tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

Topic 平城遷都1300年祭「公式ガイドBOOK vol.1」完成!

2009年09月30日 | お知らせ


つい先日、平城遷都1300年祭の「公式ガイドBOOK vol.1」を頂戴した。9/23の100日前イベントで一部配布されたそうだが、大々的に配布されるのは10月からだという。もちろん無料で入手できる。読売新聞奈良版(9/26付)によると
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20090925-OYT8T01301.htm

《1300年祭公式ガイド第1号 催し、料金詳細に アクセス早見表も 来月から無料配布》《2010年開催の平城遷都1300年祭の各行事や会場までの交通手段などを紹介した「公式ガイドBOOK」(A4判オールカラー32ページ)の第1号が完成した。同祭を主催する平城遷都1300年記念事業協会が25万部発行。県内の各市町村やJR、近鉄の主要駅、道の駅、観光案内所などで10月から順次、無料配布する》。

《元日前夜から始まる奈良公園や信貴山などでのオープニングイベントから、主会場の平城宮跡(4月24日~11月7日)で繰り広げられるツアーイベントまで、施設の内容、利用料金などを網羅。公式マスコット「せんとくん」生みの親で彫刻家の籔内佐斗司さんと荒井知事による対談も掲載している》。

《また、県内の地域を「玄武」(平城京周辺)、「白虎」(斑鳩・信貴山周辺、葛城周辺)、「青龍」(飛鳥・藤原周辺、大和高原・宇陀周辺)、「朱雀」(吉野周辺)と「四神」になぞらえて分類。各地域で来年1~3月に行われる社寺や地域の関連催しを案内し、最寄り駅やバス停、運賃などが一目で分かる「アクセス早見表」も付いている。公式ガイドBOOKは今後、3回にわたって順次発行する予定。同協会は「このガイドブックを持って、祭りだけでなく、県内全域を巡り歩いて楽しんでほしい」とPRしている。問い合わせは同協会(0742・23・2010)》。

記事のうち、県内各地を「四神になぞらえて分類」という所が、スッと頭に入りにくいだろう。四神(しじん)とは、東西南北それぞれの方角を司る霊獣である。奈良検定に備えて、私は東南西北(トーナンシャーペー=時計回り)の順に、「青春の白黒」(青=青龍、しゅ=朱雀、白=白虎、黒=玄=玄武)と暗記するよう提案したが、これさえ覚えていれば大丈夫である。

「ガイドBOOKの中身を今すぐ見たい」という気の早い方は、平城遷都1300年記念事業協会のHPをご覧いただきたい。PDF形式ですべてのページが紹介されている。
http://www.1300.jp/about/what/public/guidebook/index.html

お祭りまで残り100日を切り、ようやくムードが盛り上がってきた。「1300年祭って、何するの?」とおっしゃっている皆さん、ぜひこの楽しいガイドBOOKを入手され、周囲の方にもお祭りをPRしていただきたい。
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「奈良を大いに学ぶ」講義録(8)仏像

2009年09月29日 | 奈良にこだわる
9/11(金)には、奈良大学・三宅久雄教授(美術史)に「平城京の仏たち」という講義をしていただいた。A4版で6ページという詳しい資料をご準備いただき、詳しい解説をお聞きした。教授が特に詳述された諸仏ついて、(とてもメモが追いつかなかったので)各種サイトを参照しつつ、以下に再構成して紹介させていただきたい。

1.薬師三尊像(薬師寺)
《金堂に安置する、薬師寺の本尊。国宝。奈良時代(7~8世紀)の作。国宝指定名称は「銅造薬師如来及び両脇侍像 3躯」。中尊は薬師如来、左脇侍(向かって右)に日光菩薩(にっこうぼさつ)、右脇侍に月光菩薩(がっこうぼさつ)を配している》《日本の仏像彫刻が、中国・六朝や唐の影響を受けつつ、独自の古典様式を完成した奈良時代の作品のなかでも最高傑作の1つ》(Wikipedia「薬師寺」)。

《中尊像は男性的な堂々たる像容を表す。両脇侍像は首と腰を軽くひねり、頭部、上半身、下半身がそれぞれ異なった角度を表す「三曲法」と呼ばれるポーズを示す。これはインド・グプタ朝の彫刻様式の影響が、唐時代の中国を経て日本へ伝わったものである。各像の面貌や体躯は、飛鳥時代彫刻のような観念的表現を離れ、人体の正確な把握に基づいた自然な肉付けがみられる。一方、衣文は深く明瞭に表され、鋭角に切り立った面を構成している。総じて中国・初唐様式の影響がみられる》(同)。

制作年代については《持統天皇2年(688年)無遮大会実施までには完成していたとする説、『日本書紀』に持統天皇11年(697年)、薬師寺にて公卿百寮が仏像を造り開眼法会を行った旨の記録があることから、この時に制作されたとする説、平城京移転後の新造とする説があり、決着をみていない。685年頃の制作である旧山田寺仏頭(現・興福寺蔵)と比較すると、薬師寺像は鋳造技法の点で進歩がみられる。すなわち、山田寺像では鋳造の際に中型と外型のずれを防止するための「型持」と「笄」(釘)がずれてしまっているが、薬師寺像では「型持」と「笄」を一体化してずれを防止しており、銅厚も一定である》(同)。
※画像はこちら
http://bell.jp/pancho/k_diary-2/images/image-8/0606-16.jpg

2.旧山田寺仏頭(興福寺)
《白鳳時代の最高傑作の一つ 旧山田寺の仏頭は、山田寺の建立を始めた蘇我倉山石川麻呂(そがくらやまだいしかわまろ)と同様に数奇な運命を辿ります。山田寺は685年3月25日の蘇我倉山石川麻呂の祥月命日に仏顔を点じました。石川麻呂の自害後、36年を経て天武天皇により建立されました》(日本美術鋳造家協会のホームページ)。
http://www.imono-ya.org/hanasinotane.htm

《この仏頭は、山田寺建立より前の678年12月に丈六の仏像(薬師三尊)として鋳造されました。飛鳥時代の止利派の様式(北魏の影響)が衰退した後、隋から初唐の仏像様式を色濃く表した童顔形の仏像の代表です。火災で、かなり破損を被り、顔の左半面特に耳の辺りが凹む痛ましい状況を呈していますが、右半面はほぼ現容を留めています》(同)。



《鋳造法としては、法隆寺金堂釈迦三尊以来の蝋型鋳造で、型持ちは方形の土型持ちと長い笄(こうがい・銅釘)を併用しています。頭髪部には、ならし鏨(たがね)による布目状の痕跡もみられ、当初は別鋳のラホツを漆等で塗りつけていたとも考えられます。金銅仏であったことが、右頬等の鍍金の痕跡から分かります。》(同)。

《薬師三尊像(仏頭)を本尊とする山田寺は、1081年(平安時代)に入り、天台宗に属するようになると、南都・興福寺(藤原氏の氏寺)は、それに怒り、多武峰の末寺となっていた山田寺も襲撃しました。この出来事以降、両社の抗争は激化しました。このさなかの1180年、興福寺は平重衡(清盛の五男)の焼き討ちにあって、伽藍の殆どが焼失してしまいます。1187年、興福寺再建されますが、東金堂の本尊の制作が進まない為に、当時荒廃していた山田寺の本尊(仏頭)に目を付け、興福寺の僧が、製作当時から傑作と評判の高かった本尊を担ぎ出しました。(?)》(同)。

《こうして、興福寺に迎えられたらしいのですが、再び災難が降りかかります。1411年、再建なった興福寺の東金堂は、落雷による火災に会い、本尊は、東金堂と共に胴体も焼け落ちてしまいました。残された頭部は、1415年に再興された東金堂本尊須弥座の中に納められたまま、次第に忘れさられていきました。1937年(昭和12年)興福寺の東金堂の解体修復中に、須弥座(台座)の中より発見され,直ちに、国宝となり、ついに、興福寺国宝館に安住の地をえました》(同)。
※画像はトップ写真参照(近鉄奈良駅ビル4階の「なら奈良館」に展示されているレプリカ 07.8.15撮影)
※参考:山田寺跡(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/32c94c245dbf0d905a4ce32a1bfe4daf

3.阿修羅像(興福寺)
《ペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として信仰されてきましたが、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神になります。仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神と説かれるようになります。像は三面六臂(さんめんろっぴ)、上半身裸で条帛(じょうはく)と天衣(てんね)をかけ、胸飾りと臂釧(ひせん)や腕釧(わんせん)をつけ、裳(も)をまとい、板金剛(いたこんごう)をはいています》(興福寺ホームページ)。
http://www.kohfukuji.com/property/cultural/001.html

なお講義とは関係ないが、門脇禎二氏は阿修羅像に「平城京采女の姿を想う」と、阿修羅のモデルを采女(うねめ)ではないかと推察している(門脇禎二著『采女―献上された豪族の娘たち』中公新書)。

4.須菩提像(すぼだいぞう 興福寺)
乾漆十大弟子立像(かんしつじゅうだいでしりゅうぞう)のうちの1体である。十大弟子とは《2600年程前、インドで仏教をはじめられた釈迦は、さとりを得られて以来45年間にわたって、インド各地で人々に教えをひろめ、多くの弟子を得ました。弟子達はさらに釈迦の教えを伝えます。釈迦はインドに16大国あった中でも、特に栄えていたマガタ国とコーサ国で教えたので、この2ヵ国に弟子が多くいます。生涯に1250人の直弟子がいたとされ、中でも優秀な10人の高弟が十大弟子と呼ばれます》(興福寺ホームページ)。
http://www.kohfukuji.com/property/cultural/014.html

《10人の名は経典によって異なりますが、興福寺の場合は『維摩詰所説経』(ゆいまきつしょせつきょう)「弟子品」(でしぼん)に説かれる大伽葉(だいかしょう)、阿那律(あなりつ)、富楼那(ふるな)、迦旃延(かせんえん)、優婆利(うばり)、羅ご羅(らごら)、舎利弗(しゃりほつ)、目けん連(もくけんれん)、阿難陀(あなんだ)、須菩提(すぼだい)を指します。乾漆(かんしつ)造で、いずれも髪を剃り、袈裟(けさ)を着て、板金剛(いたこんごう)をはき、洲浜座(すはまざ)に両足をそろえて直立します》(同)。

須菩提像は《すべては変化していくという、仏教では最も大切とされる「空」を、最もよく理解していたので解空(げくう)第一の人と称されました。像は大まかな折り目を造り、若者の顔にして、左方を見ます》(同)。教授は「須菩提像の顔は、尼さんに見える」とおっしゃるが、同感である。
http://www.kohfukuji.com/property/cultural/046.html



5.脱活乾漆造不空羂索観音立像(東大寺法華堂)
《像高362.0センチメートル。天平時代を代表する仏像彫刻の1つに数えられている。須弥壇中央部、八角形二段の壇上に立つ。三目八臂で額に縦に第三の眼を有する。8本の腕のうち2本は胸前で合掌し、両掌の間に水晶珠を挟む。残りの6本の腕のうち、下方に伸ばした2本には持物(じもつ)はない。他の4本の手のうち左第1手には蓮華、左第2手には羂索、右第1手には錫杖をそれぞれ持つが、これらの持物はいずれも後補である。右第2手の持物は失われているが、他の不空羂索観音の造像例からみて、払子(ほっす)を持っていたものと思われる》(Wikipedia「東大寺法華堂」)。

《左肩から腕にかかる布状のものは経典の記述に基づき、鹿革を表したものである。六重の台座は当初のものである。木造透彫の光背は、蓮弁形の枠に48本の光条を配したもので造像当初のものであるが、現状ではこの光背は本来の位置よりかなり下方にずれて取り付けられており、本来は頭光(ずこう、光背上部の円形部)の中心が像の頭部の真後に来なければならない。これについては、現在像が立つ八角二重の仏壇を搬入した際に光背の位置がずれたのではないかといわれている。像は全身に漆箔を施し、光背や宝冠には多数の光条を付けるなど、光り輝くイメージを強調している》(同)。

《本像の頭上にある銀製の宝冠も、奈良時代の工芸遺品として価値の高いものである。宝冠は高さ88センチメートル。銀の延板製の輪を3段重ねた上にやはり銀の延板で籠状の構造を作る。この骨組の各所に銀製宝相華透彫の板を取り付け、頂上部には火焔宝珠、正面には銀製の阿弥陀の化仏(けぶつ)、左右には銀製の竿の上に六稜鏡を取り付ける。さらにこれら全体を2万数千個を超えるコハク、ヒスイ、瑠璃、真珠、水晶などの宝石類で装飾している》(同)。
※画像はこちら
http://www.geocities.jp/candymary2492/thumb/hokkedoukannnonn2-e_thumb.jpg

6.塑造執金剛神立像(東大寺法華堂)
《像高170.4センチメートル。本尊背後の厨子に安置され、毎年12月16日の開山忌にのみ開扉される秘仏である。執金剛神とはサンスクリットのヴァジュラパーニ(金剛杵をもつ者)の漢訳で、寺院の山門の左右に立つ金剛力士(仁王)と起源を同じくするが、一対ではなく単独の像として表されたものである。寺院の門で見かける仁王像が上半身裸形であるのとは異なり、本像は唐風の甲(よろい)をまとい、両目を見開き、口を開いて怒号するさまを表す。右手は肩の辺まで上げ、仏敵や煩悩を打ち砕く金剛杵を構え、左手は下げて拳を固く握る。籠手を着けていないため、肘から先があらわになっており、左腕に血管の浮き出ているさまが描写されている。長年秘仏であったため、当初の彩色が良好に保存されている。上腕部の衣には朱、緑青、群青の地に宝相華文を表し、甲は胸当てに瑞雲文、下甲に宝相華唐草、下半身の甲の小札(こざね)には1枚おきに対葉花文と孔雀羽文を表す》(Wikipedia「東大寺法華堂」)。

《『日本霊異記』にはこの像に関する説話を載せる。それによると、金鷲優婆塞(こんしゅうばそく)は山寺に1体の執金剛神の塑像を安置し、この像の脛に縄を結んで日夜修行に励んでいた。そうしたところ、像の脛から不思議な光を発し、それがが宮中にまで届いた。時の聖武天皇は金鷲優婆塞の日頃の精進を称え、正式の出家を許した。今、その像は羂索堂の「北戸」にある、という。この「金鷲優婆塞」は東大寺開山の良弁を指すとみられる。この説話からは、平安時代初期にはすでに執金剛神像を良弁ゆかりの像とする伝承が存在したことがわかり、「北戸」という表現は、像が現在と同じく法華堂本尊の背後に安置されていたことを示唆している》(同)。

《元慶年間(938 - 947年)の平将門の乱の際、執金剛神像の元結が蜂となって飛び去り、将門を刺して乱を平定に導いたという伝説もあり、『東大寺要録』などに載せられている。たしかに、本像の頭上の髻(もとどり)を結ぶ元結のうち、向かって左の半分は欠失して、芯の銅線が露出している》(同)。
※画像はこちら
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/3b/669b8240274fa4e22d682e659d9ae7e6.jpg

7.木造伝薬師如来立像(唐招提寺)
《「伝薬師如来立像」は奈良時代後半に作られたカヤ材による一木造りの仏像である。天平勝宝6年(754)来朝した鑑真和上(688-763)はわが国の仏像にも大きな影響を与えた。薬師寺の薬師三尊のような人体の写実に基づいた調和の取れた理想的な形を求めてきた天平彫刻と異なり、部分部分を強調しながら量感と力強い存在感の表現を栢木(ヒノキ・カヤなどの総称)の一本造りで制作する技法で、「伝薬師如来立像」はその原点となる仏像である》(「仏教美術」のホームページ。画像も大きく載っている)。
http://www.yamagata-net.jp/usr/yamagu2/bukkyo/page/A0006.html

《飛鳥時代にも法隆寺夢殿の救世観音立像や京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏像等一木造りの仏像は数は少ないが存在していた。飛鳥時代の一木造りは例外なく樟(クスノキ)で作られていた。栢木の一木造りという壇像による仏像製作技法は「伝薬師如来立像」が原点になるのである》(同)。

《この様式は中国中唐の様式で鑑真和上がもたらしたものである。奈良時代後半から平安時代前半にかけて仏像製作技法の主流となった。京都・神護寺の薬師如来立像や奈良・元興寺の薬師如来立像など堂々たる仏像が作り出された》(同)。

8.木造持国天、増長天立像(唐招提寺 現講堂安置)
《唐招提寺講堂本尊弥勒仏像の前方左右に立つ像である。その作風から一具同時の作と観ることに問題は無いが、本来の二天像なのか、四天王像中の二躯が残ったものなのかは不明である。持国天・増長天という名称も確かではない。二躯はいずれも頭上に髻を結び、顔をやや右に向け、左手を下げ(戟を持つ形)、腰を右に捻って邪鬼上に立つ姿である。持国天は口を閉じ、右手に剣を取って高くかざすが、右腕は後補である。ともに桧材の一木造りで、髻頂から足枘までを完全に一材から彫り出し、内刳りもない。邪鬼は近世の後補で、もとはこれも本体と共木から彫り出していたものと思われる》(新井正一氏のホームページ)。
http://beauty.geocities.jp/gyhrt256/tousyoudaiji-2-jigokutenryuuzou.html


 
《ずんぐりとして一種ユーモラスな、量感に溢れる体躯の表現や、増長天像の胸下に巻かれた帯や腰甲の形などの新しい形式は、中国陜西省博物館蔵神将立像のような、盛唐後期の石彫像に通ずるものがある。また甲の細部やその装飾文様を克明に刻み出す点には、中国檀像の技法の影響も認められる。唐招提寺には、鑑真の来朝によって、もたらされた唐代彫刻の最新の影響によって天平宝宇年間(757~765)ごろ成立したと考えられる》(同)。

《伝衆宝王菩薩像、伝獅子吼(ししく)菩薩像など一群の木彫像があるが、この二像それらと同時期の製作であろう。甲の形式の基本が、730年代に完成した日本独自の伝統形式であることも指摘されており、それを守りながら唐代彫刻の最新の意匠を、積極的に取り入れているところに、本像作者の姿勢がうかがわれよう。奈良・大安寺には、この二像と相通ずる特色を持つ、ほぼ同大の四天王像があるが、この二像のような緊迫した充実感は、すでに失われ、表現の日本化が顕著である。「特別展 大和古寺の仏たち」 1993年 東京国立博物館より》(同)。
※木造持国天立像の画像サイト
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/13/e2285c497f0f18ca1191ef92eb83fe36.jpg
※木造増長天立像の画像サイト
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/2c/4a07d5eaabe8d25b360c6128501ac075.jpg

9.盧舎那仏坐像(唐招提寺)
《天平宝宇三年(759)ごろ、唐僧鑑真により創建された唐招提寺金堂の本尊盧舎那仏の像である。天平時代も後半の制作であるが、なお当代彫刻の特色である雄大性と衣文の写実性を兼ね備えている。手つきも後世の彫刻のように型にはまったものでなく、自由で、物語るような仕草をしている。「日本の彫刻」 久野健編 吉川弘文館 1968年より》
(新井正一氏のホームページ)。
http://beauty.geocities.jp/gyhrt256/tousyoudaiji-1-rusyanabutuzazou.html

《盧舎那仏は、大乗の戒律を説く経典である『梵網経』(5世紀頃中国で成立)の主尊である。像は千仏光背を負い、蓮華座上に坐す。麻布を漆で貼り固めて造形した脱活乾漆像である》。(Wikipedia「唐招提寺」)。この盧舎那仏坐像は、現存する脱活乾漆像としては最大である。

金堂は《奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一》《堂内には中央に本尊・盧舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する(仏像はいずれも国宝)。盧舎那仏、薬師如来、千手観音の組み合わせは他に例がなく、経典にもみえないことからその典拠は明らかでない。東大寺(本尊は盧舎那仏)、下野薬師寺、筑紫観世音寺を「天下三戒壇」と称するが、唐招提寺の三尊は盧舎那仏・薬師・観音の組み合わせで天下三戒壇を表しているとする説もある》(同)。
※画像はこちら
http://www.icydog.com/micmt/htdocs/mt/archives/rushanadaibutsu.jpg



10.頭塔
《頭塔(ずとう)は、奈良市高畑町にある土製の塔。1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の構造をしている》《『東大寺要録』の記録では、奈良時代の僧、実忠によって造営されたという。そこでは「土塔」(どとう)と表記されている。一方で、平安時代の『七大寺巡礼私記』以来の、玄の首塚である、という伝承もある。「どとう」が転訛して「ずとう」と称されるようになり、玄首塚説との関連で、「頭塔」という漢字が当てられたものと考えられる》(Wikipedia「頭塔」)。この不思議な仏塔は、現地を見てきたので、日を改めて紹介することにしたい。

相当乱暴にこの日の講義を(私なりに)まとめてみた。三宅教授が配布された資料はとても深く、ちょっとやそっとでは読みこなせるものではないので、これからいろんな資料を参照しつつ読み解いていくことにしたい。手始めに「頭塔」については、近日中に別途ブログ記事として紹介したい。

三宅先生、興味深いお話をいただき、有り難うございました。
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Topic 『あまから手帖 奈良 うまい店100選』発刊!

2009年09月29日 | お知らせ

あまから手帖奈良うまい店100選 (クリエテMOOK)
このアイテムの詳細を見る


ついに出た! クリエテ関西刊『あまから手帖 うまい店100選 奈良』。奥書に9/28発行とあるとおり、昨日、書店の店頭に並べられた(税込価格 1,000円 B6判平綴じ216ページ・オールカラー)。

「はじめに」(同書)が泣かせる。《「ぜひ奈良版を」という声も数多く寄せられていたのですが、質の高い100軒を揃えたいと、あえてお店選びに時間をかけました。お待たせした分、内容には大いに自信があり、2000年から始まった「あまから手帖」本誌での年1回の奈良特集で、私たちが「この味なら」と紹介してきた店々を、さらに厳選した100軒。不名誉にも「うまいものなし」と囁かれてきた古都で、食通の舌を満足させるラインナップであると自負しています》《あをによし、奈良の都にうまいものあり。この1冊を手に、実感していただければ幸いです。「あまから手帖」編集部》。

ざっと目を通したが、当ブログで紹介したお店がたくさん登場している。

※阪奈三碓(みつがらす)和 あすか
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/83f50d78cdad86596f4cee7d7107b76f
※学園前 御料理 花垣
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/ebff588956357f4d7af4c9bddc331ea1
※奈良市・高樋町 清澄の里 粟(当ブログではアクセスの良い「ならまち店」を紹介)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/ee42679fb5112ad0b1e1c66cdfef264b
※ならまち(もちいどのセンター街)よばれや
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/79779b37be0375c26217825e75c04e70
※JR奈良(三条通)台湾点心 臥龍坊
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/2a837d5f6b885bcedc042f621b875afd
※ならまち キッチンPEPITA(ペピタ)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/3f12a2e8644c7cd340a35b190ba6bd2b
※新大宮 鹿の子(かのこ)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/b298bdc67c70c7e758a7a61cc1e42565
※生駒・南生駒 春知(しゅんち)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/a9969fd284d7ea67593f1c7f1f13b471
※五條 ばあく
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/bc782ae309181b790e971392eebb397f
※吉野山 やっこ
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/aaf8caa8a753791eea26ec746759aa8e

とにかく買って損のないグルメ本である。テイクアウテトのコーナーでは、今まで私が当ブログで紹介しきれなかった(しかし、とても美味しい)お店が20軒も登場している。「ならまち 春日庵」「尼ヶ辻 たまうさぎ」「東大寺前 森奈良漬店」「菓匠庵 梅ぞの 真美ヶ丘店」「宇陀・榛原 松月堂」などである。

初のクーカルや1300年祭を控え、絶好のタイミングで発行されたこのガイド本を手に奈良をお訪ねになり、「あをによし 奈良の都にうまいものあり」を実感していただきたい。
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Topic 締め切り迫る!県とNPOとの協働事業提案

2009年09月28日 | お知らせ
奈良県と県下NPOなど市民団体との「協働事業提案」の締切日は10/16(金)に迫ってきた。これは、県と市民団体が手を結んで地域の課題を解決しようという事業で、県は1件あたり百万円以内の経費を負担してくれる。昨年度分については、当ブログでも紹介したことがある。
※県とNPOとの協働事業(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/54644b7a8f825386e108459a9489ca2c

今年度分(事業の実施は来年度)の募集については、以下の通り県・協働推進課のホームページに掲載されている。

■目的
「ボランティア・NPO活動推進基金」を活用し、県民に一層効果的で質の高いサービスを提供できる協働事業の提案をNPOから公募し、県とNPOが協働で事業実施することにより、県における地域課題の解決とボランティア・NPO活動の活性化を図り、豊かな地域社会の形成を目指す。

■募集対象
県内で活動するボランティア団体、市民活動団体等、不特定多数のものの利益の増進に寄与することを目的に活動している団体で、奈良県内に事務所を有し、1年以上の活動実績があること。ただし、特定非営利活動法人格の有無は問わない。

■募集内容
県から提示するテーマによる事業又は自由なテーマによる事業で、平成22年度に実施する具体的な協働事業についての提案を募集します。自由なテーマについては、分野は特に限定しませんが、県の施策として協働に適すべき事業で、NPOと協働で行うことでより大きい事業効果が期待できる事業を提案してください。
県で負担する経費の上限は、1事業当たり概ね100万円とします。

★県から提示するテーマ:15テーマ 
 募集テーマ一覧はこちら:PDF形式
http://www.pref.nara.jp/kenmin/volunteer/kyoudou/22thema.pdf
※追加資料1
http://www.pref.nara.jp/kenmin/volunteer/kyoudou/22thema-1.pdf
 資料2
http://www.pref.nara.jp/kenmin/volunteer/kyoudou/22thema-2.pdf
 資料3
http://www.pref.nara.jp/kenmin/volunteer/kyoudou/22thema-3.pdf

■募集期間
 平成21年9月1日(火)~平成21年10月16日(金)
 応募は、直接持参(平日の9:00~17:00)又は、簡易書留若しくは書留郵便(期間内消印有効)で
 ※応募種類は返却しませんので、必ず控えをとっておいてください。

■審査方法
 1次審査:県庁内での書面審査
 プレゼンテーション:1次審査通過団体による公開プレゼンテーション 11月7日(土)奈良県文化会館
 2次審査:第三者で構成する審査委員会で書面・プレゼンテーションの内容を総合的に審査

県が百万円もの経費を負担してくれるというこの事業、見逃す手はない。日々、地域で有益な活動に取り組んでいるおられる市民団体の皆さんには、ぜひお申し込みになり、奈良を盛り上げていただきたいと思う。
※県・協働推進課のホームページ
http://www.pref.nara.jp/kenmin/volunteer/22kyoudou.html
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「奈良を大いに学ぶ」講義録(7)正倉院宝物

2009年09月27日 | 奈良にこだわる
すぐわかる正倉院の美術―見方と歴史
米田 雄介
東京美術

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今回は9/9(水)に行われた奈良大学・三宅久雄教授(美術史)による「正倉院宝物の成り立ちと特色」を紹介する。奈良大学のサイトによれば、三宅教授は「文化庁美術工芸課彫刻担当技官、東京国立文化財研究所美術部第一研究室長、宮内庁正倉院事務所長などを経て、2005年より本学教授。文化審議会文化財分科会専門委員」という経歴の持ち主である。例によって私のノートと、宮内庁のサイトなどを参照しつつ書かせていただく。
(トップ写真は教授の推薦図書である。正倉院展のガイドブックとしても使える。)

1.正倉院宝物の成り立ち
《奈良・平安時代の中央・地方の官庁や大寺には,重要物品を納める正倉が設けられていました。そしてこの正倉が幾棟も集まっている一廓が正倉院と呼ばれたのです。しかし諸方の正倉は歳月の経過とともに亡んでしまい,僅かに東大寺正倉院内の正倉一棟だけが往時のまま今日まで残りました。これがすなわち正倉院宝庫です》(宮内庁:正倉院ホームページ。以下《 》内はすべてこのHPから引用)。
http://shosoin.kunaicho.go.jp/treasure/shousouin/index.html

正倉院宝物は、「東大寺盧舎那仏への献納品」と、「東大寺の物品(寺の運営に必要な什器・備品)および造東大寺司の物品(公文書=正倉院文書、作業着など)」に大別される。

《8世紀中頃,奈良時代の天平勝宝八歳(756)六月二十一日,聖武天皇の七七忌(四十九日)にあたり,光明皇后は天皇の御冥福を祈念して御遺愛品など六百数十点を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に奉献されました。皇后の奉献は前後5回に及び,その品々は同寺の正倉(現在の正倉院校倉宝庫)に収蔵して,永く保存されることとなりました。これが正倉院宝物の起こりです。そしてこれより二百年ばかり後の平安時代中頃の天暦四年(950)に大仏開眼をはじめ重要な法会に用いられた仏具,什器類が東大寺羂索院の倉庫からこの正倉に移され,光明皇后奉献の品々と併せて厳重に保管されることとなったのです。正倉院宝物は大別してこの二つの系統より成り立っています》。



《この正倉院宝庫は,千有余年の間,朝廷の監督の下に東大寺によって管理されてきましたが,明治八年,宝物の重要性にかんがみ内務省の管轄となり,次いで農商務省を経て宮内省に移り,引き続き宮内庁の管轄するところとなっています。なお宝庫としては現在,古来の正倉のほかに西宝庫と東宝庫があり,いま宝物はこの両宝庫に分納して保存されています》。

まず「正倉」について。《正倉は前述のとおり,もとの東大寺の正倉で,奈良時代以来宝物を収蔵してきた宝庫です。檜造り,単層,寄棟本瓦葺きで高床式に造られています》《内部は三室に仕切られ,北(正面向かって右)から順に北倉,中倉,南倉とよばれます。北倉と南倉は大きな三角材を井桁に組み上げた校倉造りであり,中倉は北倉の南壁と南倉の北壁を利用して南北の壁とし,東西両面は厚い板をはめて壁とした板倉造りです。また各倉とも東側の中央に入り口があり内部は二階造りとなっています。北倉は主として光明皇后奉献の品を納めた倉で,その開扉には勅許を必要としたので勅封倉とよばれ,室町時代以降は天皇親署の御封が施されました。中倉は北倉に准じて勅封倉として扱われ,南倉は諸寺を監督する役の僧綱の封(後には東大寺別当の封)を施して管理されましたが,明治以降は南倉も勅封倉となりました》。

《正倉院宝物が現在もなお極めて良好な状態で,しかも多数のものがまとまって残されているのは,一つには勅封制度によってみだりに開封することがなく,手厚く保護されてきたことに負うところが大きいのです。また建築の上からみると,宝庫がやや小高い場所に,巨大な檜材を用いて建てられ,床下の高い高床式の構造であることが,宝物の湿損や虫害を防ぐのに効果があったものと思われます。その上,宝物はこの宝庫で辛櫃に納めて伝来されたのですが,このことは湿度の高低差を緩和し,外光や汚染外気を遮断するなど,宝物の保存に大きな役割を果たしました》。



次に「西宝庫・東宝庫」(現在、宝物が収納されている建物)について。《正倉の西南と東南に建っている宝庫で,西宝庫は昭和37年(1962)に,東宝庫は昭和28年(1953)に建築されました。ともに鉄骨鉄筋コンクリート造りで,空気調和装置が完備されています。西宝庫は正倉に代わって整理済みの宝物を収蔵している勅封倉で,毎年秋季に開封され,宝物の点検,調査などが行われます。東宝庫には現在,染織品を中心とした整理中の宝物と聖語蔵(しょうごぞう)経巻が格納されています》。

「聖語蔵(しょうごぞう)」という蔵もある《聖語蔵は東宝庫の前方にある校倉がそれで,平安末期あるいは鎌倉時代の建築といわれています。もと東大寺の塔頭尊勝院の経倉で,転害門内にありましたが,明治年間,収蔵の経典類とともに皇室に献納され,現地に移築されたものです。経典類は,中国の隋経・唐経をはじめ,奈良,平安,鎌倉時代の古写経その他の約五千巻で,いま東宝庫に収納されています》。
※参考:「よみがえれ!現代のシルクロード」の正倉院サイト。子供向けだが画像も豊富で、とても分かりやすい。
http://www.kodomo-silkroad.net/heizyoukyou/syousouin/index.html

2.正倉院宝物の特色
《正倉院宝物は,そのほとんどのものが奈良時代,8世紀の遺品であり,波涛をこえて大陸から舶載され,あるいは我が国で製作された美術工芸諸品や文書その他です。いま宝庫に伝えられている宝物の点数は整理済みのものだけでも約9000点という膨大な量に上っています。またその種類も豊富です》。

三宅教授の講義では、PowerPointを使いながら、画像に合わせて説明を聞かせていただいた。当ブログ読者の皆さんは、以下のサイトの画像などを参照して、感じをつかんでいただきたい。
※主な宝物(よみがえれ!現代のシルクロード)
http://www.kodomo-silkroad.net/heizyoukyou/syousouin/takaramono.html
※宝物の模様(同)
http://www.kodomo-silkroad.net/heizyoukyou/syousouin/pattern.html
※薬(同)
http://www.kodomo-silkroad.net/heizyoukyou/syousouin/medicine.html



三宅教授によれば、正倉院宝物の特色は以下の4点である。
(1)由緒・由来の確かさ
《このような内容をもった正倉院宝物はまた,次のような重要な特質をそなえています。それはまず,由緒伝来や製作年代,使用年代の明らかな宝物が少なくなく,このため学術上寄与するところが多いことです》。

(2)地上伝世、保存良好
《次には宝物が出土品でなく伝世品であるという点です。古代の遺品といえば,多くは地中から発掘された考古学的遺品ですが,正倉院宝物は出土品でなく木造の宝庫に納められて1200年余にわたって伝世してきたものです。したがって保存状態もよく,伝世品としての品格と美しさを保持していることは,誰もが感歎するところでしょう》。

(3)用途・材料・技法の多様性
《用途別に分類すると,書巻文書,文房具,調度品,楽器楽具,遊戯具,仏教関係品,年中行事用具,武器武具,飲食器,服飾品,工匠具,香薬類など生活の全般にわたっており,奈良時代の文化の全貌を眼のあたりに知ることができます。製作技法について見ても,金工,木工,漆工,甲角細工,陶芸,ガラス,染織など,美術工芸のほとんどすべての分野におよび,平脱(へいだつ),木画,螺鈿(らでん),撥鏤(ばちる),三彩,七宝といった高度の技法を用いたものが多くあります。また使用材料の種類も豊富です。光明皇后奉献の趣旨と品目を記載した献物帳,樹下美人像で知られる鳥毛立女屏風,世界唯一の遺品でもある華麗な五絃琵琶,遥かなシルクロードの旅路を偲ばせるカットグラスの白瑠璃碗,黄金,珠玉で飾った犀角の如意,現存最古の戸籍である大宝二年(702)の戸籍,狩猟文その他異国要素の文様をもった正倉院裂の数々,その他著名な宝物だけでも枚挙にいとまがありません》。

(4)世界性、国際性―製品、材料、意匠(デザイン)―
《さらにいまひとつの特質は世界性です。正倉院の宝物は国際色豊かな中国盛唐の文化を母体とするもので,大陸から舶来した品々はもとより,国産のものもまた,8世紀の主要文化圏,すなわち中国をはじめ,インド,イランからギリシア,ローマ,そしてエジプトにも及ぶ各国の諸要素が包含されています。なかでも注目されるのは,西方的色彩の濃厚なことですが,西方の要素は盛唐にとり入れられ,やがて我が国に伝来して,正倉院にとどまっているのです。「正倉院はシルクロードの終着点である」という言葉は,この宝物のもつ世界性の一端を言いあらわしたものと言えるでしょう。正倉院宝物は,ひとり奈良朝文化の精華を示すだけでなく,実に8世紀の世界文化を代表する貴重な古文化財なのです》。
※「主要宝物自動鑑賞」のサイト(宮内庁:正倉院ホームページ)
http://shosoin.kunaicho.go.jp/treasure/shousouin/slide/slideframe.html



さて、今年も正倉院展が、奈良国立博物館で開催される(10/24~11/12)。今年は、1月の天皇陛下の即位20年を記念し、正倉院宝物を代表する名品が出陳(しゅっちん)されるのが特徴だそうだ。北倉11件、中倉25件、南倉28件、聖語蔵3件の総計66件の宝物が出陳され(初出陳は12件)、正倉院宝物の全体が概観できるような構成になっている。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2009toku/shosoin/shosoin_index.html

面白いのが「子日目利箒(ねのひのめとぎほうき)」という儀式用の玉かざり箒(ほうき)である(初出陳ではない)。中国の正月には皇帝が正月初子の日に自ら豊壌を祈願して田を耕し、皇后が蚕室を掃いて蚕神をまつる儀式がありこれが奈良時代に日本に伝わり、孝謙天皇により始められた儀式なのだそうだ。大伴家持の歌(万葉集)にも詠まれている。
「始春(はつはる)の初子(はつね)の今日の玉箒(たまばはき)手にとるからに ゆらぐ玉の緒」
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2009toku/shosoin/images/shosoin_011.jpg

子日目利箒の精巧なレプリカは、奈良国立博物館で常設展示されていたこともあるようだが、以前私は「正倉院『宝物レプリカ』展の開催を!」というブログ記事を書き、賛同の声をたくさんいただいたことがある。ご参考に。
※正倉院「宝物レプリカ」展の開催を!(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/2263ca324db9a77b4a1ed117e6bf0195

以上がこの日の講義の(私なりの)まとめである。三宅教授はとても豊富な知識をお持ちなので、特に話が脱線すると面白かった。9/11の「平城京の仏たち」も、三宅教授が担当された。次回も、お楽しみに。
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