徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

世界文化遺産と島原の乱

2015-01-16 20:15:18 | 歴史
 政府が、熊本県天草市の崎津などを含む「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を、来年の世界文化遺産への登録を目指してユネスコに推薦書を提出することを正式に決めたというニュースがテレビで流れていた。日本人にとってこの地域は「島原・天草の乱」と切り離して考えることはできない。
 肥後藩は藩主細川忠利が2万3500の大軍を率い、幕府軍でも随一の戦果をあげたといわれるが、肥後藩だけでも二千名を超える死傷者を出した。横手町の安国寺には戦死者を追悼する「有馬忠死碑」が建てられている。
 昭和56年(1981)に父が改葬する前、立田山のわが家の墓所には二基の苔むした墓石があり、その一つには「島原之乱戦死 十五代之孫之墓」と刻まれていた。古いご先祖が島原の乱で戦死していることは間違いない。日本の歴史上最大の一揆、幕府軍・一揆軍合わせて4万人を超える犠牲者を弔う意味でも、この遺産群にスポットライトが当ることを願っている。


崎津港と崎津教会


信長公と幸若舞

2015-01-15 21:23:25 | 歴史
 昨年暮、おてもやんの生みの親・永田いねさんのお墓参りをするため下通の泰厳寺を訪れた。
 この泰厳寺は細川家ゆかりのお寺で、門柱の前にこんな石碑が立っている。

「右大臣信長公 宮本武蔵 御霊位安置所」

 つまり、織田信長と宮本武蔵の位牌を安置している所ということである。残念ながら位牌の現物は戦災で焼失したらしいが、そんな由緒ある寺であることを証明する石碑とでも言ったらよいだろうか。
※写真はクリックして拡大できます


 もともと泰巌寺は、細川忠興が織田信長の菩提を弔うため丹後国宮津に創建した寺。その後、豊前国移封、さらには嗣子細川忠利の肥後熊本藩移封に伴い、泰厳寺も宮津から小倉へ、小倉から忠興の隠居地八代へと移された。明治時代に入り廃寺となったが、その後熊本で再建された。泰厳寺という名前は信長の法名からつけたというほど忠興の信長に対する尊崇の念は強かったようだ。

 その信長のエピソードとしてよく語られるのが、出陣の舞「敦盛」。

「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」

という詞章が有名だが、これは謡曲ではなく「幸若舞」。来る1月20日、みやま市の大江天満神社で行われる「大江幸若舞」は現存する唯一の「幸若舞」である。


安田靫彦 出陣の舞

梅の花と胡蝶

2015-01-14 17:07:41 | 音楽芸能
 わが家の梅の木が雨に打たれながら小さな蕾をいっぱいつけている。今年も可愛い花を咲かせてくれそうだ。(写真は去年の様子)
 能に「胡蝶」という演目がある。旅の僧が梅の花を眺めていると、胡蝶の精が現れ、春夏秋の花には戯れることができるが、早春に咲く梅の花には縁がないと嘆く。しかし、法華経の功力により梅の花にも戯れることができたと喜び、胡蝶の舞を舞い消える、という内容。
 この能のもとになったのは平安時代に始まったという舞楽(舞をともなう雅楽)の「胡蝶楽」だという。歌舞伎舞踊の「胡蝶」もこの「胡蝶楽」をモチーフにしている。「春興鏡獅子」の中で禿(かむろ)姿の2人の愛らしい少女(少年)によって踊られる。梨園の子女が初舞台を踏む時などによく演じられるようだ。


花童くるみ卒業公演より 「胡蝶」 花童あかね・花童ゆりあ


栗田弘一氏撮影

「五足の靴」 随想 ~ 吉井勇 ~

2015-01-13 20:08:36 | 文芸
 「五足の靴」というのは、明治40年(1907)7月下旬から8月末の間、歌人与謝野寛(鉄幹)が、まだ学生だった木下杢太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を引き連れ、九州を中心に各地を旅行した時の紀行文である。
 8月12日には汽車でやって来た5人が、わが家の最寄駅、上熊本駅に降り立ったことが地元メディアでもよく紹介される。
 今回、この中の一人、吉井勇にスポットを当ててみた。吉井は大正・昭和期の歌人、劇作家として知られるが、五人が天草を訪れた時の吉井の歌
白秋とともに泊りし天草の 大江の宿は伴天連の宿
は、現地、天草市天草町大江に歌碑が建てられている。

 吉井がまだ若かった大正モダニズムの時代、大阪には才能ゆたかな女性文化人がたくさんいた。島成園や木谷千種などを始めとする女性画家たちや女性歌人では与謝野晶子などが活躍していた。そんな大阪の女性文化人を眺める吉井の眩しげな視線が感じられるこんな歌を、大正9年(1920)発行の「夜の京阪」の中に発表している。
女絵師女うたびとなど多く浪華は春も早く来るらし
※右の絵は島成園作「化粧」

 吉井は晩年、京都の北白川周辺に住み、祇園に足繁く通い、「都をどり」の発展にも尽力した。 
かにかくに 祇園はこひし寝るときも 枕のしたを水のながるる
 こんな歌を残した吉井をしのぶ「かにかくに祭」が毎年11月8日に祇園で行われている。

▼都をどり



 大正4年(1915)に発表された歌謡曲「ゴンドラの唄」は、芸術座第5回公演「その前夜」の劇中歌として、松井須磨子らが歌唱、大正時代日本中で大流行した。
         「ゴンドラの唄」
               吉井勇作詞 中山晋平作曲
いのち短し 恋せよおとめ
赤き唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを

いのち短し 恋せよおとめ
いざ手を取りて彼(か)の船に
いざ萌ゆる頬をきみが頬に
ここにはだれも来ぬものを

いのち短し 恋せよ少女
波に漂(ただよ)う 舟の様(よ)に
君が柔手(やわて)を 我が肩に
ここには人目も 無いものを

いのち短し 恋せよ少女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを

肥後の左義長

2015-01-12 18:53:00 | イベント
 今日、今年の「壷川校区どんどや大会」が京陵中学校グラウンドで行なわれた。この校区のどんどやは今年で42回目を数える。






■肥後の左義長
 平安時代の昔から宮中に於ける正月の年中行事「左義長」として行われてきたどんどやは、日本中の村やでも行われ、その呼び名も所によって、ドンド焼、サギチョウ等と様々であるが、江戸時代、熊本では武道と結びつき、全国的にも有名な大がかりな行事だったようだ。
 「左義長」については津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」で何度か紹介されているが、古の「馬揃え」のような騎馬を集めてその優越を競いあう行事だったようだ。
 昭和10年に出版された「松村大成永鳥三平両先生伝」(熊本県教育会玉名郡支会編)の中の「國臣大眞と左義長を見る」という章でその様子を伺わせるが、これを題材にされたと思われる西門二引著「平野次郎國臣伝 西のミソラ」では次のような一節が出てくる。

「正月十四日、国臣と松村家の次男大眞は、熊本名物左義長(さぎちょう)の見物に出かけた。
 熊本城二の丸の西隣に藤崎神社がある。ここの祭事は火馬、流鏑馬、駿馬、飾馬など、多くの馬を用いることで有名だった。
 弓馬故実の研究家としては、これを見ない訳にはいかない。
 とりわけここでは正月飾りの火中に馬を乗り入れるなど、神事の中でも豪気を養うものが多い。これが肥後の士風となり、肥後武者の自慢となっている。」

※右の写真は「相馬野馬追」の風景(誰でも使える フリー 写真 素材集 FreePhoto)より

▼かつて「馬揃え」のような「左義長」が行われた熊本城二の丸御門前



「花燃ゆ」ゆかりの地 防府

2015-01-11 20:07:44 | 歴史
 もののふの 仇に勝坂越えつつも 祈るねぎごと うけさせ給え

 これは幕末の女流歌人であり、尊王攘夷運動に共鳴して勤王の志士たちを支えた野村望東尼(のむらもとに)の歌である。
 慶応3年(1867)薩長連合の討幕軍東上を聞き、望東尼は七日間断食をして、身を寄せていた三田尻の同人、荒瀬ゆり子宅から防府天満宮に参詣し、一日一首の和歌を手向けて討幕軍の戦勝を祈願したという。
※右の絵は内田青虹画「野村望東尼」

 30数年も前、防府に住んでいた頃、アパートからまだ幼かった子供たちを連れて近くの桑の山によく登ったものだが、お決まりのコースの途中に野村望東尼のお墓があった。そしてすぐ近くの大楽寺には楫取素彦(小田村伊之助)と妻の美和子(文)のお墓もある。


※写真は「花燃ゆ」ゆかりのスポット(おいでませ山口写真館より)
※いずれもクリックして拡大
(左)防府市桑の山南麓の野村望東尼の墓 (右)萩と三田尻を結ぶ萩往還の終点、三田尻御舟倉
(左)防府天満宮 (右)志士たちが密議を重ねた宿屋暁天楼
(左)政変で京を逃れた三条実美らが滞在した三田尻御茶屋 (右)旧長州藩主毛利家の毛利邸

 

 

 

三味線の調弦

2015-01-10 20:39:24 | 音楽芸能
 日頃、民謡や長唄、端唄など三味線音楽をよく聞くのだが、本調子や二上りや三下りなどという、あの三味線の調弦が聞き分けられない。自分で三味線をやったこともないし、弦楽器といえば若い頃、ギターやウクレレに手を伸ばしたことはあるが、自分の才能のなさに気づいてすぐにやめた。本調子・二上り・三下りの意味は本などで読んで知ってはいるが、実際に曲を聞いた時に、それがどれなのかがわからない。中には「牛深三下り」だの「二上り甚句」だの「本調子甚句」だのとご親切に曲名に付いているものもあるが、あれはありがたい。今は曲調があの曲に似ているから本調子だろうとか、三下りだろうとか、二上りだろうとか推測して聞いている。
 僕の好きな唄で言うと、例えば「梅は咲いたか」は本調子。「品川甚句」は二上り。下の「熊本さわぎ唄」は三下りだと思っているが、合っているだろうか。



肥後の能楽と役者寺

2015-01-08 17:23:47 | 音楽芸能
 昨日、久しぶりに本妙寺に登り、お参りを済ませた帰り道、参道沿いの塔頭の中の妙心院に立ち寄った。「役者寺」と呼ばれる能楽ゆかりのお寺である。去年来た時は母を連れていたので中には入らなかったが、今回は一人なのでゆっくり見て回りお参りをさせてもらった。門脇の標柱にはこう記されている。

「当院は、慶長年間に加藤清正公に伴われて来熊した太閤旧家臣で金春流武家能役者中村靭負(五百石)、嫡子同伊織(細川忠利より千石)、分家同作左衛門(二百石)及び江戸時代初期から共に活躍した友枝家、小早川家の菩提寺である。」

 つまり、加藤清正の肥後入国が熊本の能楽の歴史の始まりのようだ。
 ちょうど院内に入ろうとした時、庭で犬の散歩をさせている若い僧侶と思しき方(ご住職か?)の姿が見えたので、来意を伝え、お墓の位置を教えていただいた。

左が明治時代のシテ方喜多流能楽師・友枝三郎の墓。右が和泉流狂言方・小早川家累代の墓。
 

 加藤家改易後も、細川家によって能楽が奨励され、熊本は金沢とともに全国で能楽が盛んな藩となった。明治維新によって大名というパトロンを失った日本の能楽は衰亡の危機に瀕したが、熊本から桜間伴馬、友枝三郎という二人の能楽師が上京して活躍し、日本の能楽界を再興させる原動力となった。そういう意味でも熊本の能楽は全国的に誇れる歴史を有している。
 能楽研究家の羽田昶(武蔵野大学教授)はその著書「能の地域的分布」の中で次のように述べている。

 明治の三名人といえば宝生九郎知栄、初世梅若実と桜間伴馬(のち左陣)である。このうち九郎と実は江戸の役者だが、伴馬は細川藩お抱えの熊本根生いの役者である。1879(明治 12)年に上京して以来、充実した気迫と鮮烈な型で他を圧倒し、技の切れにおいては九郎や実をも凌ぐと評された。その芸統から桜間弓川、桜間道雄、本田秀男、桜間金太郎と、その後、東京の金春流を代表する名手が輩出された。喜多流の友枝家も同じく細川藩お抱えの名家である。伴馬と同世代の役者は友枝三郎、その息子が友枝為城で、父子とも上京しているが主として維新後も熊本で活動した。為城の子、友枝喜久夫からは東京住まいであり、現在は喜久夫の子、友枝昭世が抜群の実力と人気を博している。三役では、一噌流笛方の島田巳久馬、金春流太鼓方の増見林太郎のちの金春惣右衛門、和泉流狂言方の小早川精太郎も熊本出身であり、小早川の流れは幸流小鼓の幸宣佳、その子、幸正悟にも及んでいる。
※写真は桜間伴馬

肥後の殿様の参勤と御船歌

2015-01-07 20:00:34 | 歴史
 津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」では、「立政公御参勤 道中日記をたどる」を連載されている。毎回、楽しみに読ませてもらっているが、これは肥後熊本藩の第10代藩主細川斉護(ほそかわなりもり)公が、まだ支藩の宇土藩主で、細川立政(ほそかわたつまさ)と名のっていた文政六年(1823)の参勤の道中日記である。中でも御座船が瀬戸内海沿岸のいろんな港に寄港しながら進むところに注目している。
 なぜ僕がその点に注目するかというと、一昨年来調べている、藩主の御座船の無事の出航・帰航を願って唄われたという「御舟歌」のことと大いに関係があるとにらんでいるからだ。鶴崎や川尻に歌詞は残っているものの、メロディは失われてしまったといわれているが、僕はそうではなくて、ほとんど同じか、多少のアレンジを加えたメロディが他府県の港に残っているのではないかという仮説を立てている。その可能性のある一つが兵庫県赤穂市の坂越(さこし)港である。古代より天然の良港として知られた坂越港は立政公の御座船も寄港している。注目すべきはこの坂越の大避神社の例祭「坂越の船祭り」では、古より歌い継がれた「御船歌」が今日も唄われているのである。しかも、この「御船歌」の由来については、江戸時代、度々寄港した肥後細川家との関係を指摘する説もあるらしい。赤穂浪士を手厚くもてなした肥後細川家と坂越の人々との関係は良好だったであろうし、エピソードとしてこんな話も伝わっている。坂越の名物に「くされずし」というのがある。ご飯とツナシ(コノシロ)に日本酒を使って自然発酵させたものらしいが、細川藩の御座船が停泊した時、ご馳走として「くされずし」でもてなしたという。藩主以下の面々が喜んで食べたかどうかはさだかではない。滋賀県にいる時、「ふなずし」で往生した僕はお気の毒様としか言いようがない。それはともかく、坂越港の二日前に寄港した下津井港の「下津井節」や「牛深ハイヤ節」などの例を引くまでもなく、舟運によって文化が伝播していた時代、しかも肥後細川藩と坂越の良好な関係を考えれば、文化の交流があったと考えても何らおかしくないのである。

▼肥後細川藩の参勤船団(大分・鶴崎港)
(鶴崎・剣神社所蔵絵馬)



▼坂越に残る御船歌(一部)

(鈴木由起子氏作成 『坂越の船祭り総合調査報告書』より)

復活!ブラタモリ

2015-01-06 22:07:24 | 歴史
 記念すべき復活ブラタモリの第1回は京都編。何度も衰退の危機に見舞われた京都が、そのピンチから脱するために行われた「巨大プロジェクト」の中から今回は、「琵琶湖疏水」「新京極通」「御土居」の三つが取り上げられれた。


20数年前に僕が住んでいた滋賀県の三井寺の近くに琵琶湖疏水の取水口があった



明治13年、熊本出身の活人形師・松本喜三郎が新京極通で
「西国順礼三十三所霊験記」の興行を打ち大成功をおさめた



御土居は熊本城の周囲にもかつて存在した。船場の辺りは船場山と呼ばれ、たぬきが棲息していた

ブラタモリ から 幸若舞 へ

2015-01-05 20:07:11 | 音楽芸能
 一見何の関係もないようなことが妙につながってくるということをしばしば経験する。
 先日、NHKの「ブラタモリ」が復活するということで、前のシリーズから何本か再放送していた中に「渋谷編」があった。僕にとっても渋谷は学生時代の思い出の懐かしい街なので本放送の時も見たのだが、その中で1964年の東京オリンピックの時に改修されたり、暗渠化された渋谷川や宇田川とその支流の話があった。昔はとてもきれいな川が流れていて、童謡「春の小川」はこの近くに住んでいた高野辰之が作詞したものと伝えられる。現在の渋谷からは想像もできないような風景が歌われているが、この高野辰之という人が凄い人で、作詞家としては他に「故郷」「朧月夜」「もみじ」「春がきた」など、ほとんどの日本人が知っている名作がズラリとならぶ。しかもこの人、日本の芸能史に関する数々の著書を残している。僕がこの人の名前を知ったのは芸能史に関する著書を読んだことの方が先だった。実は今月20日、みやま市の大江天満神社で行われる「幸若舞(こうわかまい)」を見に行く予定だが、以前、この「幸若舞」について調べた時に読んだのも高野辰之の著書だった。


童謡「春の小川」で歌われるような風景は今日ではなかなかお目にかかれない




■幸若舞
 室町時代に始まった芸能で、その名の由来は創始者と伝えられる幸若丸(越前の桃井直詮の幼名)にちなんだもの。中世から近世にかけて、能とともに武家達に愛好された。曲目としては織田信長が出陣前に舞ったという「敦盛」などが有名。現存しているのはみやま市の大江天満神社で行われる「大江幸若舞」のみである。

大河ドラマ「花燃ゆ」と民謡「男なら」

2015-01-04 20:49:30 | テレビ
 NHKの今年の大河ドラマ「花燃ゆ」が今日から始まった。元防府市民としては、防府ゆかりの人物が主役とあってやっぱり気になる。今日の第1回は、そのヒロイン文(井上真央)と後に夫となる小田村伊之助(大沢たかお)の出会いのシーンがあった。
 僕は防府在勤時代を通じて山口の女性は芯がしっかりしているというイメージが強い。それを象徴するものとして民謡「男なら」が印象深い。この唄を初めて聞いたのは高校3年生だった昭和38年の山口国体の時。宿舎だった美祢市の旅館で地元の女性の皆さんが、この唄と踊りを披露してくれた。それ以来、僕にとって忘れられない山口県の唄となった。この唄は幕末に起きた長州藩と、英仏蘭米の列強4国との武力衝突「馬関戦争」の際、萩の菊ヶ浜に防衛のための土塁を築いた武家の妻女たちによって唄われたという。つまり「男なら」は女性の唄なのである。
※写真は楫取素彦(小田村伊之助)と妻の美和(文)



▼菊ヶ浜

まめ藤さん効果でブログアクセスが急増!

2015-01-03 17:02:57 | テレビ
 昨日、このブログへのアクセスが急増した。原因は元日の夜、テレビ朝日で放送されたバラエティ番組「見る人が見た」で、現役力士の豊ノ島関が京都祇園の舞妓さん、まめ藤さんの生活をリポートするという番組の影響のようだ。テレビ視聴者の「まめ藤」というキーワード検索に、このブログで取り上げたまめ藤さん関連の記事がヒットしたようだ。テレビ番組の反響の大きさをあらためて思い知らされる。
 ちなみに、このブログでこれまでに掲載したまめ藤さん関連のブログ記事は次のとおり。


鹿北茶山唄 featured 小佐井あろう

2015-01-02 21:13:06 | 音楽芸能
 熊本城迎春行事、今日は「新春の邦楽」と題して舞踊団花童と吟道清吟流の出演。僕にとって今日のスペシャル演目は「鹿北茶山唄」。この熊本民謡は花童も度々演目として取り上げているが、今日は唄が、「2013年度産経民謡大賞」少年少女の部で優勝した小佐井濯(こさいあろう)くん(当時小学6年)で、その時の演目が「鹿北茶山唄」。小佐井くんを指導する本條秀美さんによれば、姉二人の影響を受けて民謡を始めた小佐井くんは生来のセンスに恵まれており、今後の成長が楽しみだという。