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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

吉野山の旅館 歌藤(かとう)

2013年03月31日 | 奈良にこだわる
いよいよ吉野山でも桜が咲き始めた。JR西日本の「桜だより」(2013年3月30日現在)によると、下千本と中千本は「咲き始め」、上千本は「つぼみ」だそうだ。また吉野町が提供する「奈良よしの さくら情報」によると、上千本の「開花日」は4月5日、奥千本は4月15日と予想。また下千本の「満開」は4月6日、中千本は4月8日、上千本は4月12日、奥千本は4月21日との予想が出ている。まさにこれからが桜のピークシーズンなのである。

このシーズンは大混雑が予想されるので、ぜひ公共交通機関でお訪ねいただきたい。また土日となる4月6日、4月7日、4月13日、4月14日、4月20日、4月21日には、パークアンドバスライド(郊外に駐車場を設け、そこからシャトルバスを運行)も実施されるので、これを利用する手もある。



私は昨年4月14日(土)~15日(日)、1泊で吉野山を訪ねた。土曜日はあいにくの雨だったので撮影は諦めたが、翌朝5時に目を覚ますと、快晴だった。旅館の向かいが下千本の絶好の撮影スポットだったので、千載一遇のチャンスとばかりに写真を撮りまくり、おかげでマイベストショットの数々を撮影することができた。



この時に泊めていただいたのが「旅館 歌藤(かとう)」(吉野郡吉野町吉野山3056)である。和風の本館(7室・34人)のほか、ログハウスの新館(7室・34人)があり、私はログ館に泊めていただいた。庭のシダレザクラが眺められるホール(ログハウスホール)には、ログハウスを建てられた歌藤彰介さんが、完成までのプロセスをまとめた写真アルバムがあり、ご苦労が偲ばれた。家族総出で、吉野の杉とヒノキをふんだんに使い、まさに手作りで建てられたのである。アルバムの最後には、こんなメッセージが綴られていた。



当館に泊まって下さるお客様へ
念願のログハウスができました。ログに住みたいと思い続けて9年目になります。平成8年5月13日から平成9年3月26日に完成しました。この間 お正月3日間と、囲炉裏を作るための視察(?)旅行2日間だけ仕事を休みました。



季節は春から夏、秋、冬と移り変わり、さまざまな天候・条件の中。大きな怪我も病気もせずに夢に描いたログが完成したことに、今、自分自身で感動しています。
●2トンダンプ、ユンボはじめいろんな道具を貸してくれ、ログ作りに協力してくれた俊しゃん(主・彰介の同級生)と奥さんのくみちゃん…




以下、マーチャン、竹田さん、北川さん、えのさん、みきおちゃん、秀明さん、乾さん、北のにいちゃん、上村畳店のおじいちゃんとご主人と息子さん、和田崎さん、湧(わく)さん、門田さんなどなど、30人近くのご関係者へのお礼の言葉が綴られている。そして末尾には



この家に泊まって下さるお客様。こんなに多くの方の愛情とやさしさに支えられて、ていねいに大切に建てました。木のすばらしさとぬくもりを体感してください。夢は必ず実現するということを確信しました。今までも、そしこれからも、すばらしい出会いがあることら感謝し、すべての人に、有難うございます。平成9年3月末



これは楽しみである。ほかにも、お訪ねする前にネットで情報を集めてみた。観光経済新聞(2011年12月10日付)のインタビューコーナーよその旅館ホテル(第653回)によると

歌藤(奈良県・吉野郡吉野町)歌藤 順子さん
──吉野にある宿ですね。
「国立公園吉野山の下千本公園にある当館は、ケーブル山上駅から徒歩2分。 吉野山観光に最適です。春は全国的に有名な吉野山桜を愛でに多くの人が訪れます。寺社仏閣巡りも人気です。日本の森、吉野の自然で癒されてください」



──別棟「ログ館」が人気です。
「地元吉野杉・檜で手作りしたぬくもりあふれる建物です。ログ館では、木の持つぬくもりや安らぎ、すばらしさを体感できます。樹齢約130年の大黒柱の高さは約9㍍あり木の香りと圧倒的な力強さが魅力です。部屋は畳敷きの和室。テーブル、イスも手作りで、自然の木を活かした味わいのある形をしています」「ログ館の庭にある『枝垂れ桜』は吉野山で最大級を誇る大きさです。夜はライトアップされていて、ログホールから見る光景は幻想的な趣です。暖炉の前でゆったりと静かな時間が過ごせます」



──本館は。
「落ち着いた和のしつらえで、明るく清潔感ある畳のお部屋です。窓を開ければ、吉野の山々や枝垂れ桜が望めます」

──お風呂は。
「昨年4月に吉野銘石露天風呂がリニューアルオープンしました。当館ではお風呂のお湯に古来より『薬の石』と呼ばれた麦飯石を用いています。麦飯石にお湯を通過させることにより、多くのミネラル分が溶け出し、 弱アルカリ性の肌にやさしい湯質になります」



「春会席」の前菜。柿の葉寿司、自家製燻製、桜餅、菜の花のからし酢味噌、手長エビ、大和芋とろろ(大和伝統野菜)

──食事は。
「毎朝、地元の農家から新鮮な食材を仕入れています。地野菜を使った旬の会席料理が楽しめます。朝は吉野名物茶がゆや、地たまご、地野菜を使ったバイキングが人気です」

──1泊2食の料金は。
「1室2名さまで1人1万5750円からです」【14室、定員59人】


霞鍋(葛仕立て)

産経新聞(10年5月)では《若葉の季節も魅力満喫 奈良・吉野「歌藤」 美人女将の宿》として、若葉の頃の様子を紹介されていた。記事を転載されたe8j1o4zuのブログによると

桜の季節のにぎわいが去り、静けさを取り戻した奈良県吉野町の吉野山。「芽吹こうとする木々の澄んだ香りが山全体に広がっています。山菜などの山の恵みも、最もたくさんいただける季節です」。吉野の老舗旅館「歌藤(かとう)」の若き女将、歌藤順子さん(29)は、新緑の“オフシーズン”こそ、吉野の魅力を満喫できると話す。


ニジマスの刺身、アユの塩焼き、ヤマトポークの角煮

近鉄吉野駅からロープウエーに乗って吉野山駅へ。桜が散ったあとの見晴らしもまた絶景だ。すがすがしい風を感じながら歩く。朱色の欄干が印象的な「大橋」を渡ると、すぐに江戸時代後期創業の「歌藤」が見えてきた。迎えてくれた順子さんは10年の下積みを経て昨年、女将になったばかり。夫、健太郎さん(31)の母でもある先代女将の「譲り葉のように後を継がせたい」という希望で、切り盛りを託された。

「吉野はかつて都から逃れてきた人たちをも快く迎えたもてなしの歴史があります。若い世代が少なくなっていますが、力を合わせて吉野の魅力を発信していきたい」 そう語る女将がこだわるのは食材。ほぼ毎日、健太郎さんが車で奈良県内の顔見知りの農家をめぐり、大和野菜を直接仕入れる。「日によって採れる野菜が違うので、日替わりのメニューになることもあります」



干し柿と季節もの二品の天ぷら

山菜がおいしい5~6月は、ワラビ、コゴミ、ノイチゴなどを自ら採取。「山に自生するミツバは肉厚で味も濃く、お客さんがびっくりされます」と楽しそうに笑う。「吉野」を満喫できるのは、食事だけではない。平成9年に健太郎さんの父、彰介さん(60)が築造した「ログハウスホール」は高さ9メートル、樹齢150年の柱をはじめ、吉野産のスギやヒノキをふんだんに使った吹き抜け。大きなガラス窓からは四季折々の自然や野鳥を楽しめる。


お櫃(ひつ)には、たっぷりの奈良県産ヒノヒカリ(特Aランク)
三ツ星お米マイスター・水本充洋さん(水本米穀店)から調達

同様に吉野材を使ったログハウスの客室もあり、若い世代に人気だ。吉野材260本で建てた「ログハウス茶房 陽(ひなた)ぼっこ」は、「下千本」のパノラマを一望できる。宿泊客の朝食、観光客のカフェとして活用されている。4児の母として育児もこなす女将は、樹液など吉野の自然から抽出したアロマづくりに挑戦中。「奈良たっぷりのおもてなしを、もっともっと追求していきたいと思っています」


デザートは桜アイスクリーム

「歌藤」 歌藤の名字は、吉野を山城として南朝を樹立した後醍醐天皇に仕え、歌を教えた先祖が、天皇から直接与えられたとされる。旅館そばの「大橋」は当時、吉野を城塞化するため尾根を削った堀の跡にかかり、南北朝時代の緊張感を生々しく伝える。周辺には名所旧跡が数多く点在する。「歌藤」はロープウエー吉野山駅から徒歩2分。全14室。1泊2食(1部屋3人使用)1人1万3650円~、ログハウス部屋は1万5750円~。問い合わせは歌藤((電)0746・32・3177)。



後醍醐天皇から「歌藤」の姓を賜ったとは、すごい。西吉野(五條市)の「王隠堂」も、後醍醐天皇を匿(かくま)ったことでいただいた姓(屋号)だそうだが、こちらも同様だったのだ。「世界最大の旅行口コミサイト」とうたうトリップアドバイザーの評価では「吉野町の旅館」16軒中、堂々の1位に輝く(2位は吉野荘 湯川屋)。特に外国人の評価が高い。たとえば「Amazing Experience. Great Surprise.」(驚くべき経験、大きなサプライズ)という書き込みを拙い英語力で訳してみると

妻が私たちの日本旅行に「吉野」という小さなエリアを加えると決めたとき、私は大いに悩んだ。私たちは日本語を話さないし、道程は遠くて困難だ。それに、英語で予約できる宿泊施設は少なかった。私たちはケーブルカーに乗り、(山上で降りたあと)左に進んだ。小さな赤い橋を渡ったあと、小ぢんまりした和風の建物の玄関で、妻の名前を見つけた。それが、私たちがその場所を発見する唯一の方法だった。


小さな赤い橋(a little orange bridge)

そのあとの全てがサプライズだった。旅館スタッフは素晴らしかった(great)。英語はほとんどなかったが、とても寛大で、ボディーランゲージが素晴らしい。経験したおもてなし(hospitality)は驚くべきものだったし、それらは心を満たしてくれた(enrich)。私たちは真の旅館体験ができたし、温泉つきのバスルームでは、夢見心地になった(fantastic)。安価ではないが、きちんとした場所で本当の日本文化体験をしたいのなら、不可欠な場所(must)である。


旅館のホームページより拝借

また別の口コミ「Wonderful Japanese experience.」(素晴らしい日本文化体験)でも《館主(owner of the Ryokan)は十分な英語を話し、真の日本文化体験をさせてくれる。サービスは完璧だし、お風呂は素晴らしい。食事には目を見張った(amazing)。風景には息を呑んだ》とベタ褒めである。

桜の時期の予約は、お電話(0746-32-3177)で。空き状況は旅館の公式HPに出ている。予約が取れなくても産経の記事にも出ていたとおり、吉野山は桜が散ったあとの「新緑の“オフシーズン”こそ、吉野の魅力を満喫できる」ので、ぜひ5~6月にお訪ねいただきたい。

女将さん、その節はお世話をおかけいたしました。これから忙しくなりますが、温かいおもてなし、どうぞよろしくお願いいたします!
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東吉野村・宝蔵寺のしだれ桜(産経新聞「なら再発見」第22回)

2013年03月30日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、桜シリーズの第2弾は宝蔵寺(東吉野村木津58-1)のしだれ桜である。執筆されたのは、NPO法人 奈良まほろばソムリエの会の小北博孝理事長である。写真は2011年に撮影されたものである。

 昭和30年代、ある鉄道会社のポスターに「桜の国の桜の名所」というキャッチコピーがあったが、奈良にはまさに桜の国の桜の名所が点在している。
 山や野辺には長い歴史を耐えてきた「孤高の桜」もある。宇陀市の又兵衛桜はよく知られているし、山添村の大照寺(だいしょうじ)跡の桜、桜井市の瀧蔵(たきくら)神社の権現桜も人気がある。
 東吉野村の宝蔵寺にある、村の天然記念物に指定されている枝垂れ桜も孤高の桜だ。高さ約10㍍、幹回り3.6㍍と実に立派で、毎年4月中旬に満開となり、静かな山村に一瞬の華やかさを添える。
      *   *   *
 国道166号線を同村鷲家(わしか)から三重・松阪方向に木津トンネルを抜けると、途端に周囲の風景が変わる。
 正面に「大和のマッターホルン」の異名を持つ高見山の鋭鋒(えいほう)が目に飛び込んでくる。真冬に真っ白に輝く姿を見れば思わず歓声を上げるだろう。



 宝蔵寺はこの街道沿いにある。桜のシーズン以外は訪れる人も多くなく、静かな寺だ。以前、4月中ごろに訪れた際は、見事な枝垂れ桜がちょうど満開だった。
 イトサクラとも呼ばれ、枝張りは四方それぞれ10㍍ある。淡紅色の花が空を覆わんばかりに咲き誇る姿は、圧巻だ。残念なことに、幹には空洞があり、傷みが激しく、樹幹が傾いているのが痛々しい。
 奥にもう一本の若い桜がある。どうやら2代目で、親桜から接ぎ木をしたものを育てたとの説明もある。少し小ぶりではあるが親桜同様、見事に咲いている。
      *   *   *
 境内を歩くと、本堂の裏の墓地に天誅組の志士、池田謙次郎の墓石がある。墓石の裏には、「吉野郡谷尻(たんじり)で文久3年旧9月25日戦死 東吉野村天誅組顕彰会建之」とある。



 東吉野村といえば天誅組終焉(しゅうえん)の地。明治維新の先駆けとなり、尊王攘夷派の志士として倒幕運動に決起した天誅組は、不運にも京都で起こった政変により排斥され、挙兵の大義名分を失う。
 その後、幕府の追討軍を相手に各地で奮戦を続けたが、この地で力尽きた。その義士の一人が池田謙次郎で、墓所が境内にある。
 謙次郎は近江信楽谷郷士。軍資金を預かる役割だったが、同村谷尻で紛失に気づき、責任を負って自刃した。22歳だった。
 周辺には多くの義士の墓や菩提寺があり、村人たちの温かい手によって義士たちの供養が続けられている。宝蔵寺も天誅組の菩提寺のひとつ。今年は天誅組決起から150年目の節目にあたる。
 国を憂い散っていった義士たちを偲(しの)ぶとき、満開の桜が志士たちを慰めているかのように思える。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会理事長 小北博孝)


東吉野村にこんな見事な一本桜(孤高の桜)があるとは、ついぞ知らなかった。奈良県で桜というと、吉野山を筆頭に、郡山城址、石上神宮外苑公園、三室山、高田川畔と、ぱあっと広がって咲くイメージがあるが、文中にあるとおり「宇陀市の又兵衛桜はよく知られているし、山添村の大照寺(だいしょうじ)跡の桜、桜井市の瀧蔵(たきくら)神社の権現桜も人気がある」。また、奈良市内で最も早く咲く2本の桜(氷室神社のしだれ桜、大和文華館の三春瀧桜)も、一本桜だ。これらを開花順にたどるのも、面白い。

今年は天誅組決起150年。これについては私も改めて、この「なら再発見」に寄稿する予定である。「奈良はミナミが面白い」。東吉野村の宝蔵寺(0746-44-0456 )の桜は、例年は4月半ばに満開となるようだが、今年は少し早まりそうである。ぜひいちど、お訪ねください!

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奈良まほろばソムリエ検定(第7回)ソムリエの試験結果が発表!

2013年03月29日 | 奈良検定
本年(2013年)1月13日に実施された第7回奈良検定(奈良まほろばソムリエ検定)の最上級資格「奈良まほろばソムリエ」の結果が発表された。カッコ内は前回の数字である。
※トップ写真は、2010年4月に撮影した八重桜

受験者数252人(277人)、合格者数38人(63人)
合格率15.1%(22.7%)
最高得点85点(87点)、平均点57.8点(62.0点)


合格率がたった15%と、噂どおり「チョー難しくなった」のである。ちなみに初回(第3回検定=2009年)からの推移を見ると

31.3%(2009年)→29.4%(2010年)→34.9%(2011年)
→22.7%(2012年)→15.1%(2013年)

私が合格したのは2010年だが、この頃は3割前後の合格率だったのである。昨年の「22.7%」で、合格率は初めて20%台前半にまで落ちた。これに対し、私は「難しすぎる」と言ったが、「京都検定1級(最上級)の合格率はヒト桁~10%台なので、これで良い」という反論があった。今回のソムリエの15.1%は、直近の京都検定1級の合格率15.2%を下回る。いよいよソムリエは京都検定1級より難しくなったのである。

私見では、こんなに難しくする必要はないと思う。それでなくても奈良検定受験者は年々減少しているのである。奈良検定の目的は《奈良に精通した「日本文化の伝道者」の育成と、ホスピタリティーの向上》である。以前にも指摘したが、

4)ルイス・フロイスの『日本史』に記載されている松永久秀の多聞城を絶賛した書簡を差し出した宣教師は誰か。
   ア.ドン・ジュスト イ.ルイス・デ・アルメイダ
   ウ.ミゲル・ミノエス エ.ベルナール・プティジャン


こんな知識がないと「奈良に精通した日本文化の伝道者」になれないのだろうか(正解はイ.)。明らかに「落とすための試験」になっている。

いくら珍問・奇問を出しても「四択」なので、どこにマークしても25%の確率で正解となる。だから見かけの平均点がさほど落ちていないだけで、実態はもっと深刻なのである。出題者は、過去に出された問題を避けるあまり、重箱の隅をつつく出題に走るのだろうが、「奈良に精通した日本文化の伝道者」に必須の知識は、さほど多くない。過去問そのままでなく、過去問をアレンジして新しい問題に組み替え、本当に「ホスピタリティーの向上」に必要な知識を試す出題とすべきではないだろうか。いくら何でも10%台の合格率は異常である。

また受験経験者として言わせてもらえば、試験の形式にも問題がある。試験は4択が30問(60点)、あと記述式が3問(200字が10点×2問、400字が20点×1問の計40点)である。しかも試験時間は他の級と同じく90分しかない。ソムリエ試験で、とにかく時間をとられるのが記述式で、ちゃんとした答案を書くのは大変なのである。「ホスピタリティーの向上」に資する能力も、記述式で試される。しかし結果(点数)を大きく左右するのは、まぐれでも25%の確率で正解する4択なのである。配点や制限時間を見直さないと、記述式にマトモに取り組めない。

ともあれ私の周囲では、この難関をかいくぐり、同じ職場のS水さんやOBのM田さんが合格された、おめでとうございます! いつも「古社寺を歩こう会」に来てくださる清水千津子さんも合格された、おめでとうございます!いただいたメールには「奈良まほろばソムリエ、なんとか合格しました。今日、合格の認定証とバッジをもらいました」「ソムリエの会にも入会したいと存じますが、どのグループに入るか、迷っています」と、すでにNPO法人奈良まほろばソムリエの会の入会も検討されている(私はとりあえず「交流グループ」を薦めておいたが、「啓発グループ」も良い)。

ホテルサンルート奈良・社長の中野聖子さんも合格された。Facebookには「ありがとうございます!ギリギリ70点ですが、やっと合格出来ました!これからも一生懸命勉強します!」と書かれ、すぐに約220の「いいね!」と37件ものお祝いコメントが入っていた。中野さん、おめでとうございます。

合格された皆さん、おめでとうございます。ぜひNPO法人奈良まほろばソムリエの会にご入会ください!残念ながら合格には届かなかった皆さんも、NPO法人奈良まほろばソムリエの会に入会できます(NPO化に伴い、「奈良を愛する者」なら、誰でも入会できるよう変更されました)。ぜひ入会され、一緒に奈良を学びましょう!
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奈良交通・古事記をめぐるバスツアー「御所コース」案内記

2013年03月28日 | 記紀・万葉
当ブログで紹介する順序が逆になったが、奈良交通とNPO法人奈良まほろばソムリエの会のタイアップによる「古事記をめぐるバスツアー」の御所コース(3月10日と17日に実施)は、好評裡に終了した。正式には「御所・葛城に黎明期の大和を訪ねる」というコース名で、行程は

近鉄・JR奈良駅→大和八木駅→鴨都波(かもつば)神社→神武天皇社→嗛間(ほほま)神社(嗛間丘と国見山を眺望)→宮山古墳・孝安天皇秋津嶋宮→(昼食)→葛木御歳(みとし)神社→葛木水分(みくまり)神社→長柄神社→大和八木駅→近鉄・JR奈良駅

このコースでメインガイドを務めたのは、奈良まほろばソムリエの会のガイド名人・田原敏明さんで、私もサブガイドとして参加した。以下、田原さんがお作りになったレジュメから内容を引用する。


鴨都波神社の境内で。以下、写真は3月17日の撮影

御所市(古代の葛城)の変遷
・古代の葛城は、御所市・葛城市・大和高田市・香芝市・河合町・広陵町・王寺町に囲まれた範囲。現在の御所市は律令制の大和国葛上郡の地で、古瀬付近は高市郡巨勢郷に属した。
・明治22年の郷村の合併の時、新しい村名に記紀に詠まれた地名を採る 掖上村、秋津村
・南葛城郡御所町が秋津村を編入(1954年)、掖上村を編入(1955年)
・1958年に御所町を中心に近隣の村を合併して御所市が誕生。(今年は市制55周年)
・市の花:つつじ、市の木:くすの木 (1978年選定)



鴨都波神社(かもつばじんじゃ)
御祭神:積羽八重事代主命(つわやえことしろぬしのみこと)、下照比売命(したてるひめのみこと)
社伝によれば、崇神天皇の時代、大国主命第11世太田田根子の孫、大賀茂都美命が創建した。一帯には鴨都波遺跡があり、弥生時代の土器や農具が出土しており、古くから鴨族が住み着き、農耕をしていた。事代主神を奉斎した鴨王の娘が、神武・綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)の三代天皇の皇后となった由縁から、祭神は皇室の八神の守護神の1つとして崇拝された。

鴨都波遺跡
東西約450メートル、南北約500メートルの弥生時代の大規模集落跡
鴨都波1号墳
東西16m、南北20mの方墳。粘土槨、コウヤマキ棺(L4.3mxW0.43)。
棺蓋・棺身の内面は水銀朱を塗布。4面の三角縁神獣鏡、方形板革綴短甲(百済系?)。小規模方墳としては豪華な副葬品=葛城氏の巨大な力

神武天皇社(御所市柏原)
御祭神:神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)(日本書記:神日本磐余彦天皇):神武天皇
・古事記:「かく荒ぶる神等(かみども)を言(こと)向け平和(やわ)し、伏(まつろ)はぬ人等を退(そ)け撥(はら)ひて、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらみや)に坐しまして、天(あめ)の下治(し)らしめしき。」
・大和誌(享保21年:1736)「橿原宮。柏原村に在り」
・菅笠日記(本居宣長 明和9年:1772)「今かしばらてう名はのこらぬかととへば、さいふ村はこれより一里あまりにしみなみの方に侍れ」
・神武天皇国見の歌(日本書紀):掖上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘に登りまして、国の状(かたち)を廻(めぐ)らし望みて曰はく「研哉乎(あなにや)国を獲(え)つること。内木綿(うちゆふ)の 真迮(まさき)国と雖(いえど)も、猶し蜻蛉(あきづ)の臀呫(となめ)の如くにあるかな」とのたまふ。是に由りて始めて秋津洲(あきづしま)の号(な)有り。


神武天皇社の説明をされる藤井先輩(向かって左端)

つまり、『大和誌』や本居宣長『菅笠日記』によれば、神武天皇の即位した橿原宮は、今の橿原神宮の場所ではなく、この御所市柏原の地だというのである。白洲正子も『かくれ里』(講談社文芸文庫)に書いている。《なぜそんな所に興味をもったかといえば、神武天皇が即位されたのは、今の橿原神宮ではなく、おそらくこの柏原の地だからである。何度も人に尋ねながら行くと、その社は、柏原の町中の、藤井勘左衛門氏という家の前を入った、小路の奥に鎮座していた》。



《村の鎮守といった格好で、みすぼらしい社殿があるだけだが、畝傍の裏にひっそりとかくれて、村人たちに「神武さん」と呼ばれて護られている姿は、土豪に擁されて即位した磐余彦の、ありのままの姿をほうふつとさせる。人も知るように、現在の橿原神宮は、明治の中頃できたもので、地名も橿原ではなく、白橿の村といったと聞く。どういういきさつで、そこが正しい宮跡とされたか、私は知らないけれども、徳川時代にはすでにわからなくなっていたらしい》。なお神武天皇の宮=柏原説の論拠は、鳥越憲三郎氏(大阪教育大学名誉教授)の『神々と天皇の間』(朝日文庫)に詳しい。

神武天皇社と嗛間(ほほま)神社は、地元・御所市柏原の藤井さんにご案内いただいた。藤井さんは私の会社の先輩である。『かくれ里』に登場する藤井勘左衛門氏は藤井先輩の曾祖父で、ご自宅で白洲正子に応対されたのは先輩のお母様だそうだ。

嗛間神社は藤井宅に隣接していて、普段は参拝できないのであるが、この日は特別に鍵を開けてくださった。ツアーで見ていただくのは本邦初だそうで、参加者の皆さんにはとても喜んでいただいた。


向かって右の小さな祠が嗛間神社


嗛間神社に隣接する藤井邸にもお邪魔した

嗛間神社(嗛間丘=本馬山を眺望)
御祭神:阿比良比賣(日本書紀:吾平津媛命)=神武天皇の前妃
日向時代 神武天皇・阿比良比賣(あひらひめ) →多藝(たぎ)志(し)美(み)美(みの)命(みこと)(手研耳命)、岐須美美命
大和平定後 神武天皇・伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)(媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ))→日子八井命、神八(かむや)井(い)耳(みみ)命(のみこと)、神沼(かむぬな)河(かわ)耳(みみの)命(みこと)(綏靖天皇)(ただし日本書紀では 神八井命、神渟名川耳尊の二子)
狭井河よ 雲立わたり 畝火山 木の葉騒ぎぬ 風ふかむとす(伊須氣余理比賣)



藤井邸のお庭から国見山が望める



宮山古墳(室の大墓)
5世紀前半(西暦420年頃)築造。全長238メートルの前方後円墳、3段築成、高さ25m。
・後円部の墳丘中軸を挟んで南北に二つの石室があり、板石積の竪穴式石室に竜山石製の長持ち型石棺を納める。
・二重の埴輪列が石室を囲む。南石室の外側の埴輪列は甲冑・楯・靭形埴輪を外側へ向けて並ぶ。
・長持ち型石棺は蓋の全長3.77mで、6か所の縄掛突起を持つ。内部に朱を塗る。
・靭(ゆぎ)埴輪 :高さ147cm、最大幅99.5cm
・家形埴輪は極楽寺ヒビキ遺跡の大型建物の復元モデルとなる。
・被葬者は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が有力



宮山古墳は、石棺内部を見ることができる。この麓に「第6代孝安天皇秋津嶋宮」があったとされる

葛城氏
葛城族の長としては、神武天皇の大和征服により葛城国造に命ぜられた葛城劔根(かつらぎのつるぎね)の名前が日本書紀に初めて見えます。葛城一族は4世紀末~5世紀の葛城襲津彦の時代に全盛期を迎え、娘の磐之媛は仁徳天皇に嫁ぎ、履中・反正・允恭天皇を生みます。襲津彦は朝鮮半島の戦いで数々の武勲をあげた。その時の国人を連れて帰り、桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海の4邑に住まわせて、当時の最新式技術を取り入れた鉄製品などを造らせたと伝えられている。

なお襲津彦の父親は、数代の天皇に仕えたという伝説上の人物の武内宿禰。武内宿禰は襲津彦を含む7人の息子を持ち、その中には蘇我氏の祖となる蘇我石河宿禰、巨勢氏の祖となる許勢小柄宿禰、平群氏の祖となる平群都久宿禰がいる。



宮山古墳の石棺内部。うっすらと朱が残っている(こちらは、2010.9.18の撮影)

巨勢氏
6世紀のはじめ、武烈天皇(25代)は世継ぎに恵まれず、血統断絶の危機を迎える。応神天皇の5代後の継体天皇の擁立に巨勢男人(こせのおひと)が活躍し、巨勢氏の権勢が大きくなる。首長墓として條ウル神古墳・水泥古墳(北・南)が考えられる。巨勢山古墳群は800余基からなる。

蘇我氏
葛城の地は蘇我氏の本願地でもある。蘇我氏が権力を手にするのは飛鳥時代である。蘇我馬子が蘇我氏本願地の高宮地区の返還を推古天皇に迫ったり、蘇我蝦夷が祖廟を葛城の高宮に立て、天皇家に許された八佾の儛(やつらのまい)を行う。

中西遺跡 
弥生時代の水田。面積約2万平方メートル(甲子園球場4個分)。
・洪水に襲われた形跡。
・小規模な企画に造成。1区画は10~15平方メートル
・埋没林 : 2400年前の林が幹まで残っていた。
・計画性と労働力を持った集団の存在

秋津遺跡 空白の4世紀を埋める発見
纏向遺跡の消滅と同時期に出現。4世紀前半(古墳時代前期)の大型建物群
・下層(水田がある)より縄文時代のクワガタ発掘
・方形区画施設 7基(長辺約30~50mx短辺約15~20m)の検出
・杭を打ち並べた溝の内外を2~3mの間隔で打った丸太で押さえる。
・4世紀前半の大和政権の変遷(二大勢力化 : 東の纏向、西の葛城)
・葛城族の興起は325年頃 : 宮家と豪族の分化

第6代孝安天皇秋津嶋宮
孝安天皇(前427年-前291年)在位102年、136歳(紀)・123歳(記)で崩御
父:孝昭天皇、母:世襲足媛、 皇后:押媛  皇子:孝霊天皇(第7代)
御所市周辺にある宮跡伝承地
神武天皇(初代):畝火の白檮原宮(橿原宮) 綏靖天皇(2代):葛城の高岡宮(高丘宮)、孝昭天皇(5代):葛城の掖上宮(池心宮)  孝安天皇(6代):葛城の室の秋津島宮

        

このあと、大和鮨 夢宗庵(むそうあん)御所店(柿の葉ずしヤマト)で昼食

葛木御歳(かつらぎみとし)神社
御祭神:御歳神(みとしのかみ)
相殿:大年神(おおとしのかみ)、高照姫命(たかてるひめのみこと)
・中鴨社といわれる。
・現在の本殿は、江戸期に春日大社の第一殿を移築したもの。平安期以降はこの辺りは興福寺・春日大社の荘園であった。





葛木水分(かつらぎみくまり)神社
御祭神:天水分神、国水分神 
・「水分」は「水配」の意で、水分神は山から流出する水の分岐点や分水嶺に鎮まる神のこと
・「この速秋津日子、速秋津比賣の二はしらの神、河海によりて持ち別けて、生める神の名は、…、次に天之水分神、次に國之水分神、次に…」(古事記)
・大和の四水分神社:吉野、宇陀、都祁、葛木



古来、大和盆地では「米一升、水一升」と水は大切にされてきた。葛城山麓の扇状地は、用水を得るのが困難な地域。そこでこの地域では「マンボ」と呼ばれる横井戸や「ダブ」と呼ばれるため池が作られていた。水越川の流域の名柄地区の本久寺では、毎年7月18日「角之進(かくのしん)祭」が催され、農業の感謝祭が行われる。江戸時代初期、葛城山と金剛山の間の水越峠付近で、大阪河内側に流れる水を大和吐田郷側に導水したのは上田角之進である。

その後、元禄14年5月に河内側農民千人と大和・吐田郷の農民は国境の水越峠に対峙し、流血直前、名柄村庄屋の高橋佐助の懸命な折衝で一旦は終息。最終的には京都所司代の判決により大和側の勝利となり、勝訴に導いた佐助は抜本解決をするため、吉野川から導水を計画。そして、約300年後にその夢は実現した。1956(昭和31)年、吉野川分水が完成し農業用水が引かれ、1974(昭和49)年東西幹線水路が完成。



長柄神社本殿


本殿の屋根の庇(ひさし)の裏に、何やら絵が…(2010.9.18撮影。下の写真とも)


描かれていたのは、「八方睨みの龍」だった!

長柄神社
御祭神:下照姫
長柄神社は名柄街道と水越街道の交差点に位置している。祭神は下照姫で、俗に「姫の宮」と称し、「延喜式」神名帳に記されている。本殿は一間社春日造、桧皮葺、丹塗で県指定文化財。天武天皇9年9月9日に長柄杜で流鏑馬を行なったと日本書紀は記す。


地元出身の堺屋太一(池口小太郎)が、長柄神社灯籠を寄進している。実家も近くにあった

今回のツアーでは、藤井ファミリーのご好意で神武天皇社や嗛間神社を拝ませていただき、またお庭から国見山を見せていただいた。田原さんのトークも絶好調で、ビジュアル資料を駆使しながら、難しい話をやさしく丁寧に解説していただいた。ツアーで喜ばれるのは「今だけ、ここだけ、あなただけ」だといわれるが、このツアーでは、まさにそれが実現したのである。 

藤井先輩、田原さん、有難うございました。奈良交通とNPO法人奈良まほろばソムリエの会のタイアップツアー、いよいよ4月からは万葉集をテーマに、奈良まほろばソムリエと歌って巡ろう!大和路・万葉の旅というバスツアーが始まります。古事記ツアー同様、たくさんの方のご参加をお待ちしています!        
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まだ間に合います、ヤマトタケルコース!(奈良交通・古事記をめぐるバスツアー)

2013年03月27日 | 記紀・万葉
奈良交通とNPO法人奈良まほろばソムリエの会のタイアップによる「古事記をめぐるバスツアー」、いよいよこの土曜日(3月30日)のヤマトタケルコースで最終回を迎える。奈良県下でヤマトタケルゆかりの地を訪ねるというバスツアーは、めったにないことである。参加費は、昼食つきで5,800円。今も受付中だが実施日が近づいているので、ぜひお早めにお申し込みいただきたい。
※トップ写真は「日本武尊琴弾原白鳥陵」前。写真はすべて3/24の撮影

私はこのコースで、サブガイドを担当している。これからお申し込みされる方のために、同じコースの3月24日(日)実施分の様子を、写真とともに紹介させていただく。

「ヤマトタケルコース」(3月24日、30日)のメインガイドは、奈良まほろばソムリエの加藤英之さんである。加藤さんは愛知県刈谷市在住で、愛知県下のメーカーの経理マンである。米国公認会計士の資格もお持ちだ。24日は前日の土曜日から奈良に泊まられ、この日のコースをおさらいされたそうだ。この熱心さには頭が下がる。コースは

近鉄・JR奈良駅―日本武尊琴弾原白鳥陵―掖上鑵子塚古墳―(昼食)―景行天皇陵―黒塚古墳資料館―崇神天皇陵―白堤神社―石上神宮・出雲建雄神社―近鉄・JR奈良駅

である。以下、加藤さんが作られた解説資料から抜粋して、各史跡を紹介する。

日本武尊琴弾原白鳥陵(ヤマトタケル ことひきはらしらとりりょう)
所在地:御所市富田
被葬者:倭建命(?)



倭建命(ヤマトタケルのみこと)は、伊吹山の神との戦いに深手を負い、故郷の大和へ帰る途中、伊勢国(三重県)の能褒野(のぼの)で薨去(こうきょ)しますが、その直前に故郷を偲んで詠んだとされるのが次の歌です。

やまとはくにのまほろば たたなづくあをかき やまこもれる やまとしうるはし(大和は秀でた国だ。重なり合っている青い垣。山に囲まれている大和は美しいなあ。)

これは、国偲び歌と呼ばれます。ヤマトタケルは、『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と表記されています。以下、できるだけ『古事記』に基づき、「倭建命」で統一することにします。

『古事記』によると、倭建命薨去の知らせを聴いて大和にいる妃や御子たちが能褒野に駆け付け御陵を作ります。しかし、倭建命は大きな白鳥となって飛び立ち、浜や海を越え、漸く河内の志幾(八尾市)に降り立ちます。更に妻子たちが追い掛けてゆき、志幾(しき)に2つ目の御陵を作ります、白鳥は再び飛び立って行ってしまいます。伊勢から河内と云う飛行ルートで、大和は素通りとなります。能褒野で国偲び歌を詠んだ倭建命ですが、死んでも故郷の大和に還ることはできなかったと云う悲劇となっています。



ここは大和です。では、目の前にある白鳥陵は一体何なのでしょう? ご覧のようにこの日本武尊琴弾原白鳥陵には鳥居もありませんが、宮内庁が『日本書紀』に基づいて御陵として管理しているれっきとした陵墓です。『古事記』とは異なり、『日本書紀』では、白鳥は、伊勢の能褒野(亀山市又は鈴鹿市)~大和の琴弾原(御所市)~河内の旧市邑(羽曳野市軽里)と云うルートで飛んで、御陵は3つあることになっています。実は、日本武尊琴弾原白鳥陵は、『古事記』ではなく、『日本書紀』に基づいて宮内庁が指定したものなのです。因みに、白鳥の三陵は、現在下記が指定されています。

①三重県亀山市田村町名越 能褒野王塚古墳
②奈良県御所市富田 日本武尊琴弾原白鳥陵
③大阪府羽曳野市軽里 軽里大塚古墳


余談ですが、『日本書紀』では、倭建命が白鳥となって能褒野の御陵から飛び立った後で、柩を開いてみると、衣だけが空しく残って屍はなかったと伝えられています。また『日本書紀』では、仁徳天皇の時に、どうせ白鳥陵は空っぽであるのだから、白鳥陵のを廃止して、役丁(えよほろ/えきちょう)に従事させようとしたところ、変異が起こったので元通りに戻したと云う記事もあります。

掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳
所在地:御所市柏原字鑵子山
被葬者:葛城氏(?)江戸時代には、武内宿禰、考安天皇、倭建命の説がありました
墳形:前方後円墳
石室:竪穴式石室
規模:全長150㍍、後円部の径102㍍、高さ17.5㍍、前方部の幅88㍍、高さ12㍍
築造年代:5世紀後半とされます。



この付近には、他にも鑵子塚と呼ばれる古墳が多数存在します。真弓鑵子塚(円墳)、与楽鑵子塚(円墳)、近内鑵子塚(円墳)など。鑵子(かんす)とは、青銅や真鍮などで作られた湯沸かしのことだそうです。掖上鑵子塚古墳の場合、後円部が3段に築成されている姿によるものでしょうか。

掖上鑵子塚古墳は、宮山古墳(室大墓)の東方約2㎞に所在し、国見山北側の尾根先端部を利用し切断して造られた前方後円墳。前方部を南西に、後円部を東北に向けています。周囲は、現在は埋め立てられて水田になっていますが、周壕(しゅうごう=堀)の痕跡がはっきりしています。1970年代に前方部周濠の発掘調査が行われ、円筒埴輪のほかにコウヤマキ製の木製品の一部が見つかっています。

周濠は前方部と後円部で9メートルもの比高差があり、また、この時の発掘調査の成果から周濠には水を湛えていなかったということが判っているとのこと。前方部の南側の周壕内に径約50㍍の円墳(掖上鑵子塚南古墳)が取り込まれています。後円部は3段、前方部は2段に築成され、葺石と埴輪列の存在が確認されています。

残念ながら、古くに盗掘を受けており、江戸時代の古図(1788年の大和御陵図)によると、後円部中央に石棺の一部が露出しており、宮山古墳と同様の長持型石棺があったらしい。現在も墳頂部に板石が散乱しているとのこと。須恵質の円筒埴輪が出土している他、冠帽形埴輪、柄頭形埴輪、水鳥形埴輪並びに当古墳出土の可能性のある衝角付冑形埴輪があります。柄頭形埴輪の文様は、宮山古墳のものと類似しています。

南葛城地方では、宮山古墳に次ぐ規模を持ち、江戸時代には日本武尊琴弾原白鳥陵と考えられていた時期もあります(『和陵三才図絵』、『聖跡図志』)。ご覧の様に、掖上鑵子塚古墳は、非常に見晴らしの悪い所にあります。逆に、周囲からも見えにくい所にこっそり築造されたものと言えます。憚りがあって、おおっぴらに古墳を築造することが出来なかった有力者の墓であると云う説もあります。



御所市から天理市に移動する途中、桜井市の「三輪茶屋」(三輪そうめん山本)で、にゅうめんと柿の葉寿司の昼食である。温かいにゅうめんで暖をとったあとは皆さん、「桜めん」(桜葉を練り込んだピンク色のそうめん。期間限定)、「生姜めん」(生姜を練り込んだそうめん。体がぽかぽか温まる)や「NEW麺」(お鍋にそのまま放り込んだり、電子レンジでも調理できるにゅうめん)をお土産に買っておられた。ここはトイレもきれいなので、とても有り難い立ち寄り場所である。





景行天皇陵
所在地:天理市渋谷町向山
被葬者:景行天皇(?) 江戸時代末の文久年間までは、崇神天皇陵とされていました。
墳形:前方後円墳で、後円部は3段、前方部も3段に築成されています。東西軸で、西に前方部が位置します。
石室:埋葬施設は不明だが、竪穴式石室(?)
規模:全長300㍍、後円部の径168㍍、高さ25㍍、前方部の幅170㍍、高さ23㍍
築造年代:4世紀後半(古墳時代前期後半)とされています。



奈良盆地の東南部、山の辺の道の天理から三輪山にかけては大型古墳が集中し、大和古墳群と呼ばれています。大和古墳群は、更に北から、萱生古墳群、柳本古墳群、纏向古墳群の3つのグループに区分されています。萱生古墳群が、大和古墳群と呼ばれることもあるので注意。柳本古墳群には、景行天皇陵、天神山古墳、櫛山古墳、崇神天皇陵、黒塚古墳が含まれています。築造順は、天神山古墳⇒黒塚古墳⇒崇神天皇陵⇒景行天皇陵⇒櫛山古墳(大和の古墳編年による)。

景行天皇陵は、地名から渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)とも呼ばれています。現在は、第12代景行天皇の山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)とされています。景行天皇は倭建命の父に当たります。『古事記』によれば、景行天皇は、纏向の日代宮に都をおいたとされています。江戸時代の文久年間までは、第10代崇神天皇の山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)とされていました。慶応元年(1865年)に景行天皇陵に指定替えされました。

黒塚古墳
所在地:天理市柳本町黒塚
被葬者:?
墳形:前方後円墳で、後円部は3段、前方部は2段に築成されています。東西軸で、西に前方部が位置します。
石室:竪穴式石室
規模:全長130㍍、後円部の径72㍍、高さ11㍍、前方部の幅51㍍、高さ6㍍
築造年代:4世紀初頭(古墳時代前期初頭)とされています。

黒塚古墳は、櫛山古墳、崇神天皇陵と同じ尾根の西端に造られています。周囲に水をたたえた周濠をめぐらしています。戦国時代には楊本氏が楊本城、江戸時代には織田氏が柳本陣屋を構築していたこともあり、改変を受けていると云われます。



1997年から1998年にかけて発掘調査が行われました。U字状の粘土床が後円部の竪穴式石室から見つかりましたが、この上には直径1m以上の丸太をくり抜いた長さ6.2㍍の割竹形木棺が据えられていたと推定されています。割竹形木棺と遺体は腐食してなくなっていましたが、34面の鏡、刀剣類、鉄鏃、U字形鉄製品、Y字形鉄製品、水銀朱などが出土しました。出土した34面の鏡は、木棺内の画文帯神獣鏡1面を除き、全て三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)と云う構成。天神山古墳が三角縁神獣鏡を全く伴わなかったのと好対照となっています。葺石や埴輪は確認されていません。

崇神天皇陵
所在地:天理市柳本町行燈
被葬者:崇神天皇(?) 江戸時代末の文久年間までは、景行天皇陵とされていました。
墳形:前方後円墳で、後円部は3段、前方部も3段に築成されている。東西軸で、西に前方部が位置します。
石室:埋葬施設は不明ですが、竪穴式石室(?)
規模:全長242㍍、後円部の径158㍍、高さ23㍍、前方部の幅102㍍、高さ15㍍
築造年代:4世紀後半(古墳時代前期後半)の早い時期と推測されています。



崇神天皇陵は、地名から、行燈山古墳(あんどんやまこふん)とも呼ばれています。現在は、第10代崇神天皇の山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)とされています。崇神天皇は、景行天皇の祖父に当たります。『古事記』によれば、崇神天皇は、師木の水垣宮に都をおいたとされています。

江戸時代の文久年間までは、第12代景行天皇の山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)とされていました。慶応元年(1865年)に崇神天皇陵に指定替えされました。古墳時代前期の築造です。春日断層崖から盆地部へ伸びる丘陵の一つに造られた前方後円墳です。奈良県内では箸墓古墳に次いで第4位。全国の古墳の中でも第16位の大きさを誇ります。周囲に水をたたえた階段状の周濠3をめぐらしており、灌漑に利用されています。幕末の文久年間に大規模な修陵が行なわれています。

白堤神社(しろつつみじんじゃ/しろとりじんじゃ/はくていじんじゃ)
所在地:天理市長柄町池ノ尻
御祭神:倭建命



倭建命を白鳥明神として祭祀するのは、奈良県ではこの白堤神社だけです。延喜式神名帳の山邊郡白堤神社(しろつつみじんじゃ)に該当するとされています。また『大和志』には「長柄村にあり。今白鳥明神と称す」とあります。

『山辺郡記』には、「伝説では、いにしえは大熊神社(祭神は大熊命=白堤の首の祖)を村社としていた。しかしその後、境内社である白鳥社(祭神は倭建命)の方を本社として、白堤社の名称を継承したために誤解が生じたと云うのが真相に近いであろう」とあります。大熊社は、現在、境内社となっていますが、本社と対等の風格を備えています。白堤神は堤の神としての性格を持つ神で、旧地は現在よりも200㍍南の白鳥池の西堤上に鎮座していました。



太平洋戦争末期の1944年、本土決戦に備える特攻隊基地として大和海軍航空隊大和基地(通称、柳本飛行場)が建設されました。このときに白鳥池は埋立てられ、白堤神社は小学校校庭に強制移転されました(旧地には、白堤神社跡の碑が建っています)。更に1946年現在地に再度移転されました。付近には、防空壕が2つ残っています。

天理市の宮崎酒造は、白堤(はくてい)と云う銘柄の清酒を醸造販売していますが、これは近所の白堤神社からとったものと云います。白堤は、石上神宮にも奉納されています。白堤のラベルには、倭建命の草薙剣がデザインされています。(残念ながら、宮崎酒造は2012年末に廃業しました。)



この「白堤」の酒樽は、石上神宮の境内で見つけた

石上神宮
所在地:天理市布留町384
主祭神:布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ)
御祭神:布留御魂大神 (ふるのみたまのおおかみ)、布都斯魂大神 (ふつしみたまのおおかみ)、宇摩志麻治命 (うましまじのみこと)、五十瓊敷命 (いにしきのみこと)、白河天皇、市川臣命 (いちかわおみのみこと)
御神体:布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)

石上神宮は、大和朝廷の宝物庫兼武器庫として重要な役割を果たしていました。『古事記』神武東征の際、熊野で苦戦する神武天皇(カムヤマトイワレビコ)に、天照大神と高木の神とが、高倉下を通じて横刀(布都御魂)を届けます。この補給により神武天皇は、窮地を脱することができました。この横刀が、現在、御神体として本殿に奉斎されている布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)です。

『古事記』垂仁天皇の時代に、皇子の印色入日子命(イニシキノイリヒコ)が横刀千口を作り、石上神宮に納付しています。印色入日子命は、景行天皇(オホタラシヒコオシロワケ)の兄です。

『日本書紀』垂仁天皇の時代に、五十瓊敷命(イニシキノミコト)(印色入日子命と同一)が、石上神宮の神宝の管理を妹の大中姫(オオナカツヒメ)に委託しようとしましたが、大中姫は、これを物部十千根大連(トオチネノオオムラジ)に授権します。以来、物部氏が石上神宮の神宝、即ち、武器を管理することになりました。

『日本書紀』垂仁天皇の時代に、丹波国桑田村の甕襲(みかそ)と云う人が、むじなの腹から八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を見付けて献上しました。これは、現在、本殿に奉斎されています。

『古事記』履中天皇(イザホワケ)は、墨江の中つ王の乱に際して、難波の宮から石上神宮に避難しています。

元々は大神神社と同様、石上神宮には、本殿はなかったそうです。拝殿奥の禁足地が礼拝の対象だったと云います。明治7年(1874年)に禁足地を発掘したところ、伝承通り2つの神宝(布都御魂剣、八尺瓊勾玉)その他が出土したことから、本殿が建造されることになりました。また建造中にも、明治11年(1878年)の禁足地再発掘で刀が出土しました。この刀が、現在、御神体として布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)と一緒に本殿に奉斎されている布都斯魂剣(ふつしみたまのつるぎ)です。禁足地は現在も石の瑞垣で囲まれています。



拝殿(国宝)
第72代白河天皇が、石上神宮の鎮魂祭のため、永保元年(1081年)に宮中の神嘉殿を寄進されたものと伝えられています。現存する拝殿としては、全国で最古の建造物となります。正面七間、側面四間、檜皮葺、入母屋造、向拝付きの建物です。鎌倉時代に改修を受けており、大仏様の貫の技法が使われています。

七支刀(しちしとう/ななつさやのたち)
『日本書紀』の神功皇后52年に「百済王が久氐を遣わし、七枝刀を奉った」と云う記事があり、この刀が該当するとされています。刀身の表と裏に金象眼の銘文61字のあることが発見され、「泰(和)四年(369)五月十(六)日丙午正陽」と始まる銘文に「七支刀」とあり、百済王世子が倭王にもたらした呪刀であると判読されています。神庫(ほくら)に収蔵されてきましたが、現在では他の主な御神宝と共に、昭和55年(1980年)に完成した宝物収蔵庫に奉安されています。

禁足地出土品:勾玉・管玉・環頭大刀柄頭等。宝物収蔵庫に奉安。
鉄盾二枚:1枚は、東京国立博物館に委託。1枚は、宝物収蔵庫に奉安されています。
色々威腹巻(いろいろおどしはらまき):腹巻とは、背中で引合わせる鎧。足利尊氏奉納と伝えられる。奈良国立博物館に委託。

摂社出雲建雄神社(せっしゃ いずもたけおじんじゃ)
所在地:天理市布留町
御祭神:出雲建雄神(いずもたけおのかみ=スサノオノミコトを指す)
由緒:出雲建雄神は草薙神剣の御霊に坐す。今を去ること1300余年前、天武天皇朱鳥元年(686年)に布留川の上、日の谷に瑞雲立ち上る中神剣光を放ちて現れ「今此の地に天降り諸の氏人を守らむ」と宣し給ひ即ちに鎮座し給ふ。一間社春日造、檜皮葺。

摂社出雲建雄神社の右隣に祀られているのは、末社・猿田彦神社(祭神;猿田彦神)。一間社春日造、檜皮葺



奥に祀られているのは、
摂社 七座社:三間社流見世棚造
摂社 天神社:一間社春日造、檜皮葺

出雲建雄神社拝殿(国宝)
元々は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、大正3年(1914年)に出雲建雄神社拝殿として現在地へ移建されたもの。保延3年(1137年)に建立されました。切妻造り、檜皮葺で、正面五間側面一間。中央の一間は、馬道と呼ばれる通路となっており、割拝殿形式。また中央の一間は、屋根が唐破風となっています。馬道が付いている建造物の例としては、他に、法隆寺東院舎利殿及び絵殿、唐招提寺礼堂、東大寺二月堂参籠所等があります。


引用は以上である。加藤さんは、バス車中用、現地解説用、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」説明用の3種類もの資料を作られ、丁寧に解説された。改めて資料(A4版)の枚数を数えてみると、ざっと30枚もある。お客さんは「大学の先生みたい」と、加藤さんの解説に熱心に耳を傾けておられた。

冒頭にも書いたが、奈良県下でヤマトタケルゆかりの地というのは数が少ないし、資料も限られている。それをうまくつなぎ合わせ、また所どころで「草薙剣」の話もはさみながらお客さんの興味を引き付けるという工夫は、なかなかできるものではない。

最終回はいよいよこの土曜日(3月30日)である。同行する私の気持ちも引き締まる。このツアーでは、古事記マップや御所周辺の観光ガイドなど、添乗員さんが困るほどたくさんの資料をお渡しする。『古事記』に興味のある皆さん、ぜひご一緒しましょう!
※奈良交通の同ツアーのサイトは、こちら
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