徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

竹久夢二の大正浪漫の世界をYouTubeで

2012-07-16 18:06:25 | 音楽芸能
 僕は5、6年ほど前に規工川祐輔先生の著書「評伝 海達公子」を読んでから、彼女を育んだ大正時代から昭和初期の文化について知りたいと強く思うようになった。規工川先生は直接教わったことはないが、僕が卒業した熊大附中にも在職されたというご縁もあって、先生が永年かかって調べ上げられた資料を見せていただいたり、図書館の文献を調べたり、ネットで情報検索したりしてきた。そんなある日、ネット検索で偶然辿り着いたのが“NAKACO”さんのブログ。ここではそれまでどこでも目にしたことがなかったような大正および昭和前期の文化に関するトリビアを知ることができ、より時代の空気感がわかるようになった。今、“NAKACO”さんのブログと相互リンクを張っていただいているが、“NAKACO”さんは本来イラストレーターのようで、ご自身のサイトやブログで自作のアニメーションなどを公開されているが、このほど、いよいよYouTubeデビューされたそうだ。下の「宵待草(関屋敏子)」などは竹久夢二の大正浪漫の世界を髣髴とさせて不思議な魅力に惹きつけられる。

▼NAKACOさんのサイト


百年前のオリムピック

2012-07-16 14:24:35 | スポーツ一般
 ロンドンオリンピック開会式まであと10日。日本期待のサッカーは2日先行して始まるのであと1週間と迫った。今年はまた日本が初めてオリンピックに参加した1912年のストックホルム大会からちょうど100年という記念すべき年でもある。その初参加した日本選手団2名のうちの一人、金栗四三さんはマラソンで3度世界記録を樹立し“日本マラソンの父”とも呼ばれる、わが熊本の誇るべき大先輩。また、このストックホルム大会では猛暑の中、途中棄権に終わったが、なんとその55年後、54年8ヶ月と6日5時間32分20秒3でゴールインしたというとてつもない記録も持っている。熊本県民総合運動公園陸上競技場の愛称「KKWING」のKKは「金栗四三記念」の略である。
 このストックホルム大会が開かれたのが5月5日から7月27日までというから日本はまだ明治時代、大会直後の7月30日に明治天皇が崩御、時代は大正へと変わる。
 もう一人の日本選手、陸上短距離の三島弥彦さんは100、200、400mに出場、いずれも予選敗退したがスポーツ万能の選手で、ストックホルム大会の日本代表選考会に飛び入り参加し、代表の座を射止めたという逸話の持主。三島さんの父親は旧薩摩藩士で後に警視総監を務めた三島通庸。栃木県令時代に那須野ヶ原を開墾した人としても知られる。僕が那須塩原(当時は黒磯)に在勤していた頃、子供たちを連れてよく遊びに行った西那須野町の千本松牧場というスポットがあるが、その周辺は三島という地区名が付いていた。
 この二人の大先輩から百年。はたして後輩たちはどんな活躍を見せてくれるだろうか。
※写真はストックホルム大会参加当時の金栗四三さん

城下町くまもと ゆかた祭

2012-07-15 16:32:54 | 音楽芸能
 昨日までの断続的な豪雨が嘘のような夏晴れ。今度は猛暑が襲ってきた。昨日から始まっていたのだが、あまりの雨足に出かけるのをためらっていた「城下町くまもと ゆかた祭」を見に行く。上通り、下通り、新市街、熊本城周辺など中心街の各スポットでいろんなイベントが行われている。ゆかた姿の女性があちこちで歩いているのを見ると、やっと本格的な夏がやってきた実感あり。僕のお目当てはびぷれす広場で行われる「ザ・わらべ」および「こわらべ」のステージ。もう熊本の主なイベントに彼女たちの存在は欠かせなくなったようだ。

※Photo4 (Click to Enlarge)

相変わらず華麗な踊りを披露するザ・わらべ
Photo1  Photo2  Photo3

※Photo5 (Click to Enlarge)

こわらべも暑さに負けず元気いっぱい
Photo6  Photo7

お伊勢参りと伊勢音頭異聞

2012-07-14 17:11:47 | 音楽芸能
 江戸時代、数次にわたる「お伊勢参り」(別名お蔭参り)ブームがあったという。お伊勢というのは現在の三重県伊勢市にある伊勢神宮のことだが、日本の総人口が3200万人くらいだった江戸時代後期の天保元年には、年間400万人を超える参詣者があったというから今日の観光事情と比較しても物凄い観光客数だ。熊本藩の参勤交代の記録を見ると、瀬戸内を船旅しても四日市まで20日間ほどかかっている。こんな長旅にもかかわらず国民の10%以上の人が日本全国から伊勢を目指したわけで、今日のパワースポットブームの比ではない。この空前の民の大移動は当然のことながら、文化の伝播をもたらした。先般とり上げた「牛深ハイヤ節」が船乗りなどの限られた層によって各地に伝播したのとは違い、伊勢文化の伝播には各界各層の人々が関わったということができるだろう。

 「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ 尾張名古屋は 城で持つ」

 この七七七五調の歌詞は日本全国どこへ行っても祝事の席など歌われるおなじみの唄だ。「伊勢音頭」といえばまずこの歌詞を思い出すのだが、どうも「伊勢音頭」とはそんな単純なものではないらしいのだ。濱千代早由美氏の「民謡とメディア」という研究論文を引用すると

 伊勢音頭は、神宮を中心とする伊勢地方でうたわれた音頭類の総称である。伊勢地方は、伊勢神宮への参宮客が集まるセンターであったとともに、物資や人の集積地でもあり、歌や芸能も集約されやすかった。願人坊主ら宗教的芸能者、太神楽、旅芸人、音頭取りの交流、神宮への参宮者らを通して、最新の流行、面白い歌詞や踊りを取り入れながら全国に伝播していった。
 伝播していった伊勢音頭は、歌われた時期・用途、歌われ方によって祝い歌・祭り歌・踊り歌・座興歌・宴席歌・労作歌など様々なタイプに分類される。神事系行事のみならず、念仏講等の仏教系行事において歌われる例も見られるが、特にハレの歌として用いられる傾向が強い。用途が様々で、特に伊勢音頭という名称を持たない例も多く、民謡集等から伊勢音頭系の民謡を拾いあげることが難しいほどのバリエーションがある。

 要するに、伊勢参りから各地方に戻った人たちが、たまたま自分が憶えて持ち帰った唄を「伊勢音頭」と称したのでその内容は様々だったということなのだろうか。ここらへんはちょっと「潮来節(曲)」の伝播とも似ているようだ。


伊勢参宮 宮川の渡し(歌川広重)


愛おしき映画たち・・・その8 ~ 旅情(1955) ~

2012-07-13 21:51:47 | 映画
 先日BSプレミアムで映画「旅情」を放送した。いうまでもなくデビッド・リーン監督の不朽の名作で、僕は以前にもこのブログに書いた覚えがあるが、好きな映画を10本選ぶとしたら必ず入れるであろう1本だ。初めて観たのはたしか大学1年か2年の頃、銀座で観たと思う。初公開は昭和30年(1955)なので最初のリバイバル上映だったと思う。僕は小学生の頃から洋画を中心に随分映画館に通っていて、この映画の評判も映画情報誌などで知っていたが、それまでこの映画を観ていなかったということは、多分この映画は「新世界」で公開されたのだろう。当時、熊本には洋画の一番館として「大劇」と「新世界」が通町筋に並んでいた。僕が母親から預かっていたパス券は「大劇」のものだったから、そちらで上映される作品は逃さず観ていた。ディストリビューターの系列で言えば、ワーナーブラザース、MGM、パラマウント、20世紀FOX、コロンビアなどだ。一方の「新世界」はユナイテッド・アーティスツやユニバーサルなどだった。
 そんな話はさておき、この映画の魅力は水の都ヴェニスの風情もさることながら、キャサリン・ヘプバーン演じる50歳を目前にしたアメリカのオールド・ミス(死語?)ジェーンの魅力だ。僕は今まで観た映画のヒロインの中でも最も好きかも知れない。ちょっと気取ってはいるが、階段につっかかったり、運河に落っこちたりと今風に言えば“天然”系。少女のように恋に恋する純真さがちょっとせつない。ロッサノ・ブラッツィ演じるレナトとサンマルコ広場のオープンカフェで初めて出逢うシーンや、最後のデートで「この一瞬一瞬を憶えていたい」と別れがたい心情を吐露するシーンなど、すべてのシーンが秀逸で、これにアレッサンドロ・チコニーニの音楽がかぶってくるとこれはもう名作以外の何ものでもない。

豪雨の朝、思ったこと

2012-07-12 17:41:57 | 熊本

 今朝、わが家から見た打越方面の風景。坪井川がオーバーフローして調整池の方へ流れ込んでいる。テレビでは盛んに「かつて経験したことのない大雨・・・」と繰り返している。被災された方々には本当にお気の毒でお見舞い申し上げたい。しかし、この「かつて経験したことのない大雨・・・」という表現がどうもピンとこない。僕らの世代は昭和28年の“6.26大水害”というのが原体験のように刷り込まれており、どうしてもそれと比較してしまうのである。昭和28年の時も恐ろしいような豪雨が降った。僕は小学2年生だったが、朝起きてから見た光景を今でも鮮明に憶えている。今から60年前の寺原や坪井には上の写真のように建物はなく、木造家屋がまばらに建っている程度だったが、まさに「ここは海か!」と見紛うような光景が広がっていた。ところどころに家の屋根部分だけが顔をのぞかせており、その上に救助を待つ人たちの姿もあった。そしてその人たちを救うべく小舟が何艘かさかんに行き交っていた。多くの犠牲者と甚大な被害をもたらした“6.26大水害”の後、様々な治水対策が行われたおかげか、今回はあの時のようなことにはならないだろう。しかし、まだ今夜も雨が降るというから油断はできない。

牛深ハイヤ節が日本全国に伝播したワケ(2)

2012-07-11 11:55:10 | 熊本
 前編(7月7日付参照)に続き、民俗学者・宮武省三が昭和2年に出版した「習俗雑記」の中の一章「牛深女とその俗謡について」の後編。この中で宮武は牛深ハイヤ節に「牛深三度行きゃ三度裸、鍋釜売っても酒盛して来い」と唄われるほど「海上の楽園」となり得た牛深の秘密に迫っている。つまり、牛深ハイヤ節が日本全国50ヶ所といわれるほど広く伝播した背景には曲の素晴らしさもさることながら、風待ちや時化待ちをする船乗りたちの牛深湊での逗留が他の寄港地のそれとは際立って異なっていたためではないかと推測されるのである。

牛深女とその俗謡について -後編-
   宮武省三著「習俗雑記」より

 さればここでは姉妹同時にこの稼業をさせない。その謂れは既にお客とは夫婦関係成立するに、万一姉妹同志同じ客を争奪する鉢合せでもしたら人倫(じんりん)に悖(もと)ると言う考えからで、同じ肥前でも「瀬戸のならいか松島さほか、姉が妹の客をとる」などという俗謡のある西彼杵郡瀬戸松島あたりに比ぶれば多少女の心得も解しているのである。そしてまた今では女がお客を自分の館へ連れて行くことは出来なくなったが、元は御亭主たるべきお客が宿屋住いは不経済じゃとおっしゃって、長逗留のお客は自宅へ連れ往きて、花婿の御入来とばかりに歓迎したと言う事である。一体天草全島既に然りだがこの牛深も私が大正6年行ったときは戸数1775、男5310人に対して女5637人と言うた程女多産の地で、しかも地は全く農作に適せず海仕事一方の場所柄であるから、この女過産の地では伝来的風習であるかのごとく惣嫁(そうか)でもしなければ甲斐性のない。嫁に行く資格はないように仕込まれてできているのである。そうであるから不器量であろうが、無愛嬌であろうがここでは問題にならない。ただ本能さえ堪能さしたら文句のない嫖客(ひょうかく)にもお嬶の気分で接して人生を味わわしめるという事を繰り返していればよいのである。一度行き二度行き三度と度重なるとこの牛深情調は却ってしかつめらしい大夫(たゆう)買うよりも優に余韻があって面白くなるにちがいない。鍋釜売っても酒盛して来いとの俗謡は、それだから、この消息をよく解した通人の口から自然に湧き出たものと認められるのである。
 大正の今日では出稼ぎの便も自由であるし、女もそうそうこんなつとめをしなくとも口すぎの途はあるのだから、全村挙げて女郎であったような事はないが、それでも尚その遺風と目すべきであろう、ここの現在の娼妓制度なるものが甚だしく風変りに面白く牛深の情調を不十分ながらも漂わしているのである。
 手っ取り早く言うと、ここには現在公許の女郎があっても女郎屋はない。従って牛太郎もいなければ鴇母(やりて)もいない。ただ久玉という町はずれに頗る不景気な待合が設けられてあるのみである。それでは女郎裙どこにどうして御座るかと言えば他国の自前芸者と同じように各鑑札を持って自宅に鎮座ましましているのである。そして人の招きに応じてこの待合もしくは何処へなりと自由に出入りして用を足しているのである。もっとも自宅にいると言っても、「もし眼鏡の旦那はん」式に行人を呼び止める事はしない。またいずこに出入りが出来ると言っても待合外の行先で寝とまりすることは絶対に御法度となっている。要するに女郎の意志はあくまで尊重して自由行動はつとめて大目に見てやるが売春行為だけは待合で神妙にしろという掟になっているのである。
 こう言うと甚だ卑猥に世間風俗を乱しやしないかと想像せられるかも知れないが事実はそうではない。女郎と言っても廓(くるわ)すまいしていないのだからアバズレはしておらず、単に生娘がその筋から鑑札貰って内職していると言うに過ぎないのであるから、何ら大っぴらに世間の耳目に触れるような濫れがましい行動をとる筈はないのである。また別に楼主を持たないのだから女郎本人も稼ぎたくなければ稼ぐ必要もなし、儲ける金も仲介人があれば一割の頭を刎ねられる外、残り全部は自己の所得となるのであるから「お茶ひきや、豆買う銭がない」という俗歌にあてはまるこの社会の苦労は知らずにすんでいるのである。要するに女郎としては最も気楽にイプセニズムの人々からも「是なら」と文句の指しようないように程よく出来ているのである。
 女郎なるものが性欲の調節機関として、……感心したものではないが、一家の雪隠同様無くてはすまされぬものならば私はここのこの制度が一番理想にちかくはありやしないかと思う。よし別嬪がいなくとも、鍋釜売ってもの情調が次第に薄らぎつつあっても牛深は依然海上の一楽園としてレーゾン・デートルがあると信ずるのである。
(注)
 イプセニズム…女性解放思想
 レーゾン・デートル…存在理由

山田五十鈴 ~ 肥後の猛婦の血 ~

2012-07-10 09:09:57 | 音楽芸能
 昭和の大女優・山田五十鈴さんが亡くなった。95歳だったそうだ。熊本は二本木の遊郭で生まれ育った新派俳優の父、山田九州男と大阪の芸者りつとの間に生まれた五十鈴さんの生き様は、どこか“肥後の猛婦”を思わせるものがあった。僕がものごころついた頃には既に大女優として芸能界に君臨し、その凄絶な私生活とともに、数々の映画やテレビドラマなどで魅せる名演技を思い出すと、まさに“大女優”の名にふさわしい一生ではなかったろうか。中でも忘れられない作品をあげると、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」、「どん底」、「用心棒」。溝口健二監督の「祇園の姉妹」、成瀬巳喜男監督の「流れる」など名作揃い。テレビドラマでは大河ドラマ「赤穂浪士」や「必殺」シリーズなど。後生で先にいった娘の瑳峨三智子さんと普通の母子関係に戻ることを祈るばかりだ。合掌。

暑中お見舞い申し上げます ~ 喜多條忠にまつわる話 ~

2012-07-09 18:13:34 | 音楽芸能
 珍しくNHK-FMを聴いていたら、「ミュージック・プラザ」という番組の中で作詞家・喜多條忠(きたじょうまこと)をフィーチャーしていた。僕ら昭和世代には懐かしい名前で、主な作品には、かぐや姫の「神田川」、「妹よ」、「赤ちょうちん」。キャンディーズの「やさしい悪魔」、「暑中お見舞い申し上げます」。柏原よしえの「ハローグッバイ」。梓みちよの「メランコリー」などがある。
 この喜多條忠氏、実はこのブログでも度々取り上げている少女詩人・海達公子の遠縁にあたる。喜多條家は徳島県旧阿部村(現美波町)の出身で大阪に出て海産物の問屋として成功した。この喜多條家と海達家との関係について「評伝 海達公子」の中で著者・規工川祐輔は次の様に述べている。
 
 もともと、松一(公子の父)の父親為吉は、阿部の名門喜多條家十三代島之助の三男俊蔵の子で明治24年6月、婿養子として海達キクと結婚している。喜多條一家は阿部でも有力な人材を輩出している。瑞穂(十八代)の父、中(あたる)は「海達公子嬢遺稿集」(昭和8年5月刊)の序文を書いている。文学に理解のある方で「同じ血潮の流れから傑出した児を見出して将来に多大の待望をしていたそれも儚なき泡と消えていまは記念の追憶のみに泣くより外なき仕末転々同情に堪えず(以下略)」と格調高い文章で草している。中は明治42年から阿部郵便局長に就任、大正元年から阿部尋常小学校長を兼務している。・・・(中略)・・・松一が、文学に関心を抱き、後に童謡や短歌を創作する資質を持っていたことは、中などの影響や刺激が多分にあったことにかかわるものと思わざるを得ない。喜多條家一門の中には、大阪で海産物の大きな問屋を営んでいた者もいる。阿部出身の行商者たちは行動範囲も広く、経済的にも豊かな家庭が多く、都会の空気に触れ、情報を早く摂取する気風を持っていた。

 また、徳島の民俗学者・岡田一郎はその著書「阿波のいただきさん」の中で喜多條家の出自について次のように述べている。

 藩政時代にはいり、代々この村(阿部村)の庄屋をつとめた喜多條氏は、北条早雲の後裔で、喜多條の姓は北条の変形したものであると伝えられている。

 そんな縁がある海達公子にはもう一つ、不思議な縁があって、彼女に強い影響を与えた児童文学者・詩人の輿田準一(よだじゅんいち)の息子・準介は橋本淳というペンネームで「ブルー・ライト・ヨコハマ」など数々のヒット曲を世に出した作詞家である。やっぱり「才能に故あり」ということなのか。


サマーレスキュー ~天空の診療所~

2012-07-08 22:44:39 | テレビ
 このところテレビドラマはほとんど観てなかったのだが、今日からTBSで始まった「サマーレスキュー ~天空の診療所~」はオノマチが出るっていうんで観た。第1回目というのは登場人物や背景などの設定を理解することで終わったという感じだが、芸達者が揃っているし、何と言っても美ケ原高原や周囲の八ヶ岳山系の山々の景色を眺めているだけでも楽しい。2回目以降が楽しみだ。おまけに第1回目のゲストになんと“映美くらら”さんが出て来たではないか!ラッキー!

牛深ハイヤ節が日本全国に伝播したワケ(1)

2012-07-07 22:39:22 | 熊本
 牛深ハイヤ節は全国ハイヤ系民謡の源流だといわれる。牛深は天然の良港として江戸時代から明治初期にかけて海道の要衝であり、行き交う廻船の船乗りたちが聞き覚えた唄や踊りを日本各地に伝えたといわれる。それはたしかにそうなのであろう。しかし、廻船の寄港地は全国何十箇所とあり、それぞれの港にも民謡はあったはずだ。なのになぜ牛深のハイヤ節が特別だったのだろうか。たしかに奄美系といわれるアップテンポの六調は魅力的な音楽であるが、それだけではどうも説明できないような気がするのである。
 そこでその背景を探る手がかりの一つとして、昭和2年に出版された民俗学者・宮武省三著「習俗雑記」の中に探ってみた。これは大正時代に宮武が牛深に赴き、現地で見聞きした内容をまとめたものである。今日では不適切と思われる表現も散見されるが、作者の意図を尊重しそのまま掲載した。なお、原文を新仮名使いに変えてみたが、わかりにくい部分があるのはご勘弁を。

牛深女とその俗謡について -前編-
   宮武省三著「習俗雑記」より

 牛深と言っても知る人は少なくなかろうが、九州をぶらついた方なら直ぐウンあの鰯と給仕女との名所かと天窓(あたま)に響くところである。地は天草下島の南端にある一小港で、北九州方面からすると宇土線乗換え三角(みすみ)に出で、ここで牛深行汽船に塔ずれば沿岸の諸港をへて海上七時間で行かれるところである。このように邊陬(へんすう)な地であるけれど「牛深三度行きゃ三度裸、鍋釜売っても酒盛して来い」と言う俗謡でその名を知られた女の評判な所で、未だ足踏(あしぶみ)しない者にはこの俗謠を聞いただけでもなんだか歓楽気分の溢れるあるいは「二度と行くまい丹後の宮津」式に縞の財布を空にしなければおさまらない所ではないかと想像されるのであるが、さて行って見るとその予想は全く裏切られて頗る無粋極まる殊にここの女ときては至ってウブな、馬鹿正直な、男を槍玉にあげる能は更にない、そして無愛嬌な点にかけては決してヒケを取らぬ珍無類の女の国であるに驚かされるのである。
 総じて九州路でも肥前肥後の女は格別朴訥で、天草女と対立してその名を知られる島原女も「わたしゃ肥前の島原そだち、剛毅朴訥ありのまま」という俗謡がある程無骨であるが、それでも、まだここの女は評判だけに愛嬌もよく男を魅する力があるに一方、この天草女殊に牛深女ときては全く俗謡の意義が判らぬほど無愛想に、そして別にこれという取柄のない女であるに気付かるるのである。今少し序(ついで)に、島原女と牛深女とを比較して見ると、島原女は後朝(きぬぎぬ)の別れに背中をポンと叩く吉原のやさしさがあるにひきかえ、牛深女は「岡場所はくらわせるのが、いとま乞(ごい)」式の根津や音羽辺の荒素振がなくとも、頗るブッキラ棒であることはいかに贔屓目(ひいきめ)に見ても感ぜられるのである。また第一容色(きりょう)の点から言っても幽邃(ゆうすい)な眉山(まゆやま)の麓、清冽な音無川の水で育った島原女には飛びつくほどの別嬪が多いのも無理ないが、悪水も悪水、天下無類の悪水の牛深に情けない程美人のいない事も説明を要するまでもないのである。
 そこで牛深女はこのように愛嬌もなく、おまけに不器量ときているのに、なぜ「牛深三度行きゃ三度裸、鍋釜売っても酒盛して来い」の俗謡がある程評判になっているかとの疑問が外来者には、起ってくるのである。私はこの質問の矢をまず宿屋の女主人公に放って見た。ところが彼女禅家の問答ぶりよろしく忽ち手を胸にあててこれがちがうと言う表情をした。このパントマイムは蓋(けだ)しここの女は容貌は悪いが、心はどん底まで善根であるとの意味で、解かり易く言えば「芸者の深切雪駄(せった)の皮よ、お金のあるときゃチャラチャラと」というのは普通水仕女(みずしおんな)に適用せられる文句であるが、ここの女は愛嬌がなくとも、そんな薄情もんでない、「一輪咲いても花は花、一夜そうても妻は妻」式なところに本色があると言うのである。
 段々噺(はなし)を聴き見ると、牛深ではお客をお婿、給仕女をお嬶(かか)、またはお嫁と言い、お客と女との関係は夫婦関係となっている。即ちお客の方では、そんな事とは夢にも思っていなくとも女の方ではチャンと夫婦じゃと心得すまして御坐る珍妙な所であるのである。(後編に続く)

宮本武蔵と泰勝寺

2012-07-05 18:16:14 | 熊本
 今日の昼、BSプレミアムで映画「宮本武蔵」を放送していた。1973年の高橋英樹版「宮本武蔵」だった。三船敏郎版や中村錦之介版は見ているが、これは見ていなかったので、全部は見れなかったが後半部分を見た。面白かったのは沢庵和尚を笠智衆さん、細川忠利公を浜畑賢吉さんという熊本ゆかりの俳優さんが演じていたことだ。もっともこの映画(原作・吉川英治)における武蔵と忠利公や沢庵和尚との接点はすべてフィクションで、武蔵が忠利公の客分として肥後細川藩にやってくるのはもっと後のことだし、沢庵和尚とも直接の接点はなかったらしい。それに関して郷土史家の鈴木喬先生が生前次のようなお話をされている。話は武蔵と泰勝寺の関わりについてであるが、武蔵と沢庵和尚に間接的なつながりがあったことがわかる。
 なお、泰勝寺には歴代住職の墓地の傍に、宮本武蔵の供養塔といわれる五輪搭がある。

▼宮本武蔵と泰勝寺(郷土史家・鈴木喬先生)
 泰勝寺というのは細川家の菩提寺ですよね。忠利公が小倉から熊本に来る時にお祖父さん(藤孝公)とお祖母さん(光壽院)とお母さん(玉子=ガラシア)、この三人をあそこに祀るんですね。それでお祖父さんの戒名である泰勝院を使って「泰勝院」と名付けました。で、お父さん(忠興公)は八代に行っているんですが、お父さんはお父さんで自分の父を祀る所を八代に作って同じく「泰勝院」と名付けるんですね。ですから「泰勝院」が二つできるわけです。その後、忠利公の方が先に亡くなるわけですが、忠興公が亡くなると、次のお殿様(光尚公)が八代の方を廃し、熊本にまとめて「泰勝寺」とするわけです。細川家にとって初代夫妻と二代目夫妻を祀った一番大事なお寺ですから、そこのお坊さんには一流のお坊さんを連れてくるわけですね。最初は沢庵禅師に来てほしかったらしいのですが、なにしろ沢庵禅師は将軍様(徳川家光公)のお声がかりなので無理ということで沢庵禅師のお弟子さん(大淵玄弘)を連れてくるんですね。そのご住職と武蔵はとても親しい。そしてそのお弟子の春山和尚とも親しくなります。まだ若いけれど利発だったから武蔵も楽しかったのでしょう。とても親しくなります。武蔵にとって泰勝寺は、殿様の菩提寺であることやご住職とその弟子とも親しかったということもあってしょっちゅう足を運んだことでしょう。ですから武蔵が死んだ時は大淵和尚に引導を渡してもらったという引導石が入口に残っています。そういうわけで武蔵と泰勝寺は深い縁があるわけですね。
▼武蔵の引導石

土井杏南 ロンドン五輪へ!

2012-07-04 13:35:54 | スポーツ一般
 ロンドン五輪の陸上女子400メートルリレーに日本が出場権を獲得し、リレー要員の一人として土井杏南(埼玉栄高2年)が正式に選ばれた。先般の日本選手権100mでも福島千里に次いで2位に入っているので土井選手が出場するのは確実とみられる。
 普段は熊本期待の野林祐実(九州学院2年)の前に立ちはだかる選手として、正直なところ、うとましい存在なのだが、このニュースは素直に嬉しい。なぜなら野林選手にとってもこれ以上ないモチベーションになるに違いないと思うし、より目標が明確化したと思う。僕はもともとアスリートとしては土井選手は好きなタイプだ。先行型でファイティングスピリット旺盛だし何より明るい。ロンドン五輪でも臆することなく十分に力を発揮するだろう。これが野林選手の飛躍につながってくれればこれほど嬉しいことはない。

 
小学校・中学校からライバルだった土井杏南と野林祐実

和水町(なごみまち)古墳祭

2012-07-03 20:21:54 | 熊本
 玉名郡和水町の真夏の風物詩「古墳祭」が今年も8月1、2日の両日、江田船山古墳公園一帯で行われる。国指定の史跡、江田船山古墳は、5世紀末から6世紀初頭に築造されたといわれる。まだ三加和町と合併する前の菊水町で昭和46年から始まったこの祭りは、熊本夏の三大火祭りといわれている。この祭りのハイライトは「炎の宴」。古代衣装を身にまとった町民による松明行列や卑弥呼の舞、古墳踊り、巨大かがり火への点火、花火大会などが行われる。そして今年の注目は「炎の宴」の総合演出を中村花誠さんが担当されることだ。従って「ザ・わらべ」も出演予定。どんな宴が繰り広げられるか楽しみだ。

※下図をクリックすると大きなサイズが見られます。左がリーフレットの外側、右がリーフレットの内側
 

くまもとフィルムコミッションの今後に期待!

2012-07-02 17:52:50 | 映画
 くまもとフィルムコミッションの業務をようやく行政が直接行なうことになったようだ。これまでは青年会議所の中のボランティア活動だったのでどうも今一つ動きが鈍く、他県におくれをとっていた面は否めない。これからは熊本市関連は熊本市が、熊本市以外は熊本県がやることになったという。熊本市では数年前から「わくわく都市くまもと」のシティブランディング活動を始めているが、このフィルムコミッションはとても有効な手段だと思う。映画やドラマのロケ地となっただけで、それまで日が当たらなかった土地が突然、観光スポットとして大化けした例はいくらでもある。例えば山口県下関市の角島などはその典型的な例だ。僕がくまもとフィルムコミッションのお手伝いをした「BALLAD 名もなき恋のうた」や「信さん 炭坑町のセレナーデ」のロケからもう4年経った。さて、体制を立て直したくまもとフィルムコミッションが成果をあげられるだろうか。ちょっと楽しみではある。
※右は阿蘇でロケを行った「BALLAD 名もなき恋のうた」