tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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司馬遼太郎が教えてくれた(3)空海は、国際的思想家

2013年03月21日 | 司馬遼太郎
 空海の風景〈上〉 (中公文庫)
 司馬遼太郎
 中央公論社

「司馬遼太郎が教えてくれた」として2回の記事を書いたが、おかげさまで反応は上々である。「司馬遼太郎は読んだことがない」という若者や女性が、「目からウロコだった」と言ってくれるのが嬉しい。これからも、司馬遼太郎の著作から「目からウロコ」の話をピックアップして、どんどん紹介したい。

さて、今日のテーマは弘法大師・空海である。司馬遼太郎には『空海の風景』という大著がある。司馬はこの本で芸術院恩賜賞を受賞しており、「司馬文学の頂点を示す画期作」とされる。中公文庫版『空海の風景』の解説では、大岡信は《いったい司馬遼太郎以外のどんな作家が、空海を主人公とした『小説』を書くことを夢想し、かつ実現し得ただろうか》。この本は《まさしく小説にちがいなかったが、伝記とも評伝ともよばれうる要素を根底に置いているがゆえに、空海を中心とする平安初期時代史でもあれば、密教とは何かに関する異色の入門書でもあり、最澄と空海の交渉を通じて語られた顕密二教の論でもあり、またインド思想・中国思想・日本思想の、空海という鏡に映ったパノラマでもあり、中国文明と日本との交渉史の活写でもあるという性格のものになった》。

そして最後に《このようなタイプの主人公がこの国の小説でかつて扱われたことがなかったという事実に、あらためて注目せざるを得ない。司馬氏が空海を主人公に選んだという事実は、そのこと自体において、文学史的にもひとつの事件だったということができる》と絶賛している。

今日の話は前回の「日本語文章体」の大衆化から、やっと60年[司馬遼太郎が教えてくれた(2)]と同じく、朝日文庫『司馬遼太郎全講演[2]』から引用する。1976年6月6日に行われた高野山真言宗参与会設立総会特別講演(於:和歌山県高野町・高野山大学松下講堂)で、演題は「『空海の風景』余話」である。

 『空海の風景』を旅する (中公文庫)
 NHK取材班
 中央公論新社

日本の歴史のなかで出現した偉人はいずれも、「日本の」菅原道真であり、「日本の」源頼朝であり、「日本の」西郷隆盛であります。みな、「日本の」という接頭語がつく。ところが1人、弘法大師だけは例外ですね。彼だけが「人類の」空海です。お大師さんの思想はアメリカであれ、アフリカであれ、どこへ行っても通用する。

日本の歴史がこれまでに持った最大の巨人で、真理そのものといったところがある。とても小説の対象にはならないのです。空海という巨人の、衣の袖の塵埃(じんあい)だけでも最後に描ければというそれだけの目的で、私は書いてみることにしたのです。

『空海の風景』を構想して、ある日、大変科学的な考えを持った東洋史学者(両親が徳島出身)に、司馬が空海について質問する。

その先生の答えはこうでした。「私のような四国の者にとってはお大師様は『神様』ですね。『どう思うか』ということはないんです。ただそれだけです」 どんな場合にも理性を失いそうもない人文学者が、こと空海のことになると、「神さまだから感想も何もない」とおっしゃる。それを聞いたときは、息をするのを忘れるような驚きがありました。

空海が渡った唐の都・長安は、世界で最大の文明都市だった。

長安の繁華街には銀座のスタンドバーのようなところがあり、イランから来た青い目のホステス嬢がぶどう酒を注いでくれる。白壁で緑の瓦の洋風教会も散在していました。

空海は日本の歴史のなかでも最も芸術的才能の豊かな人であり、さまざまな方面に豊かな感受性を持った方でもあります。私は空海には、長安という街そのものがひとつの壮大な芸術品として感じられたのではないかと思っています。

空海は40歳をすぎてから、プライベートなお寺として高野山をつくりました。官寺ではなく私寺です。

これはやはり青年時代の感受性を刺激した長安のイメージがあるのではないでしょうか。いわばお大師さんの「空想」と日本思想史上に位置する空海の「思想」とは無縁でありますが、詩人の直観で、「長安の都に似たものをつくることで、世界に通じる思想をここに据えておこう」 そう思ったのではないでしょうか。

高野山とは、陰々滅々とした仏教臭さというものはなく、生命と天地を謳歌し、太陽のように明るくいきいきとした生命のほとばしり出る真言密教の趣旨や思想の表れなのだと、考え直してみてください。そうするとお大師さんが長安を偲ばれたのではないかとする私の妄想も、けっして冒瀆(ぼうとく)ではないと思うのであります。真言密教は石の上に座るようなせせこましいものでも、死後の世界だけを考えるというようなものでもなく、本来は非常におおらかで、世界性を持った宗教なのではないかと、私のような素人は思うのであります。


私の生まれた九度山町(和歌山県伊都郡)は、高野山の麓にある。高野山には何度も訪ねたことがあり、児童向けの漫画本で、空海の生涯や教えを描いたものがたくさん売られていて、私も読んでいた。だから子供の頃から「お大師さん」は、身近な存在だった。もちろんウチの宗派は、高野山真言宗(南無大師遍照金剛)だ。子供の頃、手足などをどこかにぶつけて泣きべそをかいていると、祖母が「高野の弘法大師さん、どうかこの子の痛みをとっておくれ」と言いながらさすってくれたのを思い出す。まさに「神さま」だったのだ。

2015年(平成27年)は、空海による「高野山開創1200年」である。高野山・金剛峯寺は、イメージキャラクターやロゴマークを作った。今年(2013年)からは、空海・高野山検定も始まる(試験日は6月9日)。

空海は入唐(にっとう)前には吉野山で修行したり、大安寺で中国語を学んだり、東大寺で得度受戒したり、また帰朝後は東大寺に真言院(灌頂道場)を建立し、東大寺別当も務めているので、奈良とも縁がある。今も東大寺の近くに空海寺がある(もとは空海の草庵)。「高野山開創1200年」を機に、奈良と高野山が連携して、空海をテーマとしたイベントができそうである。そのためには、また『空海の風景』を読み直さなければ…。

そんな「思想の巨人」を小説に描いていただき、司馬遼太郎さん、有難うございました。
コメント (4)
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司馬遼太郎が教えてくれた(2)「日本語文章体」の大衆化から、やっと60年

2013年03月19日 | 司馬遼太郎
 司馬遼太郎全講演〈2〉1975‐1984 (朝日文庫)
 司馬遼太郎
 朝日新聞社

今回は、朝日文庫『司馬遼太郎全講演[2]』の「文章日本語の成立」から(1982年 東京・NHKホール 新潮カセット講演『司馬遼太郎が語る 第4集』が初出)。今回のテーマは「共通文章日本語の成立」、つまり、日本人が誰でも共通に使用できる、いわばインフラとしての「日本語文章体」ができたのはいつか、という話である。

文章というのは、それがいいか悪いかは別として、社会の文化、あるいは文明の成熟に従って、やがては社会の共有のものになるんだ、ということをお話ししたいと思います。

結論を言いますと、明治期に夏目漱石が、だいたい多目的の文章を考案したということを言いたいんです。

『虞美人草』は漱石の作品の中ではそんなに高く評価されてはいませんが、しかし、文章として見ると、そこに色恋沙汰も表現できて、しかも思想的なものが十分に表現されている。一筋縄でしかなかった泉鏡花の文章から見ると、道具として非常に多目的に使える能力を持っているように思います。それに、自分および他人に対して一定の距離を置くことができるという文体を、すでに漱石がつくりあげています。鏡花の場合は、自分の情念なり、何事かに則した、則し過ぎた文章しか持っていませんが、漱石の文章だと、自他を客観視できるというところまでいっています。


 虞美人草 (新潮文庫)
 夏目漱石
 新潮社

試しに『虞美人草』の出だしの文章を紹介する。《「随分遠いね。元来どこから登るのだ」と一人が手巾(ハンケチ)で額を拭きながら立ち留った。「どこか己(おれ)にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」と顔も体躯(からだ)も四角に出来上った男が無雑作に答えた。反(そり)を打った中折れの茶の廂(ひさし)の下から、深き眉を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫(かすか)なる春の空の、底までも藍を漂わして、吹けば揺(うご)くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然として、どうする気かと云わぬばかりに叡山が聳(そび)えている》。なるほど、立派に現代でも通じる文章である。

対する泉鏡花の『婦系図』の出だしは《素顔に口紅で美いから、その色に紛うけれども、可愛い音(ね)は、唇が鳴るのではない。お蔦は、皓歯(しらは)に酸漿(ほおずき)を含んでいる。……「早瀬の細君(レコ)はちょうど(二十)と見えるが三だとサ、その年紀(とし)で酸漿を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、」と四辺(あたり)近所は官員(つとめにん)の多い、屋敷町の夫人(おくさま)連が風説(うわさ)をする。すでに昨夜(ゆうべ)も、神楽坂の縁日に、桜草を買ったついでに、可(い)いのを撰(よ)って、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家(となり)の娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! と刎(は)ねられて、利いた風な、と口惜(くやし)がった》。何だか擬古文のような、不思議な「うねり」のある文章である。これでは、客観的なものが書けそうもない。

 婦系図 (新潮文庫)
 泉鏡花
 新潮社

われわれは日常的に「おふくろさん」のことを「お母さん」と言います。「おやじさん」のことを「お父さん」と言います。しかし明治より前に、そんな言葉はどこでも使われたことがないんです。それらはみな、文部省が勝手につくったんですね。

それから、「さようでございます」とか、「さようでござりまする」というのが敬語でした。それをやめて、「そうです」という非常に軽い敬語にした。これも文部省か何かが勝手につくった言葉です。一説によりますと、江戸の末期の芸者さんが「そうです」と言っていたそうです。


では、漱石が先鞭をつけた「文章日本語」が広く一般的に使われるようになったのは、いつか。司馬は、フランス文学の権威である桑原武夫氏にお酒の席で聞いたそうだ。

「昭和27、8年じゃないか」と言ってみました。桑原さんは「『週刊新潮』その他の発行、つまり、割合、質のいい文章の大衆化ということと関係があるんではないか」とおっしゃった。それが冒頭の話とつながります。

私は昭和28年生まれで、今年は還暦だ。すると「共通日本語文章体の大衆化」も、還暦を迎えたことになる。我々がごく当たり前に使っているこの文章体は、たかだか60年ほどのものなのだ!

 竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫)
 司馬遼太郎
 文藝春秋

司馬は余談として、こんなことにも触れている。明治以前には、文章日本語だけでなく、スピーチしたり議論したりする言葉もなかった。

とはいっても、幕末の志士などが非常に議論している。今後どうすべきかということを策謀したり、あるいは、反対勢力との間の調整をしていますね。しかしそれは、お座敷に座って議論をしていたのかというと、それだけの言語はなかったように思うんです。志士たちは京都で、下宿するようにして転々と泊まっておりました。同じ党派は似たような町、木屋町なら木屋町に泊まっております。しかし隣に泊まっている仲間に手紙を書くんですね。で、下男が持っていく。すると返事もすぐ戻ってくる。こうしようとか、おれはこう思うとかいうことを、簡潔な漢文まじりの候文か、メモ程度の文章で通じ合う。非常に不自由な言葉しかなかったわけであります。

これは興味深い話である。NHKの『龍馬伝』などを見ていると、志士たちが盛んに激しい議論をしていたが、当時、あんな言葉はなかったのである。同郷の出身者なら、方言でコミュニケションできたかも知れないが、そうでなければ話し言葉が違うので、通じにくかったことだろう。短い手紙でやりとりしていたというのは、今の携帯メールやツイッターにも通じるので、これはある意味で原点回帰なのかも…。

今回も目からウロコの話であった。司馬遼太郎さん、有難うございました。
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司馬遼太郎が教えてくれた(1)幕末の志士は、死ぬことが平気だった

2013年03月10日 | 司馬遼太郎
 街道をゆく (1) (朝日文芸文庫)
 司馬遼太郎
 朝日新聞社

今年(2013年)は司馬遼太郎の生誕90周年である。早速、「月刊 文藝春秋」3月号が特集を組んでいる。私の亡父は司馬遼太郎の大ファンだった。家には『龍馬がゆく』や『坂の上の雲』などの小説がずらりと書棚に並んでいたし、定期購読していた「週刊朝日」が届くと、まっ先に「街道をゆく」を読んでいた。

しかし私はほとんど読んでいなくて、奈良で1人暮らしを始めたばかりの1980年(昭和55年)に『項羽と劉邦』がベストセラーになったとき全巻買って読み「これは面白い」と思い、それ以後、時々文庫本などを買うようになった。私は小説よりも、エッセイや講演録、対談や座談会のほうに関心があり、それは今も同じである。

 項羽と劉邦 (上) (新潮文庫)
 司馬遼太郎
 新潮社

昨年の11月、古事記ゆかりの地をめぐるバスツアー(奈良まほろばソムリエの会と奈良交通とのタイアップツアー)で、葛城市を案内することになったとき、ソムリエ仲間でガイド名人の田原敏明さんから「笛吹神社には、司馬遼太郎が来ていましたね。『街道をゆく』に出ていました」という話をお聞きした。私もかすかに読んだ記憶があったが、早速、朝日文庫『街道をゆく1』630円を買い直して読んだところ、これがめっぽう面白い。ここ数年、古代史や奈良の歴史などを勉強したので、以前に比べ、面白さがよく分かるようになっていたのだ。今年は生誕90周年でもあるので何か記念ツアーを組むヒントになるかも知れないと、急いで司馬遼太郎を読み直しているところである。

読んでいると「うーん、そうだったのか!」と思わず膝を打つようなフレーズがぞろぞろ出てくる。忘れてしまってはもったいないし、ブログ読者の皆さんも興味を持っていただけると思うので、これから思いつくまま、紹介することにしたい。

さて、初回は朝日文庫『司馬遼太郎全講演[1]』の「歴史小説家の視点」から(1968年4月30日 新潮文化講演会 新潮カセット講演『司馬遼太郎が語る 第2集』が初出)。3月4日、当ブログに「天誅組を『南山踏雲録』から読み解く(2)」という記事を書いた。天誅組については「よくもこんな無茶な武装蜂起をして、あたら若い命を落としたものだな」と思っていたが、司馬遼太郎はこんなことを書いていた。

実録 天誅組の変
舟久保藍
淡交社

幕末の志士たちは死ぬことが平気で、すぐ死んじゃう。すぐ死んじゃうのに、「死んだ後、どうするんだ」と聞いても、きっと何も答えられないだろうと思うんです。死ぬことが平気なくせに、宗教がなかった。

われわれ日本人は、大変植物的な民族ですから、死ぬことは、比較的怖くない。幕末の志士は特にそうでした。幕末の志士とは、一言で言ったらどんなやつだというと、非常にたぎった時代ですから、たぎった人間を出します。平和な時代では想像できない人間を出す。


ここで高杉晋作の話が登場する。

高杉は将軍(徳川家茂)を暗殺してやろうと思ったんです。何も将軍は大物でないですから、暗殺する必要はないんです。しかし、将軍が暗殺されるという政治的効果を、この革命の天才は思ったんですね。将軍が暗殺されるとなれば、いままで大変なものだと思っていた徳川幕府が、何だこの程度だったのかということになる。時代の風潮がいっぺんに変わる。

 司馬遼太郎全講演 (1) (朝日文庫)
 司馬遼太郎
 朝日新聞社

さすがは革命の天才、これは五條代官所を襲撃した天誅組と同じ発想である。高杉が京都・二条城近くの下宿で仲間と暗殺計画の相談をしていたとき、1人の浪士(浪人の志士)がやってくる。

その浪士に、「将軍の暗殺は、自分たち長州藩の人間でやるので、他藩の人間の力は借りません」と、木で鼻をくくるようにして断った。そしたらその浪士は、別の場所で怒っちゃったんですね。自分を臆病者だと思ったのかと。「臆病者でない証拠を見せてやる」と言って、軒下で立腹切って死んじゃった。考えられないことじゃないですか。死んだらそれでおしまいだのに(笑)。これで実証はされたわけです(笑)。だいたいその種類の人間が、京都で走り回っておるわけです。

これはびっくり仰天であるが、ほんの150年ほど前の日本の話なのである。この講演の趣旨は、幕末には《芸術がほとんどなかったことと、宗教が全くなかった》ということである。締めの言葉は《「ない」ということからだけでも、いろんな具合で観察ができる。おもしろいものの考え方ができる。そういうことぐらいが今日の結論でしょうか》。

おかげさまで、天誅組を見る目が少し変わった。司馬遼太郎さん、有難うございました。
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