tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師の『霊山へ行こう』(8)ご利益を求めたって、いいじゃないか!

2023年02月28日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は以前、『霊山へ行こう』という対談本を準備されながら、上梓されなかった。利典師はその原稿(自らの発言)に大幅に加筆され、Facebookに17回にわたり連載された(2023.1.21~2.10)。心に響く良いお話ばかりなので、当ブログでも紹介させていただいている。
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)

第8回のタイトルは「困った時の神頼み」。日本人の「信仰」については、「一神教のように、単独の神に対して絶対的な帰依をするのが信仰で、それ以外は違う」とか、「日本人の信仰は、ご利益信仰に過ぎない」とか言う人がいるが、師はズバリ「両方とも違う」。詳しくは以下の文章(Facebook 1/29付)をお読みいただきたい。

シリーズ「山人vs楽女/困った時の神頼み」⑧
著作振り返りシリーズの第6段は、実は校了まで行きながら、諸般の事情で上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。もう20年近く前のことですけど、内容はなかなか面白い。みなさまのご感想をお待ちしております。

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「困った時の神頼み」
人って愚かなもんですよね。愚かなものなのに、諦めないで見ていてくださいるのが神仏の慈悲なのかなと思いますね。「それはおまえさんが自分で勝手に思っているだけだ」という意見もあるでしょうが、そういう意見などは近代合理主義の災いなんだと思います。何でも自分の論理で考える。

藤原さんの『国家の品格』で「論理には論理の始まりがある。その始まりを間違えば後の論理がいくら正しくても、間違いなんだ」と言っておられます。つまり論理には始まりがあるわけで、論理で考えるというのは実はその始まりを定めるのが極めて難しいのです。そこを「情と形で考える」っていうのは面白いし、日本人には大事なのです。まあ、それって実生活の中ではなかなかわかりにくい話なのですけれどね。

山の修行は論理を超えます。というかね、どっかで超えないと満行できないです。どんなに身体が丈夫な人でも同じなんです。奥駈に行く人はいろんな人がいます。千差万別ですが、それぞれに論理を打ち破る体験をさせてもらって満行するから感激があるわけです。そういう意味では山の修行というのは私はとても親切な修行だと思います。

もちろんもし事故したらどうしようかなどと考えると、ホント連れて行けないですよ。だって、事故したら死ぬようなところがいっぱいですからねえ。今までも何度か、事故はありました。でもまだ死んだという話は聞いていないですね。

バッと落ちた時に、たまたまそこに木があって、その上に乗っかって助かったりね。普通だったら谷底まで墜落ですよ。そんな話は行中何度も経験しました。でも、そんな危険と背中合わせの中でも、なんとか満行できるのは、おのれの力だけではないのですよ。

密教では「三力加持」って教えがあります。「三力」とは「如来加持力、行者加被力、衆生法界力」の三つです。自分の力で歩くのですけど、自分の力(行者加被力)だけではなくて、皆の力(衆生法界力)で歩かしてもらっている、それからなにより仏のご守護(如来加持力)です。それを修行は実感させてくれますね。

なにか信仰をするというと、一神教のような一つの神に対して絶対的な帰依をするのが信仰で、それ以外は違うみたいな話が現代は蔓延してます。もうひとつは仏教評論家のひろさちやさんなんかがいっておられるのですが、日本の信仰はご利益信仰だ、と否定的に語る。私は両方とも違うと思っています。

日本人は一つの神に帰依するのでなくて、常に自分の側に神仏を置いている。それはご利益信仰でもいいわけです。困ったことがあっても神頼みもしない、っていうよりはいい。常に自分を超えたものを意識するというか、そういう状態が日本人の信仰心のありようで、それは決して悪い情や形ではないと思う。ややもするといまは、一神教的な宗教以外の、ご利益宗教はダメだみたいなところがあるでしょう。

逆に言うと修験的なものは陋習(ろうしゅう)であって、迷信であるからダメだといって排斥されてきた。これはもうそろそろ気がついかないといけません。悪口ではないのですが、大学で仏教を勉強するということは、そういう合理主義的な思考で宗教を考える。

いまの仏教学は近代原理主義に嵌(はま)っていて、一神教的な価値観のもとにある。お葬式をしているにもかかわらず、霊魂は存在しないみたいなことを平気でいうお坊主さんが生まれたのもそのせいです。

でも霊魂が存在しないのなら、お坊さん呼んで葬式しなくてもいいわけでしょう。そんな自分たちの首を絞めるようなことを平気で言うんです。おかしなことですよ。

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昨年から統一教会の問題が世上に登って、宗教自体が怪しい行為のようにマスメディアは伝えている。マスク真理教(笑)と並ぶ、マスコミ病の蔓延である。こんなときこそ、「困った時の神頼み」っていいじゃない、って宣言するのも大事だと、私は思いますが・・・。もちろん、突っ込みどころ満載の意見です。誰かに叱られそうだなあ(😣)
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NAOKIさんが、写真展の資金1,000,000円をクラウドファンディングで募集中!

2023年02月27日 | お知らせ
田原本町出身の写真家・NAOKIさんのことは以前、当ブログでも紹介させていただいた。
※4点の写真は、すべてreadyforのサイトから拝借した

このたびNAOKIさんは、當麻寺(葛城市當麻)で開催する写真展の資金1,000,000円を、クラウドファンディングで調達されることになった。詳細は、readyforのサイトに掲載されている。ご支援も、上記サイトから入る。本件趣旨などは、以下に抜粋しておいた。ぜひ温かいご支援をお願いいたします!



自己紹介
私、写真家NAOKIは、主にファッション写真を中心に活動しています。もともとは画家を志してアメリカのサンフランシスコ アート インスティテュートでファインアートを学ぶが、ドキュメンタリーフォトグラフィーの授業を受けたことをきっかけに、本格的に写真を勉強するためにアートセンター カレッジ オブ デザインに再入学する。

その後、ミラノ・ロンドンでファッションフォトグラファーとして活躍後、日本に帰国。Oggi,Domani,SPUR,FIGAROなどの女性ファッション雑誌創刊に携わるとともに、モデル発掘、スタイリスト・ヘアメイクのディレクション、アートプロジェクトのプロデュースなどを行う。

日本で数少ない本格的なファッションフォトグラファーとして数々のファッション誌、広告で活躍。自らが写真家として活躍する一方、写真家、ヘア・メイク、モデルをマネージメントするコマーシャルレップの「face to face」を東京に設立。




祈りの写真展
以前から、ファッション撮影の合間に、祈る姿のモデルを撮ることがありました。祈りの写真は、全て、祈りポーズをしています。美しいファッション写真家として、30年以上、世界中のモデルを撮影してきて、シンプルな祈りのポーズにこそ、美しさが存在すると考えます。祈る姿にこそ、人間本来の美しさが現れています。

昨年、ウクライナで起きた戦争をきっかけに、写真家として、何をすべきか考えた時に、真っ先に、浮かんだのは、子どもの姿でした。そして、この言葉と共に、新宿高島屋で祈りの写真展を開催しました。

大人は、子供を幸せにする義務があり、子供は、幸せに生きる権利がある。アートは、ただひとつの、人間の救いです。

新宿高島屋で祈りの写真展を開催中、何人かの人が涙ぐんでいるのを目にしました。改めて、オリジナルプリントの持つ美しさと、それが、祈りのポーズと共に人の心を打つことを確信しました。この写真展をきっかけに、祈りの写真の輪を広げたいと思う人達が集まり、DSN(daylight studio nakameguro)実行委員会が出来ました。

そして新宿高島屋をきっかけに、奈良の達磨寺、東大寺、西大寺、奈良国立教育大等でも、祈りの写真展を開催しました。又、地元の幼稚園児を中心に多くの子供達も見学に来て頂きました。奈良国立教育大では、幼稚園児から大学生までのワークショップも行いました。

たくさんの展示会と、そこでの出会いに恵まれ、今年も當麻寺からスタートして、既に、京都の金戒光明寺、奈良の中宮寺での開催も決まっています。



プロジェクトを立ち上げたきっかけ
祈りの写真展を通して、多くの人達の賛同、支持を得ることが出来、2023年は、4月16日から23日、當麻寺の展示会に向けて準備しています。これまで祈りの写真展は無料で開催して来ました。當麻寺でも無料で展示しますが、それに係る費用をクラウドファウンディングで集めたいと考えています。

DSN(daylight studio nakameguro)実行委員会が、最初のクラウドファウンディングを企画しましたが、目標金額に達することが出来ず、支援者、友人から、NAOKI本人が中心と見える形が望ましいとのアドバイスを受け、新たに、當麻寺のクラウドファウンディングをスタートすることを決めました。


奈良新聞「明風清音」(2022.9.29付)

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田中利典師の『霊山へ行こう』(7)仏の物差し、凡夫の物差し

2023年02月26日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は20年近く前、『霊山へ行こう』という対談本を準備されながら、上梓されなかった。利典師はその原稿(自らの発言)に大幅に加筆され、Facebookに17回にわたり連載された(2023.1.21~2.10)。心に響く良いお話ばかりなので、当ブログでも紹介させていただくことにした。
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)

第7回のタイトルは「途方にくれない御利益」。東京から初めて大峯奥駈の山修行に来られたサラリーマンがいて、行の途中で足の裏の皮がぺろりと剥がれた。その苦痛に耐えながらも、満行(達成)することができた。しかし東京に戻ると、会社が倒産していた…。この人は、その冷厳な現実をどうとらえたか。ぜひ全文(1/28付)をお読みください。

シリーズ「山人vs楽女/途方にくれない御利益」⑦
著作振り返りシリーズの第6弾は、実は校了まで行きながら、諸般の事情で上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。もう20年近く前のことですけど、内容はなかなか面白い。みなさまのご感想をお待ちしております。

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「途方にくれない御利益」
東京から来た行者さんで、新客(初めて修行に来た人のこと)の時かな。奥駈行っていうのはものすごくハードなんです。一日に多い時二十四キロ、だいたい十三時間ぐらいで歩きます。その彼ですが、なれない山修行ということもあって、行の途中でべろりと足の裏をはがしてしまったんです。それでも泣きながら痛さに耐えて歩いてました。

で、どうにか10日間、歩き通して、終着地の熊野本宮大社で満行して、ものすごくうれしい気持ちを持ったまま、家に帰ったら、なんと勤めていた会社が倒産していたんです。

それでもね、満行できたことの方がうれしくて、無職になったことなどなんでもなかったそうです。ご利益ってそういうもので、修行してて会社が潰れてたら、普通の理屈で言うと、なんのご利益もなかったじゃないかということになる。

ところが行をして、ご利益をいただいたから会社が潰れても、なんにも途方に暮れなかったと彼は語るのですね。彼はサラリーマンで雇われの身だったのですが、途方にくれないというのはこれはもうご利益ですよね。

どうしても私たちは自分の物差し、いわゆる凡夫の物差しでものをみるのですけれど、ご利益というのは仏の物差しでみないと実のところはほんとうのことが見えないんです。自分の都合勝手で思っていたのでは何も見えてこない。

でも、仏様神様の思し召しと思えば、すべてのことがご利益になりますわね。大難を小難にって思うのも、なにか悪いことがあっても仏様がそうなさったと思うと、これぐらいですんだという話になります。

常に私たちというのは自分の都合、自分たちの理屈でものを考えている。いわゆる西洋的な近代合理主義ででものを考えている。これを取りのぞかない限り、何も見えてこない。途方にくれない御利益とはそういうものだと思います。

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山の修行ではいろんなことを教えて貰います。もう昔のように山を駆けたりできませんが、若い時に行っておいてよかったと思います。山で行じ、山に学ぶのが修験の醍醐味です。そして、誰でも、それなりになにかを体と心で学べます。
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残席わずか!「東大寺 修二会の声明」大阪フェスティバルホールで5月13日(土)14時 開演!(2023 Topic)

2023年02月25日 | お知らせ
東大寺を開いた良弁(ろうべん)僧正の1250年忌を記念して、フェスティバルホール(大阪市北区中之島2-3-18)で、5月13日(土)14時から特別公演「東大寺 修二会(しゅにえ)の声明(しょうみょう)」が上演される。詳細はチラシをご覧いただきたい。寺外で開催されるのは14年ぶり、大阪では初の開催となる。

チケットは、同ホールのサイトから購入できる。すでに残席はわずかとなっている。なお東京では国立劇場で、5月20日(土)に上演される(東京公演の予約は、4/18開始)。ぜひお申し込みください!



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田中利典師の『霊山へ行こう』(6)祈祷で得られるものがある

2023年02月24日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は20年近く前、『霊山へ行こう』という対談本を準備されながら、上梓されなかった。利典師はその原稿(自らの発言)に加除修正され、Facebookに17回にわたり連載された(2023.1.21~2.10)。心に響く良いお話ばかりなので、当ブログでも紹介させていただくことにした。
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)

第6回のタイトルは「祈祷師はいらっしゃいませんか」。新幹線の中などで、たまに「身体の具合の悪い方がでました。お客様の中でお医者さんか看護師の方はいらっしゃいませんか?」というアナウンスを耳にすることがある。しかし「祈祷師はいらっしゃいませんか」というアナウンスは、聞いたことがない。師は「病気になって祈祷師をよぶことって、そんなに馬鹿に出来ることではない」とお書きである。

祈祷をしてもらうことで、精神的に癒やされるし、何より「誰かから応援されているのだ」という安心感が得られる。やはり「祈祷師をよぶことって、そんなに馬鹿に出来ることではない」のである。では、師のFacebook(1/26付)から全文を抜粋する。

シリーズ「山人vs楽女/祈祷師はいらっしゃいませんか」⑥ 
著作振り返りシリーズの第6弾は、実は校了まで行きながら、上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。もう20年近く前のことですけど、内容はなかなか面白い。みなさまのご感想をお待ちしております。

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「祈祷師はいらっしゃいませんか」
この間新幹線に乗っていましてね。これはたまにあることなのですが、走行中に放送が入ります。「只今〇号車のデッキで身体の具合の悪い方がでました。お客様の中でお医者さんか看護師の方はいらっしゃいませんか?」っていうアナウンスがあるでしょ。

あれを漫然と聞いてて、ふと、「この列車の中で祈祷師の方はいらっしゃいませんか」なんていう放送は絶対に入らないな、と思ったんです。

実はね、お医者さんがその現場に呼ばれて、たとえば腹膜炎だってわかっても、何ともできないでしょ。電車の中で鎮痛剤の注射や、手術ができるわけでもない。でも祈祷師だったら、「エイ、ヤ」って祈祷して、腹膜炎を抑えたり治したりできるわけでしょ。いまはそういう発想ってないんですよ。

ところが近代以前の社会では祈祷師が呼ばれて病気を治すんですね。あるいは今でもアフリカや途上国の中ではそんなふうにやってるところってあるはずですよね。

でももし、今の日本でそういうことを真顔で言ったり、行ったりしたらそうとうバカにされるわけですよ。でも、そんなにバカにしたものなのでしょうか。私って、人間の根っこのところは、まだまだそういう世界を残しているのではないかと思っています。

第一、人間が極め得た世界なんていうのは森羅万象のうちのわずか数パーセントでしかない。ほとんどは証明もされていない未知の世界なのです。人間の脳や体、あるいは生命そのものの営みについてさえ、なんら究明されていない。

まして、地球のこと、宇宙のこと、ほとんどがわからないことばかりなのですから、病気になって祈祷師をよぶことって、そんなに馬鹿に出来ることではないと私は思っています。

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近頃、量子力学や量子物理学の世界が注目をされて、今までのニュートン力学やデカルトの二元論のロジックが見直されつつあるというお話を面白いと思って勉強していて、いろんなところでエビデンスがあるとされることへの疑義を申し立ててます。

で、もう20年も前から、同じようなことを言ってたんだと読み返して、我ながら驚いてます。そういえば先日観たアバター2でも、現代医療を押しのけて、祈祷師が病気を治していましたね。
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