tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

奈良の文化財修復に尽力した桂昌院(産経新聞「なら再発見」第113回)

2015年05月14日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載され、本年3月末で連載終了となった「なら再発見」、当ブログで未紹介だったものを順次紹介している。今回(3/7に掲載)紹介するのは「桂昌院 奈良の文化財修復に尽力」、執筆されたのはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」で広報グループに所属する辰馬真知子さんだ、辰馬さんは初回から連載終了まで、一貫して記事のチェック役をご担当いただいた。
※トップ写真は春日大社の桂昌殿(桂昌院が寄進した)。この写真は春日大社のHPから拝借。他の2点は記事から拝借した

桂昌院の通称は「お玉の方」で、それが「玉の輿」の語源だとする説がある。彼女については毀誉褒貶が激しい。桂昌院がいなければ5代将軍綱吉は生まれず、「生類憐みの令」という最悪の法令が発せられることもなかった。隆光僧正(奈良市出身)を寵愛したため、奈良や京都の寺社の建立や修繕などで、幕府財政は悪化した。しかし数々のおかげで多くの社寺が救われた。桂昌院に(女性として最高位の)従一位を与えるため、宮中からの使者を招くこともなかったので、松の廊下での刃傷沙汰も起こらなかった。つまり「忠臣蔵」は生まれなかった 等々。前置きはこれくらいにして、記事全文を紹介する。



 奈良の古寺をめぐっていると、必ず耳にする女性の名前がある。桂昌院(けいしょういん)(1627~1705年)だ。徳川幕府第5代将軍綱吉(つなよし)の生母で、お玉の方と呼ばれ、綱吉が将軍職に就くや大奥で権勢をふるった。
 元禄時代を描いた小説や時代劇では好ましからざる人物として描かれることが多い。だが奈良、ひいては日本の文化財にとっては大恩人なのだ。
      ※   ※   ※
 奈良に来た観光客がまず訪れるのが東大寺。大仏様のいらっしゃる大仏殿は、奈良時代の創建のものから数えて3代目にあたる。16世紀半ばの戦乱の時代に内乱によって焼失したあと、100年あまりも再建されず、公慶(こうけい)上人が費用の調達に苦心しながら完成させた。この資金調達に貢献したのが桂昌院だ。
 春日大社には寄進された建物、桂昌殿が残る。春日の神に宝物を奉納し、本社中門近くには徳川家の「葵紋」と彼女の実家である本庄(ほんじょう)家の「九目結(ここのつめゆい)紋」をつけた燈籠がある。
 世界最古の木造建築と仏像群が私達を古の時代へと誘う法隆寺。元禄時代の大修理は、桂昌院の支援のもと行われた。境内では綱吉の武運長久を願って奉納された燈籠や、軒丸瓦に徳川家と本庄家の家紋がある。
 唐招提寺で僧に受戒をする戒壇(かいだん)堂の再建やその堂宇の修繕にも、多額の寄進をした。戒壇堂は焼失し、今では石壇が残るのみとなっているが、その門と鬼瓦にある両家の家紋が歴史を物語る。



春日大社に桂昌院が奉納した燈籠

 長谷寺・室生寺への深い帰依(きえ)、信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)・新薬師寺・東明寺(とうみょうじ)(大和郡山市矢田)の整備―など、桂昌院が奈良に残した足跡は枚挙にいとまがない。
      ※   ※   ※
 桂昌院の生まれは京都。将軍側室の侍女として江戸城に入り、自らも3代将軍家光の側室となって綱吉を産んだ。信仰心が篤く、祈祷(きとう)を行う護持僧(ごじそう)として仕えていた隆光(りゅうこう)に深く帰依し、綱吉に世継ぎとなる男子を授かるために仏教の功徳を積もうとした。すべての生き物の殺生を禁じた『生類憐(しょうるいあわれ)みの令』は、彼女が綱吉に勧めたといわれる。



徳川家と本城家の家紋が彫られた唐招提寺戒壇南門の彫刻

 そして、日本各地の神社仏閣の復興に力を尽くすようになった。特に、隆光が奈良の出身だった縁で、多くの奈良の寺社の整備を金銭面で支えた。しかし、その額は国家予算の3分の1にも上ると推算されるほどで、『生類憐みの令』で社会を混乱させたこととともに、「幕府の財政をも傾けた悪女」とみなされることが多い。
 すべてがわが子綱吉の世の泰平を願ってのことであったが、結果的には貴重な文化財を現在にまで伝えることに貢献することとなった。桂昌院の援助がなければ、今私たちが目にし、鑑賞することができる多くの文化財は違った形、もしくは伝承だけが残されていたかもしれない。
 江戸の人々が感じ、作り上げた桂昌院像、それはひとつの事実であろう。しかし奈良の古社寺を逍遥(しょうよう)し、私たちの眼前にある建物、仏像に彼女の祈りを見るとき、また別の桂昌院像が浮かび上がる。
 そして、古代より時代ごとに修復を繰り返し、かけがえのない文化財を現代に伝えるバトンを渡し続けてくれた先人たちに、心から感謝の意を表したい。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 辰馬真知子)


さすがに辰馬さんは女性らしく、すっきりとまとめられている。桂昌院は幕府財政を傾けたとはいえ、貴重な文化財を残してくれたことは間違いない。県下の社寺をお参りするときは、桂昌院の功績にも目を向けよう。辰馬さん、有難うございました。そしてこれまで115回もの原稿チェックに、厚く御礼申し上げます!

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不空院で、今日からご本尊の特別御開帳!(産経新聞「なら再発見」第115回)

2015年04月25日 | なら再発見(産経新聞)
不空院(真言律宗)は奈良市高畑町にある古刹で、奈良公園の南側を東西に走る県道80号線から新薬師寺に向かう細い南北の道の東側にある。今日から5月6日(水)まで、ご本尊の重要文化財「不空羂索観音菩薩坐像」が特別開帳され、南都銀行OB・OGから成るボランティア団体「ナント・なら応援団」のメンバーがガイドする。巡る奈良のHPによると、
※トップ写真は奈良市高畑町の不空院の本尊、不空羂索観音坐像。写真はお寺からいただいた

不空院 不空羂索観音菩薩坐像(重文)特別公開
ご本尊は、南円堂(興福寺)・法華堂(東大寺)に並び称される、不空羂索観音菩薩像。
特別開帳期間中は予約なしで拝観可能。
期間/2015年04月25日~2015年05月06日 09:00 ~ 17:00 500円
不空院 奈良市高畑町1365 詳細な地図はこちら 0742-26-2910
近鉄奈良駅から市内循環バス「破石町」下車、徒歩約10分 駐車場あり

産経新聞奈良版・三重版ほかに連載された「なら再発見」の最終回(3/28の第115回)に「高畑の不空院 鑑真や空海も住した古刹」として紹介したので、以下に全文を掲載する。


 
 奈良で不空羂索(ふくうけんさく)観音といえば、東大寺三月堂(法華堂)の立像(りゅうぞう)と興福寺南円堂の坐像が有名だが、他にもいらっしゃる。
 その1つが、奈良市高畑町の不空院だ。新薬師寺の東側の道を北へすぐの場所にある。檀家(だんか)寺のため、住職が留守がちなので、本堂は閉じられていることが多い。
 こぢんまりとしたお寺だが、歴史は古い。来日した鑑真和上は一時ここに住んでいたと、現在の奈良ホテルの場所にあった大乗院の門跡が3代にわたって書いた「寺社雑事(ぞうじ)記」に載っている。その住房跡に平安時代の初め、空海が住した。
 藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父・内麻呂の追善のため興福寺に南円堂を建てることを空海に相談したところ、空海はそのひな形として、当地に八角円堂を建てたのが始まりとされるが、詳細は不明だ。当院に残る昔の境内図には円堂が描かれ、「観音堂」と書かれている。その八角円堂は、安政の大地震で倒壊した。以後、廃寺同然となったが、大正末期に再興された。円堂の礎石は今、本堂床下に眠っている。
 本尊の不空羂索観音坐像は、鎌倉時代に制作された。像高1メートル余の寄木造で、国の重要文化財だ。鎌倉期には不空院中興の興福寺円晴が、唐招提寺覚盛(かくじょう)、西大寺叡尊(えいそん)、西方院有厳(ゆうごん)ら高僧とともに当院で戒律を講じ、多くの衆生に戒を授けたと伝える。
      ※   ※   ※
 不空院の院号は転じて「福院」と呼ばれた。江戸時代には弁才天信仰が高まり、本堂に祭られている弁才天(室町時代・秘仏)は奈良町の芸妓(げいこ)たちに深く信仰され、「駆け込み寺」としても名をはせたという。


えんきりさんとえんむすびさん。以下、2枚の写真は、ブログ「南都を一望す、日本を一望す」から拝借

 本堂前に「えんきりさん」「えんむすびさん」という小さな祠(ほこら)がある。いずれも女神で、薄幸で弱い立場の女性を救済する神として信仰され、縁切り寺、駆け込み寺としての役割も果たしてきた。
 嵯峨祇王寺の高岡智照尼(ちしょうに)が名妓・照葉(てるは)だった昭和の初め、難を逃れて当院へ駆け込み、かくまわれた後、出家したのもその一例。瀬戸内寂聴の小説「女徳」のモデルとなった。
      ※   ※   ※
 本堂後方の隅に光仁(こうにん)天皇の皇后・井上(いがみ)内親王の御霊塚がある。皇后が巫女に天皇を呪(のろ)わせたという罪で、皇太子の他戸(おさべ)親王とともに宇智郡(現在の五條市)に幽閉され、亡くなった。これは、山部親王(のちの桓武天皇)を担ぐ一派の陰謀とされる。


不空院本堂

 怨霊(おんりょう)の祟(たた)りを恐れ、その地に御霊(ごりょう)神社が建てられた。不空院の近くに井上内親王の邸宅があったので、ここにも御霊塚が作られた。
 昨年夏、不空院は庫裏の一角に「羂索(けんさく)庵」を設け不動三尊像を安置し、常設の護摩堂とした。
 本堂の不空羂索観音は、春はゴールデンウィーク前後、秋は正倉院展の期間中と、興福寺南円堂が開扉される10月17日、特別開帳される。いずれの日も、南都銀行OBから成るボランティア団体「ナント・なら応援団」のメンバーがガイドする。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)


ご本尊の「不空羂索観音坐像」だけでなく、「えんきりさん」(法竜大善神)「えんむすびさん」(黒竜大神・市岐姫大神)がよく知られている。本堂の前に鳥居があり、祠が並んでいるので、否が応でも目に入るのだ。昨年は境内に「羂索庵」を建立され、ここで護摩が焚かれる。この機会に、ぜひお参りいただきたい。

記事制作に当たってご協力いただきました、お寺の三谷智蓮(ちれん)さん、「ナント・なら応援団」幹事の門口誠一さん、有難うございました!

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嶋左近&松永久秀ゆかりの椿井城跡 (産経新聞「なら再発見」第112回)

2015年04月21日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載され、惜しまれながらこの3月末で連載終了となった「なら再発見」、当ブログで未紹介のものを順次紹介させていただく。今回(2/28付)は「椿井城跡(つばいじょうせき) 城主は嶋左近か松永久秀か」、筆者はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」会員の藤村清彦さんである。まず、椿井城跡とは何か。平群町(へぐりちょう 奈良県生駒郡)の公式観光HPに、簡潔に紹介されている。


トップ写真を含む3枚の写真は、平群町の公式観光HPから拝借

矢田(やた)丘陵の稜線上に築かれた山城跡。南北が300mもある細長い城で、多くの曲輪(くるわ)や深い切り通し堀、土塁が残っておりごく一部に石垣も見られる。中央部がやや低く、城域が南北に別れ、高い北側部分が中心の主郭にあたる。西側山裾と主郭部との比高差が180mもあり、西側の平群谷への見通しが常に良く、谷の南半を抑える要衝に位置し、西側が城の防御正面と考えられる。

城主は当初椿井氏が築城し後に嶋氏が取って変わったと考えられ、戦国末には筒井傘下の嶋左近と信貴山城に入った松永久秀との間で幾度もの争奪戦が繰り広げれられたと考えられる。天正8年(1580)織田信長が筒井順慶に命じ、郡山城を残して大和の諸城を破却させており、本城もこの時に放棄されたとみられる。




つまり「城は椿井氏が築き、その後嶋氏が入り、のち松永久秀と争奪戦が繰り広げられた」ということだが、最近は「松永勢が築き、久秀が滅びたあと嶋左近が入ったのでは」という説が出て来ている、と藤村さんは指摘している。だから見出しが「城主は嶋左近か松永久秀か」となっているのだ。

(6/12追記)「平群人」さんから、こんなコメントをいただきましたので追記します。
西が防御正面ではありません、西の尾根続きは開放的で防御が薄い特徴のある城です。各堀切の延長、竪堀の長さを比べてください。西が長いか東が長いかを見れば、どっちの斜面の横移動を封鎖したかったか一目瞭然ですよ。それと、東斜面には当城唯一の横堀まであって東を警戒しています。警戒度の高さからみても西より東が高いのです。正確には北東の白石畑集落方面から、平群谷の平等寺集落に繋がる道を警戒しています。有名な嶋氏なので幻想を持つ方は多いのですが、当時の嶋氏にこんな城を作れる実力はありませんし、筒井氏にしても信貴山城の鼻先への進出など無理だったでしょう。また、松永氏の城の特徴も垣間見える城ですから、松永氏の可能性が限りなく高い城です。

さて、そろそろ全文を紹介する。

 椿井(つばい)城跡は矢田丘陵の南端に近い尾根の西側に築かれた戦国期の山城(やまじろ)跡だ。矢田丘陵は、奈良盆地の西側を南北に走る丘陵で、平行して走る生駒山地との間には、竜田川を軸とした平群谷(へぐりだに)が広がる。
 椿井城跡には近鉄生駒線竜田川駅からまず東に進む。徒歩15分で麓(ふもと)の春日神社に着く。神社から城跡までは500メートル。遺構保存のため北郭跡への立ち入りは禁止されているので、春日神社の南にある椿井井戸の側から登らねばならない。
 地元では、筒井順慶(つついじゅんけい)に仕えた後、豊臣家(とよとみけ)の五奉行の一人であった石田三成(いしだみつなり)に召し抱えられ、関ケ原の戦いに散った嶋左近ゆかりの城として左近使用の三つ柏(みつかしわ)紋の幟(のぼり)を要所に立てて道案内に努めている。
      ※   ※   ※
 城跡から西側の展望は素晴らしい。眼下に平群谷とその向こうにそびえる生駒山地が一望でき、平群谷の領主になった気分が味わえる。生駒山地の南端には、二上山のように盛り上がった信貴山が間近に見える。そこに築城の名手松永久秀(まつながひさひで)が信貴山城を築いたのだ。



平群谷椿井集落から見た椿井城跡

 標高は椿井城が243メートルに対し、信貴山城は437メートルと高いが、椿井城から信貴山城までは直線距離で約4キロ余り。復元された現在の平城宮大極殿から大仏殿までの距離に相当する。まさしく指呼(しこ)の間(かん)で、両城が対峙(たいじ)していたとすれば、互いの人馬(じんば)の動きまで読めたであろう。
 逆に東の奈良盆地側は全く見通せない。矢田丘陵は椿井城の北で東西に分岐しており、城跡の東側は、浅い谷の向こうにある高い尾根に遮られて展望がきかないのだ。
      ※   ※   ※
 椿井城築城の記録は残されていないので、戦国期の動きと城跡の構造から築城者を推定するしかない。
 戦国期の勢力関係は連携と離反が常だが単純化すれば、織田信長(おだのぶなが)の麾下(きか)、奈良盆地西部を拠点とした筒井順慶に仕えたのが嶋左近であり、この勢力と敵対していたのが松永久秀だ。久秀は一時織田信長に臣従するも、最後には叛(そむ)いて信貴山城で自爆(じばく)したとされる。



椿井城跡のV字形堀切(空堀)から見た信貴山城跡

 かつては、嶋勢が椿井城を築き、信貴山城の松永久秀と敵対していたと考えられていたが、最近では松永勢が信貴山城の出城として築き、久秀が滅びたあと石田三成に仕えるまでの間、嶋左近が入ったのではないかという説が浮上している。
 確かに城跡の東斜面は急峻(きゅうしゅん)で、奈良盆地側の筒井勢に備えて人工的に削られたとも見える。また、平群谷をおさえた力のある久秀の信貴山城から見てこの城は西に進出しすぎており、目障りであったと思われる。
      ※   ※   ※
 城跡はクヌギ林に囲まれており、とりわけ秋の紅葉の時季が素晴らしい。城跡の梢をわたる風の音に耳をすますもよし、戦国の豪傑たちの築城構想に思いをはせるもよし、戦国時代に関心のある人にとって、興味は尽きない所だ。
 ちなみに嶋左近の墓は京都、大阪、対馬にもあるが奈良では三笠霊園東大寺墓地にある。左近が天正5(1577)年、春日大社に寄進した石燈籠が楼門の東側に残る。信貴山城の主(ぬし)であった松永久秀は王寺町の達磨(だるま)寺に眠っている。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)


奈良県と言えば古代史のイメージだが、戦国~安土桃山時代の遺構もたくさん残っているのだ。そんな遺跡を訪ねて古(いにしえ)に思いを寄せるのもいい。藤村さん、興味深いお話、有難うございました!

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大台ヶ原に神武天皇像を建立した古川嵩(産経新聞「なら再発見」第111回)

2015年04月13日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載された「なら再発見」、惜しまれつつこの3月末の115回で連載が終了した。まだ当ブログで紹介していない記事があるので、日付順に紹介していく。今回は2月14日(土)に掲載された「大台ケ原 神武天皇像 古川嵩の足跡」、執筆されたのはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の藤村清彦さんである。大台ヶ原は皆さんもよくご存じだろう。
※トップ写真は、牛石ヶ原の神武天皇像

上北山村のHPには《(日本百名山)吉野熊野国立公園に指定される“大台ヶ原”は、年間降水量5,000mmと世界有数の降水量を誇り、この恵まれた大量の雨が湿潤な気象条件を生みだし、日本を代表する原生林を形成し、貴重な動植物の楽園となっています》。

さらに環境省のHPには《大台ヶ原は、日出ヶ岳や大蛇ぐらなど主要な展望地がある東大台と、原生的な森林が広がる西大台の2つに大別されます。このうち、西大台に入るには事前手続きが必要です(東大台には一切の手続きなしで入れます)。これは、西大台の豊かな自然をいつまでも守り続けていくための法律に基づく制度です》。

奈良まほろばソムリエの藤村さんは、この山を開いた古川嵩(ふるかわ・かさむ)と、彼が推進して建立した神武天皇像(銅像)に注目した。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』には《岐阜県郡上郡美並村の人・古川嵩が明治24年(1891)に大台ヶ原に入山、3ヶ月にわたって現在の東大台・西大台を踏査して開山の第一歩を記した。古川は明治34年(1899)に大台教会を開設、気象観測や自然保護にも力を尽くした》とある。では記事全文を紹介する。


 
 大台ケ原とは吉野熊野国立公園の一部で、標高1500メートル前後の山々と、その山々に囲まれた台地状の地帯をいい、奈良県と三重県にまたがっている。東大台周遊路(行程約9キロ、所要時間4時間)の牛石(うしいし)ケ原に、眼下の熊野灘を望んで立つ神武天皇像の建設者に迫ってみよう。
      ※   ※   ※
 山頂の駐車場から歩いてすぐの大台教会を守りながら、食堂「たたら亭」を営んでおられる田垣内(たがいと)惠美子さんに、大台ケ原の歴史をおうかがいした。 


大台教会。写真は「金剛山の四季~コウのブログ~」から拝借

 建設を推進したのは、神道系の神習教(しんしゅうきょう)福寿大台教会を創立した古川嵩(かさむ)教長=万延元(1860)年~昭和5(1930)年=で、像の除幕式は昭和3(1928)年。今のような道路や建設機械、車のない時代、このような高地に銅像を建設するには途方もない費用と時間、推進者の熱意がなければできるものではない。
 神武像は2メートルを越す長身で、本体重量45トン。金鵄(きんし)と弓が68キロ、太刀83キロ、製造は大阪市の大谷鋳造所だ。銅像は6分割され、三重県の尾鷲(おわせ)から30人の労務者の人力で運び上げられたという。



大台教会の奥にたたら亭がある。写真は「ショウタンの山歩録」から拝借

 古川嵩は、明治23(1890)年の夏に98日間、翌24年の12月から3か月間、単身大台ケ原に入り荒行を積んで地元の信頼を勝ち取り、同32年には大台教会を完成させた。
 彼の教えは、「人は素直に大自然に教えを乞い、大自然とともに生きる」というのが基本だ。彼は、神武天皇が大和への東征において熊野から大台ケ原を越えたとすれば、天皇こそがこの地の開山者であり、天皇が腰掛けたと伝わる「御輿石(みこしいし)」に銅像を建設するのがふさわしいと考えたのだ。

 費用は山林王土倉庄三郎(どくらしょうざぶろう)をはじめ地元の理解者の呼びかけで集められた浄財があてられたが、運搬においては予想外の費用が掛かったようだ。古川嵩には、人をひきつけるものすごい力と魅力があったのだろう。
 大台ケ原は週のうち半分以上は霧が出るので、かつては「魔の山」と呼ばれ、昭和34(1959)年の伊勢湾台風、同36年の第二室戸台風で、トウヒの針葉樹林が倒壊する以前は昼なお暗い原生林であったという。
 魔の山であっても、昔から猟師や薬草採り等が入っており、彼らだけが知る道がある。吉野―大峯を経て熊野灘沿岸に出るには大台ケ原を通るのが最短で、かつては牛石ケ原に近い尾鷲辻から尾鷲まで山腹を通る道が通じていたという。
 今も尾鷲への道の傍には、源義経が食べた塩干し鯛の伝説に由来する「片腹鯛池(かたはらたいいけ)」があり尾鷲道の存在を伝えている。
 また現代においても、今のような車による物流が普及する以前は、熊野灘沿岸部と奥吉野地域との交易は盛んであったという。今でも店の買い出しのために麓まで6時間をかけて徒歩で下り、冬もこの地で越すという田垣内惠美子さんが語る道の話は、具体的で圧倒される。

ニホンオオカミ夫婦の版画(田垣内惠美子さん提供)。雄(左)と雌が描かれている。

 昭和初年の神武像建設と鎌倉時代の義経逃避行、古代の神武東征伝承が海と山を結ぶ道を通じていきいきと身近に迫ってくる。
      ※   ※   ※
 さらに私が心を動かされたのは、古川嵩が大台ケ原へ入ったときニホンオオカミの夫婦が彼の道案内をし、彼もオオカミ夫婦を「神の使い・大神(おおかみ)」と考えて共同生活をしたという事実だ。
 彼は雄を「剛太(ごうた)」、雌を「えい子」と名付けたという。ニホンオオカミは明治38(1905)年1月に絶滅したことになっているが、古川嵩はその時以降にオオカミ夫婦に再会しているのだ。
 大台ケ原の歴史は深い。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)


うーん、これはすごい話である。古川は単身、大台ヶ原に入って神道の教会を建て、死の2年前、2mを越すような大きな銅像を山の上に建立したのだ。また、今もこの教会を守りながら食堂「たたら亭」を営んでいる方(田垣内惠美子さん)がいらっしゃるとは、驚きだ。ブログ「私を登山に連れてって」には、

買い物は大淀まで行くことや、冬は車が動けないので国道まで6時間歩くこと、住所は大台ヶ原で通じること 暖かく、美味しい鴨の出汁が香る丼に顔をつけながら、お母さんからいろんなお話を聞いていた 『 そういえばお母さん、NHKにいっぱい出てましたね~ 』私がNHKで放映されたドキュメンタリーのことをふると『 あれは、イヤイヤ出たんやって~』と可愛く照れる お母さんいわく、愛犬ハチをテレビに出してやりたくて、それを条件で、無理やり出演したとのこと


たたら亭の店内と名物・鴨うどん。これら2点の写真は「私を登山に連れてって」から拝借



しかし一番すごいのは、わざわざ大台ヶ原まで出かけて取材し、健筆を揮われた藤村清彦さんである。確か、もう前期高齢者だったはず…。藤村さんは、次の回の「椿井城跡」も書かれていた。

藤村さん、こんなすごいお話をご紹介いただき、有難うございました!
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石寺址は、金剛山麓のお寺跡(産経新聞「なら再発見」第109回)

2015年04月04日 | なら再発見(産経新聞)
「なら再発見」は、産経新聞奈良版・三重版ほかに連載され好評を博したが、惜しくも本年(2015年)3月で掲載終了となった。当ブログではまだ紹介していない記事があるので、しばらく順に紹介していくことにする。今回(1/31付)は「葛城二十八宿(しゅく)第二十品(ほん)石寺址(いしでらあと)山の宗教 蘇れ修験の道」である。タイトルからしてとても難解だが、内容も難解である。

本文中に説明があるが、要は役行者が法華経を埋めた場所(28の経塚)を結ぶ道が「葛城二十八宿」で、その20番目が石寺(金剛七坊の1つ)というお寺で、伽藍は失われているが巨石が残る、というお話である。執筆されたのは、マニアックな話がお得意の藤村清彦さん(NPO法人奈良まほろばソムリエの会会員)である。全文を紹介するので、ぜひ最後までお付き合いいただきたい。
※トップ写真は、金剛山の東山腹にある葛城二十八宿の第二十品石寺址
 
 「葛城二十八宿」をご存じだろうか。葛城修験道の開祖である7世紀の役小角(えんのおづぬ)(役行者)が法華経を埋納した28の経塚を巡る修行の道だ。
 かつては大阪府と和歌山県の境を東西に走る和泉山脈と、奈良県と大阪府の境を南北に連なる金剛山・葛城山を含む広い範囲を葛城山と呼んだので、これらの山に入って修行する修験道を葛城修験道と呼ぶ。宿(しゅく)というのは、修験道の霊地のことだ。
 修験道とは日本固有の「山の宗教」であり、山そのものがご神体、ご本尊だ。山岳信仰を核とした神仏習合の実践的な宗教と言ってよいだろう。修験道の実践者を山伏と言い、山伏は山に入って修行し、里に下りて庶民の救済に努めた。
 修験道で重要視される法華経は8巻28品から構成されており、「品」(ほん)はまとまりを示す「章」に当たる。各経塚は法華経の各品になぞらえて順番が付けられている。和歌山県の友ケ島を第一番目序品(じょほん)として紀ノ川を右手に見て和泉山脈を東に進み、五條あたりから金剛山・葛城山に沿って北上、大和川の亀ノ瀬を終点の二十八品とする。
 逆L字の道筋は、海で始まり川で終わる不思議を秘め、古代、海の民が内陸の葛城の地に入ってきた道筋をたどるようでもあり興味が尽きない。
      ※   ※   ※
 平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が、平成25年には「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」がユネスコの世界文化遺産に登録され、神仏習合の信仰や修験道が見直され始めている。ここで改めて明治以降、修験道とそれを民間で支えてきた山伏たちが苦難の歴史を経てきたことを振り返ってみたい。
 明治元(1868)年の神仏判然令、その後民間に吹き荒れた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動による仏教排斥と寺院の破壊、明治5年の修験道廃止令により、修験道は大きな影響を受けた。十数万人はいたという僧籍を持たずに活動してきた在家(ざいけ)の山伏は激減した。
 この修行の道も途絶えかけたが、犬鳴山七宝瀧寺(いぬなきさんしっぽうりゅうじ)(大阪府泉佐野市)と泉州山岳会の活動により復活した。一部は「ダイヤモンドトレイル」として、ハイカーにもなじみが深い。
      ※   ※   ※
 奈良県には7つの宿があり、県内2番目の第二十品石寺址は金剛山の東山腹、標高710メートル程度の所にある。御所市のコミュニティーバスに乗り、西佐味(にしさび)で下車。登山口に近い大川杉(県指定天然記念物)を目指す。



愛好家に「大和で最も風雅」とされる道標。「右かうや 左よしの道」との文字が刻まれている

 大川杉から山麓の集落を目指すと、大弁財天の大杉が見えてくる。杉林の林道に入れば右手に、石造物愛好家の間で「大和で最も風雅な道標」と評判の道標が目に飛び込んでくる。自然石に上が三角、下が四角の枠が彫られ、文字が刻まれている。この枠の形は、修験道で使われる祈祷(きとう)札や板碑(いたび)から来ているようだ。
 しばらくすると高宮廃寺と石寺址への分岐点に到着。この分岐を左にとって約30分、目指す石寺址に到着。削平(さくへい)された土地に高さ2メートルほどの白みを帯びた巨石が、地山から削り出されたように屹立(きつりつ)している。石寺は鎌倉時代には「金剛七坊」の一つであったそうだが、それをしのぶものはない。ここから標高982メートルの伏見峠へは、30分程度の登りで金剛山頂も近い。
 前述の分岐点を右に行くと、謎の高宮廃寺に着く。高宮廃寺は石寺の東500メートル、標高550メートルの地点にある。石寺もしくは巨石と高宮寺は、神仏習合の古代にあっては、信仰面では一体のものであったのではないかと想像が膨らむ。古代の歴史を修験道から光を当てると違った面が見えてきそうだ。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)

7世紀の役行者ゆかりの霊地の道を復活させた七宝瀧寺さんと泉州山岳会さんのご努力は、並大抵のものではなかったことだろう。

七宝瀧寺は役行者が開いたお寺で、葛城二十八宿修験道の根本道場なのだそうだ。泉州山岳会のHPによると「泉州山岳会は1940年(昭和15年)に設立された、全国でも有数の伝統ある山岳会です。創立以来、常に意欲的な活動を続けていますが、その足跡は国内の山はもとより、世界の山々にも数多く印されてきました」というスゴい団体だ。さすがに大阪の人は、元気がいい。

藤村さん、今回もマニアックなお話、有難うございました。

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