tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

真の「神武天皇橿原宮」はここか!?(神武天皇社=御所市柏原)/毎日新聞「やまとの神さま」(3)

2022年04月30日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は本年(2022年)4月から原則として毎月3回(木曜日)、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。今週(4/28)掲載されたのは〈根強い橿原宮跡説/神武天皇社(御所市)〉、執筆したのは私だった。
※トップ写真は、神武天皇社拝殿=御所市柏原で。最近になって、鳥居が新調された

記事に登場する藤井謙昌(よしまさ)さんから、こんな情報をいただいた。〈奈良県民を対象にして、奈良県の「春いまならキャンペーン2022」と御所市の助成金を利用して「ディスカバーGOSE(ごせ)楽得納得キャンペーン」という企画が6月30日まで開催されています〉。

〈知らなかった気づかなかった初夏の魅力が満喫できるツアーが11本用意されており、6月17日(金)には「掖上・秋津洲・巨勢の道を探訪」というツアーで、神武天皇社を訪れることができます〉。御所市も、粋なことをするものだ。末尾にチラシを貼っておくので、ぜひご参加いただきたい。では、記事全文を紹介する。


こちらは神武天皇社本殿、普段は非公開だ

神武天皇社(御所市)根強い橿原宮跡説
神武天皇社は御所市柏原(旧掖上(わきがみ)村柏原)にあり、元はカシワ(柏)の密生地でした。「日本書紀」に神武天皇の宮は畝傍(うねび)山の東南とありますが、これを「西南」の誤りとし、古くからこの地を神武天皇橿原宮の推定地とする説があります。

現在の橿原の地を訪ねた本居宣長も地元民から、「かしばらの地はここから一里ほど西南に行ったところだ」と聞き、それを「菅笠日記」に書き残しました。随筆家の白洲正子はこの話に興味を持って神武天皇社にお参りし、「土豪に擁されて即位した神武天皇の宮跡に似つかわしい」などと1971(昭和46)年の著書「かくれ里」に書き残しています。

神武天皇社の総代を務める藤井謙昌(よしまさ)さん(68)は、「神武天皇の宮跡はここだという説は根強いです。旧地名・掖上の掖には、宮殿という意味があるそうです。明治の初めには、『宮跡に指定されてしまうと引っ越さなければならない』ということで、証拠書類を焼き払い、指定を免れたという言い伝えがあります」。

神社の周辺には国見山や本馬山があり、いずれも神武天皇が東征を達成した後、高い所から国土を見渡す国見をしたという嗛間(ほほま)の丘の候補地とされています。(奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)

(住 所)御所市柏原246
(祭 神)神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)(神武天皇)
(交 通)JR掖上駅から徒歩約15分
(拝 観)境内自由。南の嗛間(ほほま)神社は即位前の妻・吾平津媛(あひらつひめ)が祭られ、前面道路より拝観可
(駐車場)無






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田中利典師の『体を使って心をおさめる 修験道入門』集英社新書(10)/「近代の災禍と修験道再生」PART Ⅲ.

2022年04月29日 | 田中利典師曰く
田中利典師の名著『体を使って心をおさめる 修験道入門』をご本人の抜粋により紹介するシリーズ。10回目となる今回は「近代の災禍と修験道再生 PART Ⅲ.」を紹介する。師のFacebook(3/3付)より。
※トップ写真は、吉野水分神社(世界遺産の構成施設の1つ)のしだれ桜、2022.4.11撮影

シリーズ修験道「近代の災禍と修験道再生」
拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門』(集英社新書)は7年前に上梓されました。一昨年、なんとか重版にもなりました。「祈りのシリーズ」の第2弾は、本著の中から、「修験道」をテーマに、不定期にですが、いくつかの内容を紹介いたします。よろしければご覧下さい。
 
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「法難からの復興と世界遺産への登録」
第二次世界大戦後、宗教・信仰は自由化され、誰も「神と仏を分けろ」「修験道はあいならん」などとは言わなくなりましたが、明治の法難以降、山伏は激減し、かつて全国で市井の暮らしに細やかなまでに入り込んでいた活動は途絶えた形となりました。主に三派を中心に細々と、役行者時代からの修行法を受け継いできたことになります。

さて、そんな時代の流れによって、日本の宗教・信仰形態の隅っこに追いやられてしまったような修験道でしたが、ふたたび脚光を浴びる出来事が起こります。2004(平成16)年7月、吉野・大峯、熊野三山、高野山という三つ霊場と、大峯修行道(大峯奥駈道)、熊野参詣道(熊野古道)、高野山町石道という三つの参詣道を一まとめにして、『紀伊山地の霊場と参詣道』がユネスコの世界文化遺産に登録されたのです。

奈良県、三重県、和歌山県にまたがる紀伊半島の一帯が、世界の宝物になりました。ちなみに、吉野大峯の世界遺産登録に向け、最初に手を挙げたのは私ども金峯山寺でした。修験道の霊場としての吉野・大峯、神道と修験道の霊場としての熊野三山、真言密教の霊場としての高野山、この異なる霊場を繋いだのはたんに参詣道だけではありません。

神と仏を分け隔てなく尊んできた修験の行者たちがその聖地を近しく結んだのであり、それゆえにこの地域は東アジアにおける宗教文化の交流と発展を例証するものとして世界的に認定されたのです。

世界遺産では同じような類いのものは登録されません。その国や地域を代表する唯一無二のもの、独特のものこそがその国の宝であるとともに、世界の宝物として登録されてきたのです。『紀伊山地の霊場と参詣道』はまさに日本人が神、仏を分け隔てなく、自然と融け合い崇拝してきた宗教観の証として、いまに残されている宝物なのです。

そういう日本人が持ってきた精神のかたち、精神文化のかたちが顕著に現れたものとしての世界遺産登録でした。この世界遺産登録が修験道の注目を高めるきっかけとなったことは間違いないでしょう。

「修験道大結集」
金峯山寺では、『紀伊山地の霊場と参詣道』のユネスコ世界遺産登録を記念して、2004年7月1日から翌年6月30日までの一年間にわたって蔵王堂秘仏御本尊金剛蔵王権現のご開帳など、多くの慶讃行事を行いました。その一連の記念行事の中心事業となったのが「修験道大結集・平和の祈りの大護摩供」でした。

これは、明治期に大弾圧を受けながら見事に復活を遂げた修験道の、21世紀に法統を伝える新たな始動の第一歩として行ったもので、地球の平穏と世界の平和を修験道全体で祈念しようという呼びかけでした。この歴史的な呼びかけに応じて、三井寺や聖護院、醍醐寺、五流尊瀧院、大峯山寺、那智山青岸渡寺、薬師寺修験部、高尾山薬王院、犬鳴山七宝瀧寺、験乗宗光明寺など、修験道の伝統を護持する全国の山伏たちが金峯山寺に結集したのです。その数、なんと17カ寺・三千数百人にものぼりました。

修験道大結集が行われたこと自体が日本仏教史上、はじめてのことでした。ましてや、これほどの数の山伏が結集したことは、もちろんこれまでにありません。結集した山伏たちは、特別ご開帳中の日本最大秘仏・金剛蔵王権現の宝前で、それぞれの流儀に従い、祈りを込めて修法し、修験道の精神を大いに発信しました。

山に伏し、野に伏し、自然とそこに坐す神々に祈る日本独自の宗教・修験道。その修験道が、世界遺産登録決定を記念した修験道大結集を通じて、現代の世界・社会が抱える問題解決の可能性を秘めていることを世界に向かって明らかにした、エポックメイキングな出来事でした。なお、この修験道大結集は、平成21年に五周年、平成26年には10周年を迎え、継続して開催されています。

「ふたたび修験ブーム」
世界遺産登録の追い風を受けて、ふたたび注目されつつある修験道。それを象徴するかのような取り上げられ方をしたのが、『白洲正子 神と仏、自然への祈り 生誕100年特別展』でのそれです。2010年から2011年にかけて、私も親しくしている白洲信哉氏のプロデュースによる『白洲正子 神と仏、自然への祈り 生誕100 年特別展』が、滋賀県、愛媛県、東京都で順次開催されました。

白洲正子さんは日本各地の寺社巡礼を重ね、日本人の自然に対する思い、神、仏に対する思いを感じ取り、多くの紀行文を残しています。この展覧会は10のテーマで構成され、それは「Ⅰ 自然信仰」、「Ⅱ かみさま」、「Ⅲ 西国巡礼」、「Ⅳ 近江山河抄」、「Ⅴ かくれ里」、「Ⅵ 十一面観音巡礼」、「Ⅶ 明恵」、「Ⅷ 道」、「Ⅸ 修験の行者たち」、「Ⅹ 古面」でした。

なんと白洲正子さんの展覧会で修験が独立したテーマとして設定されているのです。「修験道を隠れたテーマとして構成しました」とさえ、白洲さんは語っています(『OKUGAKE』ブックエンド社刊・2010年)。20数年前にはとても考えられなかったことです。修験道が日本の宗教形態としてスポットを浴びるところまで復権したことを、喜びに満ちた驚きとともに実感しました。
#ロシアにウクライナからの即時撤退を求めます!
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奈良八重桜の会が20周年!/記念式典、短歌大賞表彰式、映像作品上映など

2022年04月28日 | 奈良にこだわる
先週の土曜日(2022.4.23)、奈良八重桜(ナラノヤエザクラ)の会の設立20周年記念式典が行われ、「奈良八重桜短歌大賞」の授賞式などが行われた。大賞に輝いたのは、松森重博さん(NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」理事)だった、おめでとうございます!
※トップ写真は、「奈良八重桜短歌大賞」で大賞に輝いた松森重博さん

この日は私も会場に駆けつけた。映像作家・保山耕一さんの「大和し 美し」も、素晴らしかった。式典のあとは、奈良公園に咲くナラノヤエザクラをご案内いただいた。月曜日(4/25付)の奈良新聞〈ナラノヤエザクラ普及へ 奈良八重桜の会が設立20周年式典〉によると、


松森さんには副賞として、大賞の歌を興福寺の多川俊映師が短冊に書かれたものが
授与された。歌は「時を超え古え人とつなぐかにナラノヤエザクラは堂あとに咲く 」

県花・ナラノヤエザクラの普及、保護育成に尽力する奈良八重桜の会(上田トクヱ会長、74人)の設立20周年記念式典が23日、奈良市登大路町の奈良公園バスターミナルレクチャーホールで開かれた。関係者や来賓ら約150人が出席し、節目を祝い、「いにしえの奈良八重桜を永久(とこしえ)に―もう幻の桜にはしない」を合言葉に一層の活動充実を誓った。同会は2001年に発足。昨年20周年を祝う予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大で断念し、ようやく開催にこぎつけた。


奈良公園・興福寺の北東側にたくさんのナラノヤエザクラが咲いていた

式典では上田会長があいさつし、各種団体との協力によるナラノヤエザクラの植樹やイベントを通してのファン拡大、天皇皇后両陛下(当時)への献上、室町時代の能「八重桜」の復曲など20年間の活動の一端を紹介。「これからもナラノヤエザクラの語り部として花守を続けていきたい」と話した。続いて、来賓の荒井正吾知事や奈良国立博物館の井上洋一館長、同会の大川靖則顧問が祝辞を述べた。



このあと20周年記念の短歌大賞の表彰式を実施。全国635首の応募の中から選ばれた入賞者8人のうち、出席した大賞の松森重博さん(73)=奈良市=ら3人に賞状などが手渡された。また興福寺の多川俊映寺務老院が同寺とナラノヤエザクラの関わり、能の復曲などについて語った記念講演、映像作家の保山耕一さんの作品「大和し 美し」の上映なども行われた。

奈良八重桜(ナラノヤエザクラ)は、奈良に咲く八重桜の総称ではなく、固有の品種である。百人一首に載る伊勢大輔(いせのたいふ)の「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな」の桜が、この奈良八重桜である。奈良八重桜の会の「奈良八重桜とは」によると、



いにしへの奈良の都の八重桜…
百人一首でも知られるこの歌に詠まれた「奈良の都の八重桜」がナラノヤエザクラです。
・奈良に咲く八重桜の総称ではなく、「ナラノヤエザクラ」という桜の一品種。
・あらゆる桜の中でいちばんの遅咲き。4月下旬、周囲が新緑に染まる頃に咲きます。
・蕾は真紅。小ぶりで清楚な花弁を開くと淡いピンク色。
・散り際に再び紅色を濃くしていきます。
・野生種であるカスミザクラが重弁化した変種であると考えられています。
・奈良県の花、奈良市の花
・東大寺知足院のナラノヤエザクラは国の天然記念物(大正12年指定)


大きな花をつける園芸品種と違い、小さくて可憐な花が咲く。うっかりしていると見落としそうになる。奈良県の花であるとともに奈良市の花でもある。この日はちょうど花の見頃だったが、高いところで咲くので、私は望遠レンズを使って撮った。

奈良八重桜が咲くと、奈良県の桜の時期が終わる。今年はたくさんの桜名所を訪ねた。来年も撮りに行くぞーっ!

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奈良県指定文化財の保存状態などを調査し、結果を公表!/奈良まほろばソムリエの会「保存継承グループ」

2022年04月27日 | 奈良にこだわる
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」保存継承グループ(担当=久門たつお理事)は昨日(2022.4.26)、奈良県庁内の文化・教育記者クラブで、県指定文化財の保存状態などを調査した結果を公表した。今朝の毎日新聞奈良版、奈良新聞などに紹介されている。調査結果は提言書として、奈良県文化・教育・くらし創造部長に提出し、実態調査や支援を要望した。毎日新聞の記事によると、
※トップ写真は昨日の記者会見の様子。同会の松森理事の撮影

県指定文化財の保存状態を調査 奈良ソムリエの会
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」(豊田敏雄理事長)は26日、県指定文化財の保存状態などを調査した結果を公表した。調査は2020年6月~21年10月、史跡54件▽名勝3件▽天然記念物55件▽有形民俗文化財18件の計130件で実施。会員が目視や関係者へ聞き取りをし、管理状況や説明板の有無などについて調べた。



石室内で崩落が起きていると見られる笛吹神社古墳(葛城市)。当日の配布資料より

葛城市の笛吹神社古墳(史跡)と平群町の宮山塚古墳(同)では、石室内で崩落が起きている可能性が判明。宇陀市の初生(はじょう)寺境内に自生するツルマンリョウ(天然記念物)が10年ほど前から見られなくなっているなど、貴重な植物の存続が危ぶまれる例が3件あった。説明板は10件で設置の確認ができなかった。2件で記載の誤り、3件が読みづらい状態になっていたという。

会のメンバーで調査を担当した久門たつおさんは「文化財を個人が所有している場合、予算の関係などで管理に手が回っていないケースがある」と指摘。結果や課題をまとめた提言書を県に提出し、行政による実態調査や支援を要望した。【塩路佳子】


当会では2019年に奈良県指定文化財対象の「災害対策等現況調査」の結果を公表し、要望書を提出したことがあるので、これが2回目となる。これら活動は当会ならでは特色ある社会貢献活動として、今後も継続していきたい。
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田中利典師の『体を使って心をおさめる 修験道入門』集英社新書(9)/「近代の災禍と修験道再生 PART Ⅱ.」

2022年04月26日 | 田中利典師曰く
田中利典師の名著『体を使って心をおさめる 修験道入門』をご本人の抜粋により紹介するシリーズ。9回目となる今回は、「近代の災禍と修験道再生 PART Ⅱ.」を紹介する。師のFacebook(3/2付)より。
※トップ写真は、吉野山上千本付近で撮影(2022.4.7)

シリーズ修験道「近代の災禍と修験道再生」
拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門』(集英社新書)は7年前に上梓されました。一昨年、なんとか重版にもなりました。「祈りのシリーズ」の第2弾は本著の中から、「修験道」をテーマに、不定期にですが、いくつかの内容を紹介いたします。よろしければご覧下さい。 

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「多くの廃寺・生き残った金峯山寺」
かつて、修験道の根本聖地・吉野は、山上山下に百数十坊の堂社があり、明治の初年でも、山下吉野山山内に五十以上もの塔頭(支院)があった修験の一大拠点でした。けれども、ほとんどの修験の寺は、明治の法難によって消滅してしまいました。

のちの明治12年に東南院、13年に竹林院と桜本坊、19年には山下蔵王堂に金峯山寺の寺号が戻り、21年に喜蔵院が仏寺に復興しました。また、吉水院は吉水神社として復興しました。けれども、それ以降は修験寺の復興は認められませんでした。

それまでお参りしていた人々は、廃寺のあいだ、どうしていたのかというと、実はお参りは続けられました。なにを拝んでいたのかというと、やはり蔵王権現です。というのも、明治6年には「蔵王堂ならびに仏具、仏体等をみな取り除くように」との指令がありましたが、山下の本堂にあるご本尊の蔵王権現は大きすぎて外に出すことができませんでした。そのため、蔵王権現の御前に巨大な鏡を置いて、神としておまつりしたのです。人々はそこにお参りしたというわけです。

かたや山上の本堂のほうは、本堂前の通称お花畑と呼ばれる広場に新堂を建て、本堂の仏像を全部移しました。この新堂の管理を担ったのは檀家寺の吉野山区の善福寺と、洞川区の龍泉寺です。なぜなら、この法難時には、金峯山一山の修験寺はすべて廃寺とされていたからです。

このことがもとで、本来、一体であった金峯山寺の山上山下蔵王堂は別々になり、のちに山下の本堂のみが金峯山寺に復帰し、山上本堂は大峯山寺となって、現在に至っています。

「修験者の激減」
明治以前には、たとえば聖護院の末寺は全国に2万余ヶ寺もありました。それが今では約2百ヶ寺を数えるにすぎません。また、この明治初期の修験道廃止により職を失った山伏は、なんと17万人にものぼったといわれます(中山太郎『日本巫女史』一1929年刊)。

明治5(1872)年の日本の総人口は3480万人と言われています。現在の日本人口は約1億2700万人(総務省統計局:平成23年の総人口)ですから、その数に換算すると、60万人にものぼります。現在、日本には約33万人の僧侶がいる(文化庁宗教年鑑:平成23年12月31日現在)と言われていますから、当時の17万人というのは驚異的な数字です。

にいえば、それほどまでの数がいたからこその廃止令だったとも言えるわけです。「神」のもとに国民を束ね、国家統一を図るためには、もっとも日本的な宗教とも言える神仏和合の精神を一度、徹底的に崩壊させる必要があったということです。

「現代修験道を代表する三派」
こんにちの日本において代表的な修験道の宗派についてまとめてみます。
・本山修験宗(本山派・総本山聖護院)
修験の教えを天台密教や法華思想をよりどころとして発展した系譜。熊野が拠点でしたが、今は京都の聖護院門跡を中心としています。山伏の装具上の特徴としては、房のついた袈裟(結袈裟・梵天袈裟という)を持ちます。また、修験独自の護摩を「採灯護摩供」あるいは「柴灯護摩供」と表記しますが(いずれも「さいとうごまく」と読む)、天台系は「採」と表記します。

・真言宗醍醐派(当山派・総本山醍醐寺)
修験の教えを真言密教をよりどころにとして成立発展した系譜。南都修験を中心に東大寺から出られた聖宝理源大師を祖師に、近世以降は醍醐寺三宝院を拠点とします。山伏の装具上の特徴としては、輪宝という輪っかになった金具のついた袈裟をつけます。また、真言宗の修験は、護摩を「柴灯護摩供」と表記します。

・金峯山修験本宗(金峯山寺)
地理的に吉野は奈良とたいへん近く、南都・東大寺、興福寺とも深い関係がありました。それゆえ、もともとは当山系の影響下にありましたが、本山派・当山派両方の修験者が修行にくる場所であり、山内には天台系と真言系の両派の塔頭寺院があり、神仏習合のため社僧(神社に奉仕する僧侶)もいた上での経営でした。それが江戸初期に天海僧正が管領職に任ぜられてから天台宗輪王寺末となり、現在は天台山門系の修験となっています。

その他、天台寺門宗三井寺や犬鳴山修験道(葛城修験、七宝滝寺)、五流修験道(岡山の五流尊瀧院)、羽黒修験や日光修験、高尾山、白山、英彦山、石鎚山、富士修験のように、各地の霊山を拠点とする国峰修験の流れもあります。
#ロシアにウクライナへの即時停戦を訴えます。
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