朝青龍が優勝した!!
迫力のある優勝決定戦であった。
白鵬もあっぱれ! 朝青龍もあっぱれ!
現代の巌流島の戦いは、終わった........。
別に朝青龍の熱烈なファンというわけではない。白鵬も好きだ。相撲は愛すべき競技である。魁皇は薄氷の勝ち越し。祝着至極というのは、このことだ。
さて、スポーツごときで兵法を語るなど、戯れ言と言われるかも知れないが、それも閑話休題と言うことでお読み頂けると嬉しい。
相撲道も兵法の一つである。兵法は戦いの道理を説いている。戦いである以上、その目指す道は、如何に勝つかと言うことであって、その間の作法・礼儀はその本筋ではないことは明らかである。真剣道であれば、負けた方が死ぬ。剣道では死ぬことはないが、戦いとは死ぬか生きるかの局面であることにその本質がある。
スポーツであってもその本質は変わらない。そこに兵法の極意がある。『武士道とは死ぬことを見つけたり』という言葉があるが、その本質を言い表している。武士とは戦士のことであり、戦いに於いては生死を外しては、考えられないからである。
相撲道と言っても、戦いであることには変わらない。本当に死ぬことはない道ではあるが、勝つか負けるかが、その本質的な問題であるから、それを生死と言い換えることが出来る。
ならばである。礼儀作法も平時に於いては重要なことであろうが、一旦、戦時に於いてはどうでも良いことである。所詮は、勝つか負けるかという本質に集約される。礼儀作法が重要視されるのは、平常心に於いて、心の鍛錬にそれが生きるという意味では、意味のない話ではない。それだけの話である。
昔、宮本武蔵(新免 武蔵)は、二天一流の兵法の書(五輪書ごりんのしょ)に於いて、兵法とは勝つことを見つけたり、と言うような意味のことを言っている。それは当然の事であると思われる。
戦いに於いては、常に勝つことを目指すべきである。その余のことは、一切関係がないと思えてこそ、勝つことが出来る。朝青龍は、千秋楽本割で、圧倒的な白鵬の立ち会いに完敗した。その寸刻前、時間いっぱいの仕切りで、集中力のとぎれた瞬間を投稿者は、見逃さなかった。仕切りの途中、ふと目をそらしたのである。
瞬間、これは負けると感じた。心の裡は、見えないから単なる勘と言えば勘である。案の定、2.4秒の速攻、白鵬の圧倒的完全勝利であった。朝青龍は茫然自失、為す術もなかった。これが勝負である。『しまった!』 そう、朝青龍の心の声を聴いた。
優勝決定戦は違った。
両者気合い充分、集中力全開、互いに引けは取らない構え。しかし、今度は、白鵬のにらみ合いの一瞬にたじろきを見逃さない。立ち会い2度手前仕切り、両者にらみ合い長丁場、先に目を逸らしたのは白鵬であった。嫌ったのである。
朝青龍の気迫は、それだけ凄みがあった。表情は能面のごとく、目は半眼にして感情を殺している。勝ちの欲も執念も捨て去った忘我の形相であった。それに比して、白鵬は一瞬にせよ優勝への希望が、脳裏をよぎったに違いない。結果への願望が一瞬でも生じると、その反対に失う事への不安が生じる。それが嫌いを生む。隙である。
おそらく、白鵬も無意識にそれを感じ、修正したであろう仕切りいっぱいの鋭い立ち会い。しかし、時は既に遅し、先手を取ったのは間違いなく朝青龍。頭をつけ前みつをとり、素早い揺さぶり、終始先手攻撃は朝青龍。白鵬の終始後手、守り。一度も白鵬に攻撃の機会を与えることなく、強引な下手ひねりで土俵に転がす結果と相成った。朝青龍の下手投げ勝利であった。
ガッツポーズ。またやっちゃった。ちょっと心配したが、そんなことはどうでも良い。勝負に完勝したのである。一度は完敗し、そして決定戦で完勝した。無欲の勝利である。これが兵法というものである。その思いがして、思わず膝を打ち、堪能した。
兵法とは、勝つことを見つけたり。今も昔も変わらない。
勝負事は、その一点に尽きる。それを現代はスポーツを通じて堪能している。それでいいのであって、その間の様々な事柄は、末節に尽きる。勝負の真実は其処にこそ在る。それが生きている間、大相撲であれ、何であれ人気を博すると思う。
その意味で、朝青龍は大相撲の救世主である。大切な存在である。行儀その他は、いろいろと批判も在ろう。それを言う評論家は、『角を撓(たわ)めて、牛を殺す』を地で行っている。朝青龍を殺してはならない。モンゴル人であろうが、日本人であろうがそんなことは関係がない。道は万国共通のものである。人間に国境はない。
たまたま、日本で花開いた相撲道であるなら、万国に開きそれを高める事が肝要だ。ベースボールがそうであるように、米国の誇りなら、相撲は日本の誇りとなる。
宮本武蔵は、60余度の真剣勝負に於いて、一度足りとて不覚を取らなかった。それは兵法に忠実だったからである。武芸の術に於いては、武蔵以上に勝れた者もいたはずである。しかし、武蔵は負けなかった。それは勝つことを、見つけたりの一念である。
『勝つと思うな、思えば負けよ』との柔の歌は、禅で言えば、一転語であって、欲が隙を生むとの戒めである。勝負に於いては、終始一貫、勝つことを見つけ続けねばならない。それが兵法というものである。二天一流の『五輪書』には、いろいろ表現はあるが、その事だけが書かれてある。
勝つと言うことは、必ずしも、強いから勝つというものではない。強い者にも隙がある。隙を衝けば、必ず勝てる。勝とうと思う者は、いかなる場合も負けない一念で戦い、間合いを取り、攻撃を避ける、一瞬の隙を見逃さず、全身全霊を持って一撃で倒す一念を持って打てば、必ず勝てる。これを本当の先手必勝という。
先手必勝というのは、最初の先手を言っているのではなく、常の局面に先手を見いだし、攻撃を仕掛けることを言う。後手は常に守りであり、先手とは常に攻撃を言う。故に勝利者は常に先手である訳である。
以上、二天一流の兵法の極意である。朝青龍の優勝にちなみ、解説を試みた。