tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

十市城跡に大和武士・十市遠忠をしのぶ/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第40回

2017年10月31日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」が毎週木曜日、毎日新聞奈良版に連載している「ディスカバー!奈良」、先週(10/26)掲載されたのは「大和武士(やまとさむらい)の十市(とおいちorとおち)氏 橿原市の十市城跡」、執筆されたのは広陵町出身・在住で、同会理事の大山恵功(よしのり)さんだ。
※トップ写真は「十市城之跡」石碑(橿原市十市町)

十市遠忠(とおただ)を代表格とする十市氏は、橿原市十市町(奈良県運転免許センターの北東側)に十市城を築き、その勢力を誇っていた。十市氏は、南北朝時代に興福寺大乗院方の国民(いわゆる大和武士)として歴史に登場する。山と渓谷社刊『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』によると、

南北朝の合体が実現すると、興福寺の一国支配が再現したが、動乱期以降在地の有力武士たちの領主化が進み、彼らは興福寺領を含む寺社領を侵食するとともに、党を形成し「私合戦」をくり返すようになった。北大和では筒井・古市・箸尾氏ら、中南和では越智(おち)・十市・楢原氏ら、宇陀では「宇陀三将」と呼ばれた秋山・沢・芳野(ほうの)氏が、それぞれ勢力を伸ばすようになった…。


十市御県坐神社(橿原市十市町)にある「十市遠忠歌碑」

大和武士の名残は、今も「春日若宮おん祭」でうかがい知ることができる。では、記事全文を引用する。

大和武士の十市氏 橿原市の十市城跡
戦国時代、十市(とおいち)城(橿原市)を居城として活躍した十市氏をご存じですか。奈良市周辺の古市氏、大和郡山市周辺の筒井氏、広陵町周辺の箸尾(はしお)氏、高取町周辺の越智(おち)氏と並ぶ大和武士の五強の一つと言われた武士集団です。

十市城は東西約550㍍、南北約430㍍の平城で、ポルトガル人宣教師フロイス(1532~97)の書いた歴史書『日本史』にも登場し、発掘調査では中国製の白磁碗、青磁碗などが出土しています。

十市遠忠(とおただ)(1497~1545)の時代に最盛期を迎え、壮大な山城龍王山(りゅうおうざん)城(天理市)を整備し、現在の橿原市や田原本町、天理市、桜井市の一部地域まで支配したとされています。

また、文武両道に優れ、和歌にも精通し、十市御県坐(とおいちのみあがたにいます)神社に彼の歌碑が建てられています。十市城跡を訪れ、十市氏が活躍していた時代に思いをはせるのはいかがですか。

メモ 十市城跡へは近鉄大和八木駅北口よりバス(耳成循環)で大門橋下車、北西へ徒歩約10分、または近鉄新ノ口駅から北東へ徒歩約20分。バスの本数が少ないのでご注意下さい(奈良まほろばソムリエの会理事 大山恵功)。


「御県坐(みあがたにいます)神社」とは、朝廷に献上するための野菜などを栽培する「神聖な菜園の霊」を神として祀る神社のことで、以前、県下の御県坐神社のすべてを巡拝するバスツアーを実施したこともある。そのとき十市御県坐神社も訪ねたが、「十市遠忠歌碑」には気がつかなかったので、もういちどお参りしたいと思う。

大山さん、貴重な情報をありがとうございました!
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御所まち霜月祭2017(奈良県御所市)/11月12日(日)に開催!

2017年10月30日 | お知らせ

毎年11月の第2日曜日に開催される「御所(ごせ)まち霜月祭(そうげつさい)」、19回目の今年は11月12日(日)、御所市のむかし町「御所まち」一帯で開催される。市のHPによると、

御所まち霜月祭
一年に一度の御所まち霜月祭にぜひお越しください!
御所まちがにぎわう季節がやってきました

毎年11月の第2日曜日は、御所まち一帯で「御所まち霜月祭」が行われます。平成11年から始まった御所まち霜月祭、今年は11月12日(日)に行われ、第19回目の開催を迎えます!

江戸時代より栄えた由緒ある町家が今に残る御所まち。年に一度の町家特別公開を行い、蔵シックコンサートや町家茶屋、街かどギャラリーなどさまざまな催し物が行われます。御所のおもてなしの心に触れてみてはいかがですか。ぜひ11月12日(日)は御所まちにお越しください!
☆詳しい内容はパンフレット(PDF)をご覧ください。

日時:平成29年11月12日(日)10時から17時まで
場所:御所まち一帯
料金:無料(食事等は有料)
※当日は公共交通機関を使ってお越しください。
問い合わせ先
 霜月祭実行委員会 0745-65-1201/御所市企画政策課 0745-62-3001


普段は非公開の町家10軒が、この日だけはお家の中まで拝見することができる(29軒は、玄関先まで入れていただける)。御所御坊として知られる円照寺は、本堂と対面所を無料で拝観できる。モリソン万年筆創業者のお宅(谷川邸)では、万年筆のコレクションの鑑賞と、お座敷でのティータイムを楽しむことができる。奈良県薬事研究センターでは、普段は非公開の薬草園が公開される。お休み処も6ヵ所。緑の腕章と柿色の旗を持ったガイドさん(NPO法人「ごせまちネットワーク・創」)には、御所まちを案内していただける。

御所まちへは、JR・近鉄御所駅から徒歩でスグ。皆さん、ぜひ11月12日(日)は御所まちをお訪ねください!

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奈良ものろーぐ(18)大和川の舟運を担った「魚梁船(やなぶね)」

2017年10月29日 | 奈良ものろーぐ(奈良日日新聞)
毎月第4金曜日、奈良日日新聞に連載している「奈良ものろーぐ」、先月(9/22)掲載されたのは「大和の魚梁船 江戸期、大和川の舟運(しゅううん)担う」だった。この魚梁船、『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』に登場する。「奈良の歴史」の「近世 商業と観光の時代へ」のところである。引用すると、

商品生産の進展に対応して、郡山城下や奈良をはじめ、「大和の金(かね)は今井に七分(しちぶ)」とまでいわれた今井などの町場は、商品流通のターミナルとしての役割を、また、大和川の舟運(河内側の剣先船[けんさきぶね]と大和側の魚梁船[やなぶね])は、大坂と大和とを結ぶ物資輸送の大動脈としての役割を、それぞれ担うようになった。

大坂側の「剣先船」のイメージはだいたい分かる。剣の先のようにスリムで先の尖った舟だったのだろう。しかし大和側の「魚梁船」が分からない。魚梁とは、川魚を獲るためのスノコ状の台(仕掛け)のことだが、そんな四角い舟だったのだろうか、またはどこかにスノコのついた舟だったとか? 奈良検定を受験している同僚たちに聞いても、魚梁船の形は誰も知らない。公式テキストの同ページには郡山城のお堀と櫓の写真が出ていて「郡山城なんか皆知っているのだから、むしろ魚梁船の写真を載せるべきだろう」と、ずっと思っていた。

今年の7月、王寺町学芸員の岡島永昌さんから、ご自身が執筆された論文『民家壁板による大和魚梁船の船体復元』(由良大和古代文化研究協会「研究紀要」第21集)をいただいた。使われなくなった魚梁船の木材(船材)が民家の壁板などに使われている、という興味深いお話だった。その岡島さんに「どこかに魚梁船の復元模型はありませんか?」とお聞きして、河合町中央公民館に精巧な1/10模型があることを教えていただいたのである。前置きが長くなった。以下、記事全文を紹介する。

大和の魚梁船 江戸期、大和川の舟運担う
奈良盆地の住民に親しまれている大和川。「奈良県北部を西流する川。桜井市初瀬の北方に源を発して初瀬(はせ)川とよばれ、奈良盆地で佐保川と合流、金剛・生駒両山地の間を通って、大阪・堺両市の境で大阪湾に注ぐ。長さ67キロ」(『デジタル大辞泉』)という川だ。江戸時代、大和川の舟運は物資輸送の大動脈としての役割を果たした。河内側では剣先船(けんさきぶね)、大和側では魚梁船(やなぶね)が物資を運んだ。

大和と河内の間には、亀の瀬という峡谷がある。『古今和歌集』の「千早ぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」(在原業平)の龍田川は、亀の瀬付近の大和川のこととされる。紅葉や桜の名所として知られるが、交通の難所だった。岩盤が露出しているため、舟が進めないのだ。大坂からの剣先船はここで荷をおろし、人夫がかついで小型の魚梁船に積み替えていた。

この舟運は「1610(慶長15)年に、竜田藩主片桐且元が龍田大社の神人であった安村喜右衛門信安に命じて始めさせたものであり、大和から河内へ河内から大和へ物資が運ばれた」(奈良地理学会編『大和を歩く』)。大坂からは塩、干鰯、油粕などが、大和からは米や木綿などが運ばれた。魚梁船は、初瀬川筋では嘉幡(天理市)、寺川は今里(田原本町)、佐保川は筒井(大和郡山市)、曽我川は松本(田原本町)までさかのぼり、関西鉄道が1892(明治25)年に開通するまで続いた。
 
しかしこの魚梁船や剣先船、どんな形の舟だったのか、知る人は少ない。柏原市立歴史資料館制作の『亀の瀬の歴史』が魚梁船について詳しく紹介していた。平成26年、柏原市、王寺町、三郷町などが主催して同館で開催した企画展の資料だ。



そこには『大和名所図会』に描かれた魚梁船の絵が掲載され、長さ約14.7m、幅約1.5mと出ている。つまり縦横比は約10対1。同じ資料に載る剣先船(『河内名所図会』)が長さ約17.6m、幅約1.9mとあるので11対1と、サイズは剣先船がひと回り大きいものの、スタイルは魚梁船とほぼ同じで、どちらも新幹線「のぞみ」型の流線型だったのだ。

冊子によると魚梁船の名は、龍田本宮の滝祭(たきまつり)に供える魚をとる場所「魚梁」にちなむという。その魚梁船の復元模型が河合町中央公民館に展示されていると聞き、吉村公男氏(同町教育委員会生涯学習課)を訪ねた。もと赤穂市選定保存技術保持者(和船健蔵の技術)の故湊隆司氏が制作されたものだ。それが写真の船で、一般の渡し船に比べ、ずいぶん細長いことが分かる。

王寺町学芸員の岡島永昌氏は『民家壁板による大和魚梁船の船体復元』(由良大和古代文化研究協会「研究紀要」第21集所収)という報告書をまとめられた。魚梁船の現物は一艘も残っていないが、船材が民家の壁板などに転用され、三郷町などに残っているという。写真を見ると船釘などがそのまま残り、これは興味深い。老朽化して建て替えられる前に見ておかないと…。


写真を撮るため、河合町中央公民館に吉村公男さんを訪ねた。魚梁船の模型はガラスケースに入り、何ヵ所かを紐で縛られて台に載せられていた。ガラスが外れやすいので紐で留めているようだが、これでは写真にならない。吉村さんはじめ公民館の職員さんたちは、わざわざ台から下ろし、紐を解いてケースから模型を取り出してくださった。おかげで四方八方から模型の写真を撮ることができた。

吉村さん、公民館職員の皆さん、ありがとうございました。おかげさまで魚梁船がシッカリとイメージできました。奈良検定を受験する皆さん、よくご覧になってください!

※奈良日日新聞のご購読お申し込みは、こちらから。

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なもで踊りは、雨乞いのお礼(安堵町・飽波神社)/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第39回

2017年10月28日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」が毎週木曜日に連載している「ディスカバー!奈良」、先週(10/19)掲載されたのは「雨乞い御礼のなもで踊り 安堵町の飽波(あくなみ)神社」、筆者は同町出身・在住の西川誠さんである。
※上の3枚の写真は私の撮影(2014.10.25)、他は西川さん


よく見ると、踊っているのは女性ばかりだった

「なもで」は漢字だと「南無手」と書き、「南無阿弥陀仏」が訛った(ナムデー)のだとされる。念仏踊りの一種なのだろう。なお『デジタル大辞泉』によると念仏踊りとは、

太鼓・鉦(かね)などを打ち鳴らし、節をつけて念仏や和讚(わさん)を唱えながら踊ること。また、その踊り。空也上人が始め、鎌倉時代に一遍上人によって広められたものという。のち芸能化して、近世初期には女歌舞伎にも取り入れられた。空也念仏。踊り念仏。



なもで踊りと名のつく踊りは飽波神社以外でも奉納されている。例えば天理市だと(『日本歴史地名大系』の「布留郷」)、

安政2年(1855)の雨乞願満役割帳(園原区有文書)によると、満願の時には郷中による南無手(なもで)踊があり、川原城村大鳥居、神田(こうだ)神社(三島町)、良因寺(布留町)、布留大橋・布留社頭など12ヵ所で踊られている。この踊は腹中に布留社神剣をもっていた八岐大蛇のとむらいのため始まったと伝え、双太鼓・12人の腹太鼓・平太鼓が拍子をとり、囃馬が口々に南無阿弥陀仏を唱えるものであった。

岡山県倉敷市下津井にもある(「日本歴史地名大系」の「下津井村」)。

「念仏踊。下津井村に在り。毎年7月15日、村中男女打交り、太鼓を打て念仏を唱へ、城山へよぢ登り、南無阿弥陀仏をなもでなもでと略する故に、なもで踊といふ」とあり、「東備郡村志」にも「其始ル暦数不知」として同様の記述をし、源平合戦の亡卒を祭る意であろうかとする。今日では「ナーモーデン」と唱えるなど、姿を変えながらも上町・片原(かたはら)・杓井戸(しゃくいど)の三地区で行われ、県下でも稀有といわれる。



前置きが長くなった。では西川さんの記事全文を紹介する。

雨乞い御礼のなもで踊り 安堵町の飽波神社
「なもで踊り」をご存じない方も多いでしょう。その昔、奈良盆地の農家にとって、水不足は深刻な問題でした。雨が欲しくても頼むところは神仏しかありません。安堵では雨乞いの「いさめ踊り」を総社の飽波神社に奉納し、雨が降れば「なもで踊り」を御礼奉納していました。



神社境内の「腰掛の石」で迎えてくれる聖徳太子のかかし

明治時代には廃れてしまいましたが、飽波神社に残されていた絵馬をはじめ、歌詞本や衣装、楽器などを手掛かりに、安堵町商工会が中心となって1995年、約100年ぶりに伝統的民俗芸能を復活させました。今年も10月21日午後3時半ごろから、飽波神社前で披露されます。「テーンツクツ、テンツクツ」とのんびりした節回しと感謝の踊り。神様も喜んで下さるでしょう。

メモ JR法隆寺駅からバスで「安堵町役場前」下車、徒歩約5分(奈良まほろばソムリエの会 西川誠)。


西川さん、興味深い記事をありがとうございました!

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奈良県ビジターズビューローと南都銀行が、連携協定を締結!/観光地奈良の勝ち残り戦略(116)

2017年10月27日 | 観光地奈良の勝ち残り戦略
昨日(10/26)、奈良県ビジターズビューローと南都銀行は「観光地域づくりに関する連携協定」を締結した。昨日の「ゆうドキッ!」(奈良テレビ放送)や今日の新聞各紙で報じられている。南都銀行のニュースリリース(PDF)によると、
※写真は全て10月26日に開催された記者会見の模様


記者会見が始まった

奈良県ビジターズビューローと「観光地域づくりに関する連携協定」を締結!
~奈良県の観光産業の活性化に貢献してまいります~


南都銀行(頭取 橋本 隆史)は、10月26日、一般財団法人奈良県ビジターズビューロー(理事長 荒井 正吾氏)との間で「観光地域づくりに関する協定書」を締結しました。この協定は、当行と奈良県ビジターズビューローが各々の持ち得る知的・人的資源を有効に活用し、相互に幅広く連携・協力をすることにより、奈良県の観光産業の活性化に対する諸課題に取組むことで、新たな地域活力の創出に寄与することを目的としています。



右端は、県の森田観光局長

当行は本年10月1日に公務・地域活力創造部内に「観光戦略室」を設置し、奈良県における「稼ぐ観光」の確立に貢献するとともに、当行においても観光振興を通じて新たなビジネスモデルを確立し、地域活力の創出を目指しています。本締結を契機に、金融機関としての知見とネットワークをもって、これからの成長基盤である観光振興の発展に貢献してまいります。なお、協定の内容は以下のとおりです。


南都銀行公務・地域活力創造部の中南部長と木村副部長(観光戦略室長=左端)

●連携事項
(1) DMO(※)の形成支援に関すること
(2) 観光資源化に向けた地域資源の発掘とブラッシュアップに資すること
(3) 地域の観光の担い手に対する多様な資金提供に資すること
(4) 観光地域づくりを実現するための戦略策定に関すること
(5) 奈良県内における観光の担い手となる事業者の創業支援や育成に資すること
(6) 奈良県内の周遊・滞在型観光地域づくりに関すること
(7) その他、奈良県の観光産業の活性化に資すること

※DMO…Destination Management/Marketing Organization の略 周遊・滞在型観光地域づくり推進に関する組織

●協定期間
平成29年10月26日(協定締結日)より発効し、平成30年3月31日迄(以後1年毎の自動更新)




記者会見には7社の報道機関が出席し、知事や頭取に対し、活発な質疑応答が行われた(予定終了時刻を15分以上オーバー)。

橋本頭取は「インバウンドなどの観光客に対して観光地としての魅力を伝えるためには、従来の観光スポットだけに頼るのではなく、地域の製造業、農林業、医療や地域住民などを巻き込み、地域全体で取り組んでいくことが大切。地域金融機関である当行は、様々な業種、産業の事業者さまとお取引いただいており、その幅広いネットワークを生かして、観光産業を奈良県の総合産業としてとらえ、育てていきたい」と語った。

この協定に基づき、南都銀行は中堅行員を1名、同ビューローにトレーニー(研修生)として派遣することや、来年3月に県下の酒蔵を巡る「連携バスツアー」を催行することなどを企画している。



国内の観光産業は訪日外国人観光客の増加で活況を呈しているように見えるが、実はバブル崩壊後20年以上もの間、国内旅行の市場規模は大幅に縮小している。国民1人あたりの宿泊数・消費額とも、90年代初頭をピークに減少を続けている。他の娯楽産業と比べても、落ち込み方は突出しており、これは景気のせいだけではない。

奈良県においても中国、台湾、韓国などからの訪日外国人観光客は増えているが、宿泊してくれるのはわずか18%。「奈良は東大寺や奈良公園に行って、鹿にせんべいをあげて40分の観光地」だと揶揄されている。そこで県と南都銀行が立ち上がった、というわけだ。

県と南都銀行はガッチリと手を組み、奈良県観光を大いに盛り上げてまいります!
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