高の教授時代に実際に遭遇した事件がもとになっていることは間違いない。松山時代にはこんな事件は起きていない。その事件は漱石が熊本に赴任してから半年後に起きた。五高創立記念大運動会が盛大に行われ、九州各県から招待された中学生のレースも行われた。中でもライバル心が強かった鹿児島尋常中学校と熊本の済々黌中学校との対校レースが行われ、レースは無事すんだものの、その夜、熊本の市街地で両校の生徒による乱闘事件が起き、警察や憲兵まで巻き込む大騒動となった。実はこの頃、漱石は五高教授のかたわら済々黌でも英語を教えていた。乱闘があった場所は漱石が当時住んでいた合羽町からもほど近く、漱石自身がどこかでこの騒ぎを見ていた可能性が高い。それが「坊っちゃん」の乱闘場面でのリアルな表現になっているのではないか。熊本時代の体験をうかがわせる記述は他にもいくつか見られる。
 漱石が「坊っちゃん」を発表した明治39年には、他にも「ホトトギス」、「草枕」、「二百十日」など立て続けに発表しており、「坊っちゃん」は1週間か10日くらいで書き上げたのではないかという評論家もいる。ということは、松山と熊本での様々な体験があったからこそ、書き始めた時にはすでに頭の中で物語は完成していたのではないか。
※写真は漱石が松山から熊本に移る明治29年春に撮影されたもの(当時28歳)