tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師の「蔵王供正行/第41日 自分なりの座標軸(基地)を持つ」

2024年06月07日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈蔵王供正行41日目「人生の座標軸」〉(師のブログ 2015.6.10 付)である。師は〈41歳になった頃に、突然、あらゆる惑いが消え去った。人生がそれなりにわかったというか、首肯(しゅこう)できたのであった。それを私は「人生の座標軸を得た」と言っている〉。
※トップ写真は、吉野山の桜(2024.4.5 撮影)

それから約20年が過ぎて、師は〈その座標軸を、もう一度作り直すというか、バージョンアップをしないといけない時期を迎えた〉とお書きである。引き続き、師がたどった道筋を追って行きたい。満行まで、10日を切った。

「人生の座標軸」
蔵王供正行41日目(6月10日)。曇りのち晴れ。今日の一日。
5時に起床。
5時40分、第81座目蔵王権現供養法修法 於脳天堂
7時、本堂法楽・法華懺法         於本堂 
9時10分、第82座目蔵王権現供養法修法 於脳天堂
10時30分、本堂法楽・例時作法     於本堂
12時半、水行              於風呂場
13時、法楽護摩供修法          於脳天堂
14時、法楽勤行             於本堂

参拝者1名。初日に来て頂いた奥駈仲間の高田さん。明後日からの奥駈前に祈願に来たということでした。あやうく、参拝者ゼロを免れました。

****************

「人生の座標軸」
論語では「40にして迷わず」という。いわゆる不惑の歳であるが、私の40歳は人生でもっとも深く惑いを持っていた時期である。不惑の歳に惑う自分を情けなく想っていた。ところが翌年、41歳になった頃に、突然、あらゆる惑いが消え去った。人生がそれなりにわかったというか、首肯(しゅこう)できたのであった。それを私は「人生の座標軸を得た」と言っている。

かの脳科学者茂木健一郎氏は私の言う座標軸のことを「基地」と呼んでおられる。人生を自分なりに理解し、情報を取捨し、知識を智慧にかえるのは、そういう自分自身の座標軸というか、ベースになる立ち位置=基地をしっかりと持っていないといけないのだと思う。
これがないと、どんな素晴らしい情報も、知識も、かえって惑いを深めるだけになる。

それ以後の私は、いろんな人に出会い、あるいは学びを得たときに、そのことが直結して、自分自身の血肉になったし、情報の取捨、判断の基準を自分なりに保ち続けることが出来たように思う。

さて、その自分自身で納得の出来た(…と思っている)座標軸が出来てから、すでに20年近い月日が過ぎた。世の中もめまぐるしく変わるし、私自身も体力の衰えや、知力・気力の衰えを感じ始めて、その座標軸を、もう一度作り直すというか、バージョンアップをしないといけない時期を迎えたようだ。

還暦年に、これまでの金峯山寺という大きな看板の下での自分を自己改革することになり、また自坊に居を移しての蔵王供千願修行に入ることになったが、それは天命であったとは言え、私にとっては大きなバージョンアップに繋げなくてはならないと思っている。

昨日の修行日記で、三木清の「人は誰でも、いま生きているように未来を作っていく」という文章を紹介した。人はいろんな制約を受けながら人生を進むが、なにも気づきがなく、なにも手を打たなければ、人は今の自分の延長線上にしか自分を見いだせないものであろう。

今の自分から自己改革を行い、自分の周りの環境を変革しなければ、未来の自分の可能性は極めて狭隘なものになるである。そんな気づきを、修行の後半にさしかかり、ようやく、ちょっとだけ、目覚めさせていただいた。
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田中利典師の「蔵王供正行/第39~40日 未来に向けて 手を打っておくことが 肝要」

2024年06月04日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は〈蔵王供正行39-40日目「人は誰でも、いま生きているように未来を作っていく」〉(師のブログ 2015.6.9 付)。この言葉は〈今の自分から自己改革を行い、自分の周りの環境を変革しなければ、未来の自分の可能性は極めて狭隘(きょうあい)なものになる〉、という三木清の戒めの言葉である。
※トップ写真は、吉野水分(みくまり)神社の桜(2024.4.5 撮影)

師は〈「里の行」として、諸縁を切らずに行じていることを、大変良いといっていただいた。まさに正鵠(せいこく)を射た、私への励ましである〉とお書きである。SNSで情報を発信しながら、家族総出でお行に打ち込む姿は、里の行のお手本なのだ。いよいよ満行まで、あと10日となった。では、全文を以下に紹介する。

「人は誰でも、いま生きているように未来を作っていく」
蔵王供正行39日目(6月8日)。曇り一時雨。今日の一日。
5時に起床。
5時40分、第77座目蔵王権現供養法修法 於脳天堂
7時、本堂法楽・法華懺法         於本堂 
9時10分、第78座目蔵王権現供養法修法 於脳天堂
10時30分、本堂法楽・例時作法     於本堂
12時半、水行              於風呂場
13時、法楽護摩供修法          於脳天堂
14時、法楽勤行             於本堂
参拝者2名。九州の教師さんと、東京から里村さんが来山。里村さんは護摩終わりに到着でした。

蔵王供正行40日目(6月9日)。日程同じ。79座、80座修法。40日目が終了。
参拝者3名。東京からと奈良からと、福岡からと 三人とも遠来の参拝者でした。

****************

「人は誰でも、いま生きているように未来を作っていく」
昨日、行お見舞いにきていただいた東京の里村さんから、今回のお行をたいそう褒めていただいた。ありがたい励ましである。とりわけ、「里の行」として、諸縁を切らずに行じていることを、大変良いといっていただいた。まさに正鵠(せいこく)を射た、私への励ましである。

家族総出の修行も褒めていただいた。ま、これはほんとにお世話をしてもらっている家人にはありがたいお言葉である。これからの行者が行う「里の行」のひな形にもなる、とまで言っていただいた。

今日も、FBでお知り合いになった九州の方が遠路わざわざお参りにおいでいただいた。「フェイスブック恐るべし」である。また、東京のお坊さんを案内して金峯山寺時代に懇意になった某局の友人にも、来ていただいた。お客さんは増上寺でのイベント「向源」を手がけてきた青年僧である。私に会いたいといっておいでになったのであった。

私の如き修行に、こうして毎日の如く、全国から行見舞いやお参りにきていただくのは、ホントに希有なご縁だと思っている。今日で40日を数えるが、その間、37日間は誰かしら、お参りをいただいたが、その内の3割近くが、実は初対面の人である。これも希有なことだ。

諸縁を切らずに入った今回の「里の行」はまた新しい力を私にもたらしてくれている。そのご縁に、ひたすら感謝である。また、ご縁のありがたさも改めて感じている。

そして今朝、私は脈絡なく、気がついた。今の修行は私の求める真実ではない。しかし、今の修行に入ったことに大きな意義があった。40日目を過ぎて、ようやくそこに少し気づくことが出来たのである。一歩、足を踏み出せたかもしれない。「人は誰でも、いま生きているように未来を作っていく…」。三木清の言葉が心に沁みる。
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ユネスコ世界文化遺産「吉野大峯」登録20周年回顧録 by 田中利典師

2024年05月28日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、過去のお行の日記からは離れ、『月刊奈良』(2024年4月号)に執筆された〈ユネスコ世界文化遺産「吉野大峯」登録20周年回顧録 〉を紹介する。師はこれをご自身のFBに2回(2024.5.27~28)わたって紹介された。当ブログでは、これを一挙に紹介する。

実はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は、6/9(日)、会員を対象とした利典師による90分の講演会を予定している、演題は「修験道の今日まで、そして明日から~吉野大峯・世界遺産登録20周年記念講演~」である。14時半頃から、東大寺総合文化センター(東大寺ミュージアム)地下小ホールで開催する。この回顧録は、その良い「予習」にもなることだろう。

今年は金峯山寺を含む「吉野大峯」がユネスコの世界文化遺産に登録されて20周年を迎える。当時しゃかりきに活動した私としては感慨深い。10周年事業までは猛烈に駆け抜けた。その当時のことを書きませんかと『月刊奈良』から依頼を受けて、4月号に書かせていただいた。よろしければお読み下さい。

◆運は動より生ず
「運は動より生ず」というが、まず動きを始めることで運は動き出す。物事の精査とか課題はたくさんあるだろう。けれど、そのときの直感とひらめき、やってきた諸縁によって動くのがいいんだろうな。私のこれまでの人生経験ではそういうことになっている。

まずは、動きを始める。先のことはわかりっこない。それでいいんだ。でも動き出すことで、宇宙のシステムというのか、神仏の働きというのか、運勢はサポートしてくれる。そんな感じで生きてきた。

◆役行者大遠忌事業が契機
吉野大峯の世界遺産登録のきっかけは、修験道史上初めて修験三本山(本山派修験/聖護院、当山派修験/醍醐寺、吉野修験/金峯山寺)合同によって催行された開祖役行者神変大菩薩1300年大遠忌事業であった。

本事業の準備は平成7(1995)年頃から始まったが、平成11(1999)年にはプレイベントとして大阪・東京の2会場で「役行者と修験道の世界」特別展(修験三本山・毎日新聞社・開催館主催)を開催し、さらに本番の平成12(2000)年8月には三本山と大峯山寺合同による大遠忌法要などが執行され、大遠忌に相応しい数々の歴史的な事業が成し遂げられた。

その中の「役行者特別展」でのこと。本展の企画統括を担当されたのは自称「役行者オタク」の大阪市立美術館学芸員(当時)の石川知彦氏だが、その石川氏から「りてんさん、せっかく出来た三本山合同の連帯を、吉野大峯一帯の世界遺産登録運動につなげるのはどうだろうか」と提案を受けた。

当時、世界遺産という概念自体、まだまだ日本では認知が低かったが、おもわず「それ、私やります!」と即断した。それがその後の運を動かすことになっていく。

◆世界遺産ってなに
といっても、肝心の「世界遺産」のことがなにもわかってない。法隆寺と姫路城が世界遺産だったなあ…くらいのこと。一からの学び始め。世界遺産とは、地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から現在へ、そして未来の世代に引き継いでいくべきかけがえのない宝物のことだ。

ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が「人類共通の遺産」として保護・保全していくための国際的な協力体制を築く国際条約として昭和47(1972)年に「世界遺産条約」を採択した。日本はこの条約の批准が20年遅れたために、当時はまだまだ国内での世界遺産の認知度は低かった。

◆動き出せば誰かに会う、そしてどこかに連れて行ってくれる
物事を成し遂げるのはまず発心を持つこと。そうすると誰かに出会う。その出会った人がその先へ連れて行ってくれる。本格的な登録活動を始めたのは平成12(2000)年の春だった。紆余曲折はあったものの、登録要件である文化庁の文化審議会に、熊野・高野とともに吉野大峯の三霊場が答申されたのはその年の11月だった。

手を挙げてこんなに早く答申された前例はなかった。これは吉野町、天川村、奈良県それぞれの担当者の努力のたまもの。そして、修験三本山の後押しや、吉野大峯の登録運動に先んじて始めていた熊野と高野の動きと吉野大峯の活動が一体となったことが、担当所管の文化庁を動かすことになった。

走り出して、本当に多くの人に出会い、人と人との力で道は拓かれていった。まさに運は動より生ずである。ほんとに運に恵まれた。ただし、地元の吉野山にしても奈良県にしても諸手を挙げて大賛成という滑り出しではなかった。当時の県の文化財保存課長からちょろちょろ動くなと叱責されたり、地元からも世界遺産になんてそんな簡単になるかよ、と揶揄され鼻で笑われたこともあった。

それでも平成16(2004)年7月。吉野大峯は熊野三山と高野山とともに「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産リストに登載されることが決定する。活動を始めてから4年。まさに世界最速であった。奈良県としては法隆寺地域の仏教建造物、古都奈良の文化財に次ぐ3件めの登録である。 

◆世界遺産の第一の門番(custodian:カストーディアン)を目指す!
吉野大峯は開祖役行者以来、日本独自の民俗宗教修験道の聖地である。その聖地性のもとに吉野ではさまざまな歴史が繰り広げられてきた。天武・持統天皇の行幸、藤原道長の御嶽詣で、源義経の吉野潜行、日本一の桜の名勝地としての発展、南北朝の動乱、太閤の花見などなど枚挙に暇がないほど多彩な歴史と文化を持ち得た地である。

が、明治以降、神仏分離施策と修験道の衰退と相まって、聖地性も歴史の唯一性も損なわれてきた感があった。世界遺産登録の目指すものは、吉野の地が持ち得た宝物は日本の至宝であること。そして世界の宝物として、再認識を図るとともに先々まで保護・保全に努めていくことである。登録がゴールではなく、登録が保護・保全のスタートでなければならない。

そのために私は、登録年には世界遺産登録記念特別展「祈りの道~吉野・熊野・高野の名宝~」(三重県、奈良県、和歌山県、世界遺産登録推進三県協議会、毎日新聞社、NHK、開催館主催)を大阪・名古屋・東京の三会場で企画開催し、さらに大峯奥駈道保全連絡協議会や紀伊山地三霊場会議など、登録地域の保護・保全のための、宗教と行政が連帯した協議会などを発足させた。

今年で吉野大峯の世界遺産登録は20周年を迎える。イコモス(国際記念物遺跡会議)が定めた『国際文化観光憲章』の中の第一の門番(custodian)とは、世界遺産の自然と文化を守っていく役目を担う人々のことを指す。世界遺産の第一の門番こそ、世界遺産に関わる金峯山寺など構成施設をはじめとする地域の人々の意識有る取り組みである。

世界遺産登録によって、人類共有の宝物である貴重な世界遺産が、心ない観光開発にのみ利用され、肝心の保護・保全活動に結びつかないという、過去に起こったような失敗例に陥らせてはならない。

それぞれのキーマンとなる方は、「世界遺産の第一の門番」としての役割を大いに担っていただきたいものだ。登録20周年の慶事を前に改めて記して、私の拙き回顧録とする。






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田中利典師の「蔵王供正行/第38日 社長と大僧都、二足のわらじ」

2024年05月23日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈蔵王供正行38日目「40,50は洟垂れ小僧」〉(師のブログ 2015.6.7 付)。この日ご参拝された角川博泉さんは、八尾の設備会社の社長さん。還暦を過ぎてから四国の歩き遍路を始められ、4回りを行じられた。
※トップ写真は、吉野水分神社(2024.4.5 撮影)

その後、大峯奥駈修行にも参加されるようになり、〈今年は高野山大学の大学院を卒業され、四度加行・伝法灌頂も終えられて、見事大僧都になられた。法螺の名手でもある〉。今は高野山の僧正さまだとか。世の中にはスゴい人がいらっしゃるものだ。では、全文を抜粋する。

「40,50は洟垂れ小僧」
蔵王供正行38日目(6月7日)。曇り時々晴れ。今日の一日。
5時に起床。
5時40分、第75座目蔵王権現供養法修法 於脳天堂
7時、本堂法楽・法華懺法         於本堂 
9時05分、第76座目蔵王権現供養法修法    於脳天堂
10時、角川さん来山。行見舞いにおいでいただきました。
10時30分、本堂法楽・例時作法     於本堂
12時半、水行              於風呂場
13時、法楽護摩供修法          於脳天堂
14時、法楽勤行             於本堂
参拝者3名。角川さんご夫妻と、同行された宝塚の藤木さん。

****************

「40,50は洟垂れ小僧」
二日ぶりの雨が上がって、朝から鶯が囀ってくれる。気持ちのいい、朝の修法である。鶯に感謝。奥駈でご一緒した角川さんが来山。この人はなかなか凄い。八尾で設備会社の社長をしておられるが、なんと還暦で、四国歩き遍路をはじめられ、今年で4周りを行じられている。

その四国遍路が昂じて、大峯奥駈修行にも参加されるようになる。私が大先達を務めていた頃に金峯山寺の奥駈に来られたのだった。以来のおつきあい…。なんと今年は高野山大学の大学院を卒業され、四度加行・伝法灌頂も終えられて、見事大僧都になられた。法螺の名手でもある。ともかくそのバイタリティーは凄いのだ。

会社経営の、二足のわらじで、そこまで果たされたのはほんとに尊敬に値する人物である。しかも全ての発心が還暦の歳というから、今年還暦を迎えた私には大変な刺激である。

僧侶の世界では「40,50は洟垂れ小僧」という。60になってようやく一人前に扱っていただける世界なのである。やっと一人前になったと思った歳に金峯山寺宗務総長を下りることになったが、まだまだこれからの私を思わなくてはならないだろう。
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田中利典師の「蔵王供正行/第37日 鎮護国家の祈り」

2024年05月20日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈蔵王供正行37日目 「祈り・結界・天下泰平」〉(師のブログ 2015.6.6 付)。この日も、遠来(三重県名張市から)のご参拝者があった。〈今日はちょっとぼやいてみました〉とあるように毎日毎日、全国の社寺では、お祈りが続けられている。そのことに皆さん、気づいているだろうか、という師の「ぼやき」である。では、全文を紹介する。
※トップ写真は、吉野山の桜(2024.4.5 撮影)

「祈り・結界・天下泰平」
蔵王供正行37日目(6月6日)。雨のち晴れ。今日の一日。
5時に起床。
5時40分、第73座目蔵王権現供養法修法 於脳天堂
7時、本堂法楽・法華懺法         於本堂 
9時10分、第74座目蔵王権現供養法修法    於脳天堂
10時20分、本堂法楽・例時作法     於本堂
11時、行見舞いに京都の親しい御茶屋さんご家族が来山。有り難いお見舞いでした。
12時半、水行              於風呂場
13時、法楽護摩供修法          於脳天堂
14時、法楽勤行             於本堂
参拝者1名。名張から芳森さん来山。

****************

「祈り・結界・天下泰平」
いま、朝の蔵王供2座、午後の護摩供1座、それぞれの法楽勤行で、併せて9座にわたって、その都度、天下泰平・万民豊楽・国土安穏を祈っている。「今上陛下玉体安穏」も祈る。

実はなにも私だけではない。また東大寺や春日大社と言った大寺社だけではなく、日本国中のお寺と神社では、毎日毎日、こういう祈りが続けられている。そう、それは1000年も1400年も前から、である。

奈良・平安時代の国家仏教の頃はもちろん、こういう祈りに国費が使われ、寺や神社の建立自体が国家事業だった時代が長くあったが、いまは、こういった鎮護国家の祈りに対して、なんら、国や自治体から注目されることがない。せいぜい、文化財価値のある重要文化財や国宝への、補助金程度の支出しくらいであろう。

政教分離という、戦後日本が戦勝国から突きつけられた進駐政策を、未だ金科玉条の如く守って、寺社に直接関わることさえ、なにかというとタブーとしている。一部の社会主義国を除いてはどの国もやっていないこの愚劣な政策によってである。まあ、それはいいとしよう。ただ、こういった祈りがこの国の、目に見えぬ大きな結界を私は作ってきたと思っている。間違いない。

園遊会などに、売国奴の有名人や真っ赤かな政治家が呼ばれている映像を見るたびに、こういう誰にお金を出してもらわなくても、誰から感謝されることもなくても、ただひたすら、国や万民の幸いを毎日毎日祈っている宗教者たちを、ちょっとずつでも呼んで、お礼のひとつも言ってもらいたいものだと思うモノである。ま、園遊会がなんぼのもんや!というのはありますが。

…今日はちょっとぼやいてみました。常々思っていることなので(^_^;)。でも、報われなくても、私達は祈り続けます。
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