徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

江戸時代版「女性の品格」

2013-02-13 18:23:35 | 歴史


言聲(ものごし)

女の声高(こわだか)に 物かづおほく
いふ中に はやり詞(ことば)
遊女めきたる たわむれに
人のよしあし
つくり声なとは
心ばえ 見おとり
せらるゝものから
つゝしみたまふべし

≪大意≫
 女性が声高で口数が多く、話の中に、はやり言葉や遊女のような戯言がまじっていたり、他人の陰口やつくり声などは心配りのない下劣な人と思われるからつつしむべきである。

 これは明和2年(1765)に石川豊信によって書かれた女性の教養本「絵本江戸紫」の一部分である。いわば江戸時代版「女性の品格」とでも言ったらいいだろうか。内容は女性の立居振舞や化粧、服装など広範にわたっている。ザ・わらべの舞台などを見に行くと、周囲は年齢高めの女性たちが圧倒的に多いが、演舞中であろうとなかろうとおかまいなしのおしゃべりには閉口する。そんな時、よくこの「絵本江戸紫」のことを思い出し、今も昔も変わらないんだろうなぁと思うのである。


柳川小路物語 ~ 小野和泉からオノ・ヨーコまで ~

2013-02-12 16:16:29 | 熊本
 わが家から5~60メートル西に、昔、「柳川小路」と呼ばれていた南北に走る道路がある。熊本市の資料には「柳川小路(やながわしゅうじ)」とルビをふってあるが、これは明らかに熊本の訛りを採用したもので、本当は「しょうじ」だったのだろう。僕の祖母は普段「柳川丁」と言っていたので、「柳川丁」と呼ばれた時代があったようだ。「柳川」というのは筑後の柳川のことで、関ヶ原の戦で西軍に与し、関ヶ原後改易となった柳川(柳河)藩の家臣団を、柳川藩主だった立花宗茂と親しかった加藤清正が預かり、この地区に住まわせたことからこの名がついた。しかし今ではかろうじてバス停「京町柳川」の名にその名残りが残るのみとなっている。
 この加藤清正に召し抱えられた柳川藩家臣団のリーダーが、戦国時代に勇名を馳せた小野和泉(おのいずみ)こと小野和泉守鎮幸(おのいずみのかみしげゆき)という武将だ。加藤清正にもその豪胆かつ周到で率直なところを高く評価され、知遇を得ていたと言われる。立花宗茂はほどなく肥後を離れ、浪人となって京に上り再起を期す。そして、その実力を高く評価していた徳川家康のバックアップや大坂の陣での働きなどもあって、柳川藩主へ奇跡のカムバックを果たす。一方の小野和泉はその朗報を聞くこともなく熊本で没した。時に62歳。柳川藩復活後、家臣団は柳川へ戻ったが「柳川小路」の名は残った。
 小野和泉が没して360年後、その子孫がトンデモナイところで世界の耳目を集めることとなる。それがビートルズのジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコ(小野洋子)だった。わが家の近くの小さな通りにもゆかりをたどって行くと面白い物語があるものだ。


東の柳川小路(柳川丁)


小野和泉の墓がある本妙寺塔頭・東光院


ジョン・レノンとオノ・ヨーコ(篠山紀信撮影)

ガンバレ!氷上のなでしこ

2013-02-11 19:40:57 | スポーツ一般
 日本女子アイスホッケーチームがソチ五輪の出場権を獲得したというニュースは、50年近いアイスホッケーファンである僕にとってとても嬉しいニュースだった。長野五輪(1998)以来の出場というが、長野の時は地元開催枠での出場なので、実質的には初出場と言ってもいいくらいの快挙だと思う。
 僕がアイスホッケーのファンになったのは大学在学中で、5チーム(西武鉄道、王子製紙、古河電工、岩倉組、福徳相互銀行)による日本アイスホッケーリーグがスタートした頃だった。中でも西武のファンで試合もよく観に行った。就職してからは、東京勤務の時は会社帰りに品川プリンスホテルのアイスアリーナへよく観戦に行ったものだ。その西武のアイスホッケーも2009年に廃部となり、永年西武が支えてきた日本のアイスホッケーも国際的には低迷が続いている。そんな寂しい思いの中で一条の光を見た気がしたのが今回の女子アイスホッケーのニュースだった。そしてこの日本代表チームの中には、かつての西武のDNAを受け継ぐ「SEIBUプリンセスラビッツ」のメンバーも数名含まれている。
 サッカーのなでしこジャパンに追いつけ追い越せ! あと1年後のソチ五輪での活躍を祈っている。

会津弁がマイブーム!

2013-02-10 20:47:18 | 歴史
 毎週、大河ドラマ「八重の桜」を見るのが楽しみだ。なかでも綾瀬はるか扮する八重の会津弁がお気に入りだ。いわゆる東北弁なので濁音が多いのだが、そこさえ気を付けていれば案外わかる。語尾の「・・・なし」とか「・・・やした」とか「・・・なんしょ」とかが愛らしく感じる。特に好きな言葉は「さすけねぇ」。標準語の「さしつかえない」という意味だが、独特の味わいがある。
 会津若松は僕にとって、高校1年の時、初めて国体に参加した思い出の地。栃木県の那須塩原(旧黒磯)に勤務していた頃、車で3、4回行った。たしか1時間半くらいで行けたと思うが、ある時、知人が那須旅行で訪ねてきてくれた時は、せっかくここまで来たんだから会津若松までお行きよ、と言って連れて行ったこともある。会津若松へ行くと必ず食べていたのが、鶴ヶ城のすぐ近くにあった料理店の京懐石弁当。京都守護職にあった会津藩に今も伝わる京料理というのがうたい文句になっていた。大河ドラマで、会津藩の人々がどんなつらい決断で京都守護職を拝命したかを知り、軽々しく食べていた自分を今頃になって反省している。
 下の映像は、僕の先輩である村山憲三さんが、昭和36年(1961)の会津若松国体の様子を写した貴重なフィルムである。今から52年前、鶴ヶ城内にあった宿舎の西澤別館からバスで試合会場の会津若松市立第一中学校に向けて移動する様子が映っている。途中、会津若松市内で歓迎を受ける様子を懐かしく想い出す。


山鹿灯籠浪漫 百華百彩

2013-02-09 21:36:28 | 熊本
 夕方から山鹿市の冬のイベント「山鹿灯籠浪漫 百華百彩」を観に行く。土曜日とあって見物客が多い。夕暮れとともに灯籠にろうそくの灯がともり、灯籠と和傘の町・山鹿が幻想的な雰囲気につつまれる。夏の「山鹿灯籠まつり」とはまたひと味違った風情を楽しんだ。昨年11月に復元された「さくら湯」の座敷を使って行われた“ザ・わらべ&こわらべ”の舞踊も祭りの雰囲気を一段と盛り上げていた。










草の芽の便りきいたか・・・

2013-02-08 20:21:06 | 音楽芸能
 今日は今年一番というぐらいの寒さが身にしみた。先週いったん暖かくなったからよけいこたえたような気がする。春らしい温暖な日々が早く戻ってきてほしいものだ。そんな中、わが家の庭の「ふきのとう」が可愛らしい顔をのぞかせている。
 毎年この時期になると端唄「草の芽」が聞きたくなる。

▼草の芽 (作詞・作曲 初代藤本秀丈)

♪ 草の芽の 便りきいたか 土筆の坊や
  春を知らせに 袴を着けて

♪ 草の芽に 香り尋ねて お濠の鯉が
  蓮に頬寄せオオ ヒラヒラと

♪ 草の芽は すみれタンポポ 蓮華にアザミ
  せりに菖蒲に よもぎにハコベ

※下の映像は昨年5月のものだが、ビデオカメラの調節が間に合わず、白飛びしているのはご勘弁を。


立方:ザ・わらべ
地方:藤本喜代則と喜代則社中/中村花誠と花と誠の会

夏目漱石「坊っちゃん」と 俗謡「さのさ」

2013-02-07 16:29:42 | 文芸
 今日は税申告関係の書類を取りに市役所まで歩いて行った。途中、「夏目漱石内坪井旧居」の前を通るので帰りに立ち寄ってみた。中に入るのは何年ぶりだろう。いつでも行けるところは案外行かないものだ。実は最近「坊っちゃん」を再読したので寄ってみようという気になったというわけだ。そしてその再読してみようと思ったきっかけが、最近、ネット上で見つけた「明清楽」についてまとめたサイト。加藤徹さんという方のホームページの中に「明清楽資料庫」というページがあった。「明清楽」というのは幕末の頃、中国(当時の清国)から長崎に伝来したという音楽のことだ。日本の民謡・俗謡の中には、この「明清楽」がもとになってできたものが数多いという。その「明清楽資料庫」の中に「さのさ」のことが紹介されており、「坊っちゃん」の中にその一節が出てくると書いてあった。あれ、そんなのどこに書いてあったっけ、と思い、さっそく「青空文庫」で「坊っちゃん」を再読したというわけだ。それは「うらなり」が宮崎の延岡へ飛ばされる時の送別会の場面に出て来た。

 すると、いつの間にか傍へ来て坐った、野だが、鈴ちゃん逢いたい人に逢ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らず噺し家みたような言葉使いをする。知りまへんと芸者はつんと済ました。野だは頓着なく、たまたま逢いは逢いながら……と、いやな声を出して義太夫の真似をやる。おきなはれやと芸者は平手で野だの膝を叩いたら野だは恐悦して笑ってる。この芸者は赤シャツに挨拶をした奴だ。芸者に叩かれて笑うなんて、野だもおめでたい者だ。鈴ちゃん僕が紀伊の国を踴るから、一つ弾いて頂戴と云い出した。野だはこの上まだ踴る気でいる。
 向うの方で漢学のお爺さんが歯のない口を歪めて、そりゃ聞えません伝兵衛さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に済したが、それから? と芸者に聞いている。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物を捕まえて近頃こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや――花月巻、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。

 この朱書きの部分がそうなのだが、僕は一瞬、これは「自転車節(ハイカラ節)」じゃないの?と思った。しかし、調べてみると「ハイカラ節」が流行するのはもっと後の時代のようだ。「さのさ」は日本各地で歌詞や旋律をさまざまに変えて唄われたというからこんな歌詞もあったのだろう。漱石が「坊っちゃん」を書いたのは明治39年、松山を去ってから10年も後のことだ。しかも松山にいたのはわずか1年。小説の舞台は松山になっているが、登場人物やエピソードなどには熊本時代の想い出も含まれているのかもしれない。


夏目漱石内坪井旧居


漱石が熊本赴任時「森の都だ!」と言ったと伝えられる新坂(前方右側が漱石ポイント)


▼ザ・わらべが踊る「さのさ」

熊本 春の話題二つ!

2013-02-06 14:00:18 | 熊本
1.「くまもとで、まってる。」の続編
 九州新幹線の全線開業にあわせ、脚本家の小山薫堂さんのプロデュースで作られた熊本のプロモーションフィルム「くまもとで、まってる。」の続編が作られることになったという。このフィルムが制作されたのは一昨年。「秋のくまもとお城まつり」会場で最終撮影が行われた時はちょうど僕もその場に居合わせた。YouTubeにアップされた同フィルムはこれまでに7万回以上再生されている。続編ではアイデアを一般の人から募集したり、フィルムを映画館で流すことなども検討されているという。



2.「城下町くまもと時代絵巻」のイベント分離化
 昨年初めて行われた「城下町くまもと時代絵巻」が今年も開催されることは先日もこのブログに書いたが、今年はステージイベントと時代絵巻行列が分離され、二日間にわたって時代絵巻が繰り広げられるようだ。
 4月6日(土) 時代絵巻くまもとをどり 二の丸広場
 4月7日(日) 時代絵巻行列 コース未定
 詳細はまだ発表されていないが、昨年を超えるスケールアップを期待したい。

▼昨年のステージイベントの模様(写真:HIROさん提供)





くまモン現象のすごさ!

2013-02-05 11:48:53 | 熊本
 わが家では「ファミリーニュース」なるものを隔月で発行している。昭和60年(1985)に父が手書きで始めてからもう28年になる。各地に住むファミリーから近況をメールやFAXで連絡してもらい、僕と妻の二人でそれをまとめてパソコンで編集する。
 最新号に、東京に住む従姉からこんな便りが届いた。

 銀座のアンテナショップ「熊本館」以前は商品が少なく、人も少なくガッカリしましたが、今はくまモン君の人気もあるのか、店内に入れない程、入っても混雑でろくに見ることも出来ません。多分寄ってみた曜日も悪かったのだと思います。くまモン君は米国でも知られている様ですね!ニュースで見たのです。笑ってしまいました。

 いやはや、くまモン現象ってすごいものがあるんだなとあらためて知らされた。

魚屋町三丁目十三番地 上村元三商店

2013-02-04 16:14:23 | 熊本
 熊本市の中でも古町(五福、慶徳校区)という地区は一風変わっている。考古学の富田紘一先生が書かれた「城下町みてある記」によれば「町割がまるで奈良や京都の町のように南北と東西の道路が碁盤の目のように整然としている。もともと城下町では、敵の侵入に対して見通しが利かないような道筋になっているが、この一帯は加藤清正公の隈本城時代から一貫して町人町だったところで、流通を優先した都市設計になっている。そして、ほぼ正方形の区画の中央には寺院が配置されている。町の名前には呉服町・米屋町・魚屋町などの商品に由来するところ、鍛冶屋町・大工町・細工町など職種に起源を持つのが多いのも特徴。同様な町名は、むかし町人町であった新町や坪井にもあったが、今ではそのまま残っているのは古町だけになっている。」という。
 そんな古町地区の魚屋町3丁目の一角に、日ごろお世話になっている「上村元三商店」がある。かつての金物卸問屋から、時代の変化とともに変遷を重ね、現在の店主元三さんになってからは出張バーベキューの企画運営や予約制居酒屋などのサービス業、さらにはキャンドルショップと多角的な事業展開を図っている。昨年、熊本市では城下町の景観を残す新町・古町地区の街並みを保全する「城下町づくりモデル街区」と「町屋認定制度」が創設されたこともあり、このほど「上村元三商店」でも、かつての景観を復元すべく改修工事を行なうことになったという。古町の名案内人としても知られる元三さんにとって、おそらく“第二の創業”の心意気を示す工事なのだろう。完成が楽しみだ。

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元三さんと奥様の敏子さん


いつも仲間の笑顔が絶えない上村元三商店


はつうま&節分&恵方巻

2013-02-03 20:07:54 | 熊本
 今日は快晴で気温も16℃まで上がり、まるで春真っ盛りのよう。熊本城稲荷神社では初午大祭の福迎え御神幸行列が行われたので午後から見に行った。ザ・わらべ&こわらべのメンバーも例年どおり参加し、上通りから下通りの道行きで「くまもと音頭」などの踊りを披露し、 街行く人々の喝采を浴びていた。家へ帰るとホテルKTに勤める姪がホテル特製の恵方巻セットを持ってきてくれていた。今日は節分でもあったことを思い出した。五色巻と海の幸のトルティ-ヤがセットになっており、なかなか美味だった。

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“石橋” 三題話

2013-02-02 18:14:34 | 音楽芸能
1.石橋(しゃっきょう)もの
 昨夜のEテレ「にっぽんの芸能 芸能百花繚乱」では「石橋の世界」と題して、様々な獅子の芸能の原点でもある「石橋(しゃっきょう)」を、能と地唄舞で紹介した。中国の仏跡を巡る修業の旅を続ける寂昭法師が清涼山にある石橋付近に着くと、ひとりの少年が現れ、橋の向こうは文殊菩薩の浄土であると告げる。この橋がかかる谷は数千丈、長さ三丈余、幅一尺足らずで容易に渡れるものではない。つまり、仏道修行の困難を示唆して姿を消す。やがて、橋の向こうに霊獣である獅子が現われ、咲き誇る牡丹の花に戯れながら舞う。という内容の能がもととなり、歌舞伎や舞踊に獅子の舞として取り入れられた。これらの獅子の芸能を総称して「石橋もの」という。


2.熊本の石橋
 熊本には江戸時代から明治時代にかけて造られた石橋が数多く残されている。これは林七を始祖とする石工集団「種山石工」などの優れた技術者集団がいたからともいわれている。これらの石橋めぐりが結構人気のツアーになっているようで、NHK熊本放送局では、「くまもとの石橋」という2分のショートムービーで毎月ひとつづつ石橋を紹介する番組を放送している。また、このショートムービーはNHK熊本放送局のホームページでも視聴することができる。
NHK熊本「くまもとの石橋」


美里町の釈迦院川にかかる二俣渡。橋のアーチと影でハートの形に見える「恋人の聖地」として人気のスポット


3.石橋の要石(キーストーン)
 石橋のアーチの頂上部分には必ず、要石(かなめいし、keystone)と呼ばれる建築要素がある。僕が28年間勤務したブリヂストンに入社した頃のロゴマークは、このキーストーンをかたどったものだった。それは創業者である石橋正二郎の名前からきている。「石橋」を英語化して「ブリヂストン」という社名にし、さらに「社会の要石」になりたいという願いを込めたものだった。このロゴマークは創業した1931年から1981年までの50年間使われた。
 

今年の「城下町くまもと時代絵巻」は4月7日(日)!

2013-02-01 19:05:19 | 熊本
 昨年初めて行われたスペシャルイベント「城下町くまもと時代絵巻」は、当初は一昨年の九州新幹線全線開業に合わせて行われる予定だったが、直前に発生した「東日本大震災(3.11)」のために1年延期され、昨年3月31日にやっと実施された。新年が明けても何のアナウンスもなかったので、今年は行なわれないのかと思っていたが、どうやら4月7日(日)に実施されることが決まったようだ。実施内容についてはまだ実行委員会で検討中だそうだが、準備期間が短いことや桜の開花期間が気になるところ。
 具体的な実施内容の発表を楽しみに待ちながら、昨年の様子を振り返ってみたい。

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俳優の藤岡弘さん扮する加藤清正公率いる200人の甲冑行列に沿道の観衆が沸いた。


熊本の歴史を彩った偉人たちも人力車で登場


山鹿灯籠踊りの灯籠娘も登場。「よへほ節」に合わせ艶やかな踊りを披露


人気の少女舞踊団ザ・わらべは肥後六花をモチーフとした「肥後の花娘」を披露