金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は以前、『霊山へ行こう』という対談本を準備されながら、上梓されなかった。利典師はその原稿(自らの発言)に大幅に加筆され、Facebookに17回にわたり連載された(2023.1.21~2.10)。心に響く良いお話ばかりなので、当ブログでも紹介させていただいている。
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)
第8回のタイトルは「困った時の神頼み」。日本人の「信仰」については、「一神教のように、単独の神に対して絶対的な帰依をするのが信仰で、それ以外は違う」とか、「日本人の信仰は、ご利益信仰に過ぎない」とか言う人がいるが、師はズバリ「両方とも違う」。詳しくは以下の文章(Facebook 1/29付)をお読みいただきたい。
シリーズ「山人vs楽女/困った時の神頼み」⑧
著作振り返りシリーズの第6段は、実は校了まで行きながら、諸般の事情で上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。もう20年近く前のことですけど、内容はなかなか面白い。みなさまのご感想をお待ちしております。
**************
「困った時の神頼み」
人って愚かなもんですよね。愚かなものなのに、諦めないで見ていてくださいるのが神仏の慈悲なのかなと思いますね。「それはおまえさんが自分で勝手に思っているだけだ」という意見もあるでしょうが、そういう意見などは近代合理主義の災いなんだと思います。何でも自分の論理で考える。
藤原さんの『国家の品格』で「論理には論理の始まりがある。その始まりを間違えば後の論理がいくら正しくても、間違いなんだ」と言っておられます。つまり論理には始まりがあるわけで、論理で考えるというのは実はその始まりを定めるのが極めて難しいのです。そこを「情と形で考える」っていうのは面白いし、日本人には大事なのです。まあ、それって実生活の中ではなかなかわかりにくい話なのですけれどね。
山の修行は論理を超えます。というかね、どっかで超えないと満行できないです。どんなに身体が丈夫な人でも同じなんです。奥駈に行く人はいろんな人がいます。千差万別ですが、それぞれに論理を打ち破る体験をさせてもらって満行するから感激があるわけです。そういう意味では山の修行というのは私はとても親切な修行だと思います。
もちろんもし事故したらどうしようかなどと考えると、ホント連れて行けないですよ。だって、事故したら死ぬようなところがいっぱいですからねえ。今までも何度か、事故はありました。でもまだ死んだという話は聞いていないですね。
バッと落ちた時に、たまたまそこに木があって、その上に乗っかって助かったりね。普通だったら谷底まで墜落ですよ。そんな話は行中何度も経験しました。でも、そんな危険と背中合わせの中でも、なんとか満行できるのは、おのれの力だけではないのですよ。
密教では「三力加持」って教えがあります。「三力」とは「如来加持力、行者加被力、衆生法界力」の三つです。自分の力で歩くのですけど、自分の力(行者加被力)だけではなくて、皆の力(衆生法界力)で歩かしてもらっている、それからなにより仏のご守護(如来加持力)です。それを修行は実感させてくれますね。
なにか信仰をするというと、一神教のような一つの神に対して絶対的な帰依をするのが信仰で、それ以外は違うみたいな話が現代は蔓延してます。もうひとつは仏教評論家のひろさちやさんなんかがいっておられるのですが、日本の信仰はご利益信仰だ、と否定的に語る。私は両方とも違うと思っています。
日本人は一つの神に帰依するのでなくて、常に自分の側に神仏を置いている。それはご利益信仰でもいいわけです。困ったことがあっても神頼みもしない、っていうよりはいい。常に自分を超えたものを意識するというか、そういう状態が日本人の信仰心のありようで、それは決して悪い情や形ではないと思う。ややもするといまは、一神教的な宗教以外の、ご利益宗教はダメだみたいなところがあるでしょう。
逆に言うと修験的なものは陋習(ろうしゅう)であって、迷信であるからダメだといって排斥されてきた。これはもうそろそろ気がついかないといけません。悪口ではないのですが、大学で仏教を勉強するということは、そういう合理主義的な思考で宗教を考える。
いまの仏教学は近代原理主義に嵌(はま)っていて、一神教的な価値観のもとにある。お葬式をしているにもかかわらず、霊魂は存在しないみたいなことを平気でいうお坊主さんが生まれたのもそのせいです。
でも霊魂が存在しないのなら、お坊さん呼んで葬式しなくてもいいわけでしょう。そんな自分たちの首を絞めるようなことを平気で言うんです。おかしなことですよ。
****************
昨年から統一教会の問題が世上に登って、宗教自体が怪しい行為のようにマスメディアは伝えている。マスク真理教(笑)と並ぶ、マスコミ病の蔓延である。こんなときこそ、「困った時の神頼み」っていいじゃない、って宣言するのも大事だと、私は思いますが・・・。もちろん、突っ込みどころ満載の意見です。誰かに叱られそうだなあ(😣)
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)
第8回のタイトルは「困った時の神頼み」。日本人の「信仰」については、「一神教のように、単独の神に対して絶対的な帰依をするのが信仰で、それ以外は違う」とか、「日本人の信仰は、ご利益信仰に過ぎない」とか言う人がいるが、師はズバリ「両方とも違う」。詳しくは以下の文章(Facebook 1/29付)をお読みいただきたい。
シリーズ「山人vs楽女/困った時の神頼み」⑧
著作振り返りシリーズの第6段は、実は校了まで行きながら、諸般の事情で上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。もう20年近く前のことですけど、内容はなかなか面白い。みなさまのご感想をお待ちしております。
**************
「困った時の神頼み」
人って愚かなもんですよね。愚かなものなのに、諦めないで見ていてくださいるのが神仏の慈悲なのかなと思いますね。「それはおまえさんが自分で勝手に思っているだけだ」という意見もあるでしょうが、そういう意見などは近代合理主義の災いなんだと思います。何でも自分の論理で考える。
藤原さんの『国家の品格』で「論理には論理の始まりがある。その始まりを間違えば後の論理がいくら正しくても、間違いなんだ」と言っておられます。つまり論理には始まりがあるわけで、論理で考えるというのは実はその始まりを定めるのが極めて難しいのです。そこを「情と形で考える」っていうのは面白いし、日本人には大事なのです。まあ、それって実生活の中ではなかなかわかりにくい話なのですけれどね。
山の修行は論理を超えます。というかね、どっかで超えないと満行できないです。どんなに身体が丈夫な人でも同じなんです。奥駈に行く人はいろんな人がいます。千差万別ですが、それぞれに論理を打ち破る体験をさせてもらって満行するから感激があるわけです。そういう意味では山の修行というのは私はとても親切な修行だと思います。
もちろんもし事故したらどうしようかなどと考えると、ホント連れて行けないですよ。だって、事故したら死ぬようなところがいっぱいですからねえ。今までも何度か、事故はありました。でもまだ死んだという話は聞いていないですね。
バッと落ちた時に、たまたまそこに木があって、その上に乗っかって助かったりね。普通だったら谷底まで墜落ですよ。そんな話は行中何度も経験しました。でも、そんな危険と背中合わせの中でも、なんとか満行できるのは、おのれの力だけではないのですよ。
密教では「三力加持」って教えがあります。「三力」とは「如来加持力、行者加被力、衆生法界力」の三つです。自分の力で歩くのですけど、自分の力(行者加被力)だけではなくて、皆の力(衆生法界力)で歩かしてもらっている、それからなにより仏のご守護(如来加持力)です。それを修行は実感させてくれますね。
なにか信仰をするというと、一神教のような一つの神に対して絶対的な帰依をするのが信仰で、それ以外は違うみたいな話が現代は蔓延してます。もうひとつは仏教評論家のひろさちやさんなんかがいっておられるのですが、日本の信仰はご利益信仰だ、と否定的に語る。私は両方とも違うと思っています。
日本人は一つの神に帰依するのでなくて、常に自分の側に神仏を置いている。それはご利益信仰でもいいわけです。困ったことがあっても神頼みもしない、っていうよりはいい。常に自分を超えたものを意識するというか、そういう状態が日本人の信仰心のありようで、それは決して悪い情や形ではないと思う。ややもするといまは、一神教的な宗教以外の、ご利益宗教はダメだみたいなところがあるでしょう。
逆に言うと修験的なものは陋習(ろうしゅう)であって、迷信であるからダメだといって排斥されてきた。これはもうそろそろ気がついかないといけません。悪口ではないのですが、大学で仏教を勉強するということは、そういう合理主義的な思考で宗教を考える。
いまの仏教学は近代原理主義に嵌(はま)っていて、一神教的な価値観のもとにある。お葬式をしているにもかかわらず、霊魂は存在しないみたいなことを平気でいうお坊主さんが生まれたのもそのせいです。
でも霊魂が存在しないのなら、お坊さん呼んで葬式しなくてもいいわけでしょう。そんな自分たちの首を絞めるようなことを平気で言うんです。おかしなことですよ。
****************
昨年から統一教会の問題が世上に登って、宗教自体が怪しい行為のようにマスメディアは伝えている。マスク真理教(笑)と並ぶ、マスコミ病の蔓延である。こんなときこそ、「困った時の神頼み」っていいじゃない、って宣言するのも大事だと、私は思いますが・・・。もちろん、突っ込みどころ満載の意見です。誰かに叱られそうだなあ(😣)