飄(つむじ風)

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魂の法則 その⑯ 貪欲-独占欲 攻撃欲

2013-06-17 17:51:16 | 魂の法則

もろもろのネガティブな思いは、
我欲を抱く魂の所産?!
我欲は思考によって生まれる・・・。
悲しみまでもが我欲の反映であるとは・・・?!
雄々しく、そして、優美な魂の輝きに為に・・・!!

 

 常に内省して行くことが肝腎だ。反省とも省察力とも言われるが、人間の持つ最も優れた特性である。時には厳しく、時には優しく、魂の内面、心の点検が必要である。

 ネガティブな思いは、広く、深く、無数に生じる。

 全てに原因があるとの認識に立ち、その一つ、一つに愛の点検をする。この方法しかあるまい。それは最大の自分に対する愛情を注ぐことになる。

 

 

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 それにしても、悲しみの感情が、攻撃欲と同じ起因によるものとは、多くの人には意外であったであろう。悲嘆に暮れる人は多い。又、悲嘆に遭遇する機会は少なくない。

 勿論、同情に堪えない場合が多い。しかし、それとても悲しみを乗り越える力は、魂には内在すると言うことである。常に輝ける魂であることの可能性だ。

 特に、魂の不死は絶対だ。そして、個性も永遠に継続される。あなたはあなたであり、私は私である。その中で、共感と共に進化する・・・、 何とも安心立命な世界であるか?!

 

 「魂の法則」について、目を拓くと言うことは、何に増しても人生の歓びではないだろうか? 諸君!

 

 尚、全文を読むには、日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.esで、ダウンロードできる。

 

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題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
ホームページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/
日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es
メールアドレス:tamashiinohousoku@gmail.com

 

Photohttp://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.es_ES

 

「魂の法則」 by Vicent Guillem is licensed under aCreative Commons Reconocimiento-NoComercial-SinObraDerivada 3.0 Unported License. Creado a partir de la obra enhttp://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/.
本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能な全ての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。

 

【本文転載その⑯開始】

貪欲-独占欲

 貪欲とは、所有したいという過度の欲求が回を追うごとに募るもので(欲するものは物財でも他のいかなる性質のものでも良い)、それによって他者が損害を被っても構わない。

 貪欲な者は、自分の持ち物では決して満足できずに、いつも持っていないものや他者のものを欲しがり、それを手に入れるまで留まるところを知らない。貪欲な者は、自分のものを評価しないので浪費癖のある魂であり、いつも他者の持ち物を切望しているので羨み深い魂である。

 魂が虚栄の初期段階から発展段階へと移行すると、物的な貪欲さは霊的な貪欲さ、つまり独占欲へと変化していく。

 人が意識してかしないでか、自己満足のために他者の注意を引こうと、相手の自由意志を侵害したり強要してしまうことには頓着せずに、できるだけ長く自分に 構ってくれるように人の感情を操る場合は、独占欲だ。独占欲に支配されている人は、自分の事しか考えないことが多いので、他者を尊重することが非常に難し い。

 独占欲の強い者は、どんな手段を講じてでも注意を引こうとし、そのため、頻繁に犠牲者の振りをする。

 独占欲は執着心との関係が深く、この二つの我欲の形態は、同時に同じ程度の強さで顕れることが多い。つまり執着心に苦しむ者は、独占欲も強い場合が多いのだ。

 嫉妬は多くの場合、執着心と独占欲の混ざったものだ。貪欲-独占的な人には羨望、つまり自分にはない欲しいものを所有する人達への反感、が目覚めがちである。欲望の対象となるのは、貪欲であれば物的所有物であり、独占欲では霊的所有物となる。

*それなら、愛して欲しいので構ってもらいたいと頼むのは、独占的になるリスクがあるので、正しくはないのですか。

 その逆だよ。我々は皆愛される必要があるのだ。自分の必要性を認めて頼むのは、自己の感情表現の一部を成すので、良いことだ。

*それなら、愛して欲しいと頼むのと、独占的になることとの違いは何ですか。

 強制せず、騙さず、操らず、誠実に頼む場合は、独占的ではない。
独占的なのは、強制し騙し操った時、要するに、他者の自由意志を侵害した場合だ。しかも多くの場合が、愛を求めているのではなく、ちやほやして欲しいだけなのだ。

 愛とは自由に与えられなければならず、強制すればそれは愛ではなく、義務となってしまう。そのため、家族や近親者なので自分を愛したり面倒をみる義務がある筈だという思い込みだけで、特定の人達に愛してくれと要求するのは間違っている。

*霊的に進化するにつれて、独占欲はどう変化しますか。

 執着と似通った方法でだ。

 すでに話したことだが、独占欲は貪欲から派生して虚栄心の発展段階で始まり、尊大の段階の最後まで完全には克服されることがない。

 魂は、愛せる能力を獲得するにつれて、自分自身の感情で満たされ始めて情緒的に他者に依存しなくなるので、感情面で寛大になると、独占欲は徐々に力を失ってゆく。自尊と尊大の段階では、独占欲は次第に減少してゆく。

攻撃欲(憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感)

 攻撃欲の分野には、憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感など、自他を問わず痛めつけ傷つけたいという衝動と関連した全ての「エゴ的感情」が含まれる。

 攻撃欲は、一般的に外部からの刺激で目覚めるが、自分が攻撃された場合や、自分の欲求や願望の障害になると思える状況が要因となる。攻撃欲とは、劣悪化した生存本能である。

 攻撃欲は我欲のどの段階にも見られるが、それが誘発される原因は、各レベル毎で異なる。

 虚栄心の強い者では、注意を引いたり注目の的になろうとしたのに失敗した場合や、欲求を満たせなかったり、人の意志を曲げられなかった場合などに表面化する。そして、自分の要求を他者に押しつけようと、攻撃的になる。

 自 尊心の強い者や尊大な者に攻撃欲が顕れるのはより限定的だが、もっと過激なケースとなり得る。確信していることが正しいと認めてもらえなかったり、望み通 りに物事が運ばず途方に暮れた時や、やりたい事をしたり表現するのを抑制されてしまったり、感情が傷つけられたと感じた時などに、攻撃性が起動する。憤怒 すると虚栄心の強い者よりも暴力的になり得るのは、ストレスを蓄め込む傾向があって、自己コントロールを失うと突然爆発するからだ。

 虚栄心の強い者と自尊心の強い者の攻撃性の違いは、ライオンとサイとに例えられる。ライオンは肉食で、他の動物を餌とし本質的に攻撃的なので、攻撃欲も生来のものと言えよう。この攻撃欲が、虚栄心の強い者の攻撃性なのだ。

 だが草食動物であるサイは、食べるために狩をする必要がないので、乱暴に振舞う習性はない。脅かされたり怪我した場合など、ごく特別な場合にのみ攻撃的になる。これが、自尊心の強い者の攻撃性に似ているのだ。

 尊大な者の攻撃欲は、自尊心の強い者の攻撃欲に似ていて、単にその度合いが違うだけである。尊大な者は滅多に感情を損うことがないので、攻撃性が触発されることも稀だが、爆発した場合には、他の者たちよりもずっと破壊的になり得る。

 攻撃欲には、憎悪から恨み・憤りや無力感に至るまで色々な異形態が見られ、それぞれに独自の特徴がある。

 憎悪は、他者に向けられる非常に強烈で持続的な攻撃欲である。これは、最も愛からかけ離れ、最も有害な、一番原始的で致命的な「エゴ的感情」である。宇宙の生命存在への分離と拒絶感情の最たるものだ。

 憎悪は、愛の学習が遅れている最も未熟な存在に特有のものだ。憎む人を「嫌悪する者」と呼ぶとするが、この人はいつも、自分の憎しみは正当なものでコントロール可能だと信じているのだが、しまいにはより多くの人を憎むようになってしまい、周囲の人に隔絶感をまき散らす。

 憎悪に身を委ねてしまう者は、暴力的で不公平で狂信的で冷酷で、全てのものを破壊してしまう。普通の人達からは避けられてしまうので、孤独を感じないように似た者を探そうとする。

 「嫌悪する者」は、異種と見なした者への憎悪を正当化する、過激で暴力的な活動に参加しがちである。しかし魂は益々孤独になり、この世
の他の存在からも離れてしまうので、憎しみ自体が彼らを破壊してしまう。とどのつまり、それが彼らが望んだことだったのだ。

 怒りや腹立ちは、持続しにくい攻撃性で、その程度が大きい(怒り)か小さい(腹立ち)かの違いである。

 憤りと無力感は、強く長く持続する攻撃性が内側に向けられた状態で、他者や自分が逆境に陥った際に起動する。無力感の場合は、物事の流れを変えるのは不可能だと感じる欲求不満が、状況を悪化させる。

 怒 りっぽいイライラした人は、些細な事が原因で攻撃的になり易く、不機嫌であることが多く、自分自身と人生とに不満である。自分の不快感の原因は外のもので 内にはない、と自己を納得させるために外部のせいにして、不快感の本当の原因を探ろうとせず、進歩を拒むので苦しむ。恨みはこうして生まれる。

 罪悪感というカテゴリーに入るのは、攻撃欲や無力感が自分自身に向けられた場合である。

 自分への攻撃性が蓄積されると、アストラル体レベルの均衡を崩し、その状態が長く続くと肉体的な病気を引き起こす。

 たとえば、抑圧された憎しみは、肝臓や胆嚢の病を引き起こす。

 無力感は、消化器系の調子を狂わす。

 抑圧された憤りや恨みが蓄積すると、歯牙の問題(歯痛や虫歯)が起こる。

 攻撃性が自分に向けられた罪悪感は、自己免疫疾患を生じさせる。

*罪の意識、つまり罪悪感はどこで生まれるのですか。

 感情と思考に葛藤がある場合に、感じることと考えること、つまり魂と頭脳との戦いの中で生じる「エゴ的感情」が原因だ。

 思考の中には、それまでに授けられた全教育が影響していて、社会規範や規制、利己的な考えなども含まれる。

 人 は、気持ちに反して考えに従って行動すると、罪の意識を感じることがある。それは多くの場合、愛に反した我欲での行動を意味する。例えば、思考が発端とな る利己的な行動をとった時に、魂が良心によって霊的な視点からは誤りだと感知すると、罪悪感が生まれる。魂は頭を咎め、感情が思考に異を唱えるのだ。この 場合は、自分の間違いを認識することができ、成長の指標ともなるので、このような罪の意識は肯定的なものだ。しかし、その逆も起こり得る。

 人 は、気持ちを感じてしまうことに罪悪感を覚え、思考の代わりに感情に従うことを悪いと思う場合がある。この場合は、頭脳が魂を咎めるのであり、思考が感情 を検証する。とても強い偏見や制約があって、特定の感情が悪く誤りだと思い込んだ場合だ。そして残念なことにそれが原因で、人は善悪を混同し、人生を混乱 させる感情は悪いものに違いない、との結論に行き着くのだ。こういう罪悪感は、霊的進歩と感情の発達を阻むので、大変否定的なものだ。

*二つ目のケースがよく分かるように例を挙げていただけますか。

 よかろう。人を好きになったとしよう。最初の衝動は、そういう気持ちが芽生えた人に、意思表示をしようと近づくことだ。これが、気持ちのままに行動するということだ。

 だが今度は、頭がその思考回路に沿って、感情を分析することとなる。これは、それまでに授けられた偏見と禁制に満ちた教育の全てに条件づけられてしまっており、そこから感情の表現を咎める一連の思考が生まれる。

 例 えば、その関係が発展するために悪影響を与えるような不都合(年齢差・人種・社会層・宗教・信仰・好みや趣味の違いなど)を示唆したり、拒否される怖れを 増長させる(彼女は同じ気持ちではない、NOと返答するだろう、滑稽な真似はやめろ、何て思われてしまうだろう、など)。

 思考が感情を負かし、心で感じたことをするのを止めてしまうと、気持ちに従わなかったことで罪悪感を覚える。

 感情に委ねたとしても、自分の気持ちに適合するように思考を完全に修正できなければ疑心暗鬼になり、再び思考に攻撃され、考えたことではなく感じたことをしたことに罪悪感を抱かせられる。

*罪悪感はどのように克服できるのですか。

 利 己的な行為を認識することで罪の意識が生まれる場合には、落ち込んだりがっかりせずに、新たにそうならないように積極的に行動することだ。例えば、傷つけ てしまった人に謝ることから始めるなど、自分がしてしまった悪いことを可能な限り修復しようとするのだ。そうすれば、罪悪感は消えるだろう。

 気持ちに反して、考えに従って行動したために罪悪感が生まれる場合には、初めに、自分が感情に則った行動をしていないことを認識すること。次に感情に従う勇気を持ち、感じるままに生きることで、そうすることを阻む抑圧的な思考回路を壊すことができる。

 このプロセスを開始し、気持ちに素直に生きて行動し始めてはいるものの、まだ頭の制約が強く、その努力を放棄するように悩ませられている人には、非常な忍耐力が必要だ。自分の気持ちに大いに自信を持って、それに従って行動する固い意志が必要となる。

 苦しむとしたら、それは感じることのせいではなく、考えることのためだと知るべきだ。それゆえ、感情ではなく、思考を修正すべきなのだ。

 心で感じることが分からない人達によって責められたなら、過去に自分もそうであったように、その人達がまだ利己的で偏見に満ちた考えに捉われているのだと理解すべきだ。彼らには、忍耐と理解を持って接する必要があるが、影響されてしまってはいけない。

*恨みとは何ですか。

 恨みとは時間が経って薄れたものの、憎悪が長期にわたり継続するものだ。通常は、反対されたり被害にあったせいで、自分の不運を招いた責任者だと判断した特定の人に向けられる。

 攻撃欲が目覚めるきっかけとなる事件は、かなり以前に遡る場合もある。しかし恨み深い人はこの件をずっと記憶し、攻撃的な衝動を育み、復讐すれば不快感を軽減できるだろうと思って、その機会を待つのだ。

*恨みはどこで生まれるのですか。


 気持ちに従って生きてこなかったという不満や、やりたかった事を実行しなかった欲求不満、また自分が遭遇した逆境を受容しなかったためや、自分自身の欠点(怖れ、安楽さ、意志力の欠如、無理解、怠惰など)に負けてしまった後悔などから生まれる。

 恨みは一般的に、気持ち通りにできなかったことに加担したり協力した人達や、やりたかった事に反対した人達、自分の困難な状況に責任があると思う人達に、誤って向けられる。

*どうやってそれに打ち勝つのですか。

 外部に責任者を探そうとする代わりに、内面の不快感がどこから生じるかに気づいて、別の問題を誘発する可能性があるとしても、人生の中の好きになれないところを修正する勇気を持つこと。

 運命のいたずらに思えるネガティブな状況は、時には、欠点を乗り越えて無条件に愛す能力を高めるために、自分自身が選んだ試練の場合があることを理解するように努めるのだ。

*前にした質問をもう一度繰り返すことになりますが、憎悪・憤り・怒り・恨みなどの感情を表に出せば、他者を傷つけることになりかねませんが、溜め込んでしまえば自分自身を痛めつけることになります。ですから、こういう感情はどうしたらいいのですか。

 根本から断ち切ってしまうのだ。それらの感情が内部に目覚めないように努めるのだ。攻撃欲が外部ではなく内部に生まれることを認識して、それが目覚めたのだとしたら自分の中に存在している我欲が顕れたのだと気づくのだ。

 自分の取り柄が表価されないために我欲が目覚めるならば、まだ虚栄心を克服できていないのだ。感謝されなかったり中傷されたために苦しむのであれば、自尊心や尊大を超える必要があるのだ。

 攻撃欲が外部ではなく内面に起因するのは、どんなに酷い無礼や非難をされても、忍耐も笑顔も絶やさずに耐えられる人達がいる一方で、どんな些細な事にも制御不能なほど激怒してしまう人達がいるのを見れば明らかだ。

 最初の人達は、自己の攻撃性の根絶において、霊的に進んだ人達だ。二番目の人達は、そう努めようとし始めてもいない。

 ほとんど影響を及ぼすことのできない外側の世界を変えられないからといって、欲求不満になってはならない。自分が全権限を有する、内面の世界を変えるように努力するのだ。そうした時に、外でのことは、もう怒りの原因とはならなくなるのだ。

*攻撃欲はどう乗り越えるのですか。

 先ず自分にそれがあることを認め、次に理解によって克服しようとするのだ。

*何を理解しないといけないのですか。

 自分自身を理解し、他者を理解し、直面する状況を理解する。

 自分が間違っていると認めるのが嫌で、自分自身の利己的な態度を認めたくないがために、怒ってしまう場合があると理解すること。

 また、自分の意見を抑圧するために攻撃的になるのであれば、在るがままに自分を表現するように努めるのだ。

 誰 かに傷つけられてそうなるのであれば、それは相手の魂の成長が足りず、愛の認識に関してほとんど進化できていないためなのだと理解すべきだ。かつては自分 も同じように霊的に無知な状態で、今されたことと同じことを人にしていたのかもしれないと気づきなさい。自分の利己的な行為が理解されることを期待するの なら、他者の利己的な行為に関しても寛容な態度をとらなくてはならないと理解すべきなのだ。

 我々 が直面する逆境の多くは、我々に嫌がらせをするために出現したのではなく、愛の学習と我欲の克服を促進させるためのもので、その多くは生まれる前に自分自 身で選んだものなのだと理解するのだ。そして大半を占めるその他のものは、自分の頑固さ・不寛容・羨望や、他者の欲求や意見を尊重・理解しなかったため に、我々自身が招いてしまったものなのだ。

*攻撃欲が触発されてしまった場合に、誰にも迷惑をかけずに、不快感から解放されるにはどうしたらいいでしょうか。

 他者を傷つけずに不快感を解放する、いい発散方法がある。

 それは、どう感じているかを言い表わすということで、自分にわき起こった感情を認めて、そうなった理由を述べるのだ。聞き手は、傷つけないように当事者以外の穏やかな人が好ましく、攻撃欲には簡単に屈しない信頼できる人でなければならない。

 不快感を表現するだけで、攻撃欲から生じた不快が和らいでかなり楽になる気がするし、もっと冷静に理性的になれる。

 そ の後で更に落ち着けば、けんかをした人との話し合いを試みて、解決策を模索することが可能だ。しかし、それには時と方法を選ばねばならず、怒りや激情で爆 発しそうな時は、絶対に避けねばならない。そうなってしまえば、自分が受けたのと同等かそれ以上の苦痛を相手に与えて、大いに傷つけてしまうかもしれない からだ。

 悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め

 悲しみは、士気の喪失と低下という情緒的な状態だ。

 悲しみは、攻撃性と同じ原因や状況で生じがちだが、感受性がもっと強い人の場合にそうなるのであり、我欲に由来していることが攻撃欲ほど明白ではないので、捉えるのが難しい。

 実際、無力感や罪悪感や、場合によっては憤りと自棄も、本当は攻撃性と悲しみの入り混じったものだ。

 悲しみは、自分が求める成果が見られなかったり、結果が期待したものと違ったりして、憔悴したりがっかりした際に表れる。

 悲しみには色々な形態があり、それぞれに特色がある。

 苦々しさは恒常的な悲しみで、長期に及ぶ。日常生活の妨げとはならないが、とても深く内面に根を張っているので超えるのが難しく、悲しみによってその人が少しずつ死んでいくような印象を与える。努力する動機づけや生き甲斐がないというのが特徴である、絶望と諦めという悲 
しみの形態にも深く関連しているが、後者は通常、認めたくないような状況から生まれる。

 自暴自棄は、鋭く強烈な悲しみの極端なもので、日常的ないかなる仕事も行えなくなり、精神不安定になって自分の命や他者の命を奪うなど、致命的な行為に及ぶことがある。

*悲しみが我欲の感情だと思われているのは、予想外でした。

 ところがそうなのだ。人が時々悲しくなるのはとても普通のことだ。だが、諦めて投げ出してしまって、悲しみがその人の日常的な状態になってしまうと、それは停滞した状態なのだ。悲しみは、霊的成長の努力を怠る口実となるのだ。

*悲しい時に、誰かに何か悪いことをするとでも言うのでしょうか。

 悲 しみは自分に有害であるし、間接的には他者をも害する。悲しみのせいで、自分の務めが果たせなくなる場合があるからだ。悲しみや落胆に沈んでいる人と一緒 に暮らすのは、とても疲弊することなので、大変強い意志力を持たない限り、うつ状態の人と暮らす者たちにも容易にその状態がうつってしまう。

 悲 しみが蓄積されると、攻撃欲と同じように、多数の病気を引き起こす。悲しみで病気になり死んでしまい、今生で取り組んでいた試練や使命を途中で止めてしま う人は大勢いる。そうした人達は、同時に、他の魂たちを助けるという約束も投げ出しているのだ。例えば、悲しみに蝕まれて死んでしまう父親や母親は、子ど も達を見捨てているのだ。

*悲しみはどう超えたらいいでしょう。

 攻撃性と悲しみを生み出す要因は大変似通っているので、攻撃性を乗り越えるために処方したレシピを、ほぼその一点一点、悲しみを克服することにも適用できる。

 それゆえ、悲しみを乗り越えるための基本となるのは、理解である。自分自身への理解、他者への理解、我々の人生の状況への理解。

 我々が直面する逆境の多くは、愛の学習と我欲の克服という工程の一部を成しており、その多くは生まれる前に我々自身で選んだものだと理解するのだ。そしてその他のものは、他者への不寛容・頑固さ・無理解などで、我々自身が招いたものなのだ。

 時には、自分が間違っているのを認めたくなかったり、自分自身の利己的な態度を認めたくないために、悲しくなる場合があるのだと理解すること。

 誰かに傷つけられて悲しくなるのであれば、それは、その魂の成長が足りないためで、愛の知識をまだほとんど持たないためなのだと理解するのだ。

 自分らしさを抑圧したり、意志を黙殺して悲しくなるのであれば、自分を在るがままに表現するよう努めて、悲しみを超えるのだ。

*あなたのレシピは、諦めを勧めているようですが。

 とんでもない。理解と諦めは全く異なるものだ。諦める者は、匙を投げ、理解を放棄し、自分の意志を否定する人だ。もうどうでもいい、と生きる希望を失い、落ち込むのだ。

 もう言ったことだが、諦めも、悲しみに関連する我欲の一形態なのだ。それは苦しみを避けるために頑張らない、というやり方なのだ。しかし、この方法では、別の理由でだが、もっと苦しむことになる。

 理解は、生きる希望と悦びを失わずに、努力し続けて前進する鍵となるのだ。以前は分からなかったことにも、意味を見い出すことを可能とするからだ。

*諦めと理解の違いがはっきりする例を挙げていただけますか。

 例を挙げれば、死に対する姿勢だ。

 君たちの世界の大半の人は、死に対して諦めの態度をとるが、それは死の意味を理解しようとしないからだ。君たちは生きている間は、死と向き合うことを避け、懸念を直視しようとしない。

 この話題について真面目に話をしたがる人に出くわすと、冗舌家か頭のおかしい人に思えるのだ。本当は君たちは怖いので、この話題を避けて、日々の雑事に没頭しているのだ。理解しようとはせず、ただ避けているのだ。

 そ うするうちに、愛する者が突然死んで、驚愕するのだ。この状況は、悲しみ・苦々しさ・憤怒・無力感をもたらす。そして、このどうしようもない事実を変える ことが不可能なので、最後に諦めてしまうのだ。諦める者は、仕方がないので受容せざるを得ないものの、理解できていないので、不機嫌に暮らし無益に苦しむ のだ。

 死は単なる移行期で、実際に死ぬのは体だけで愛する者は生 き続け、遅かれ早かれまた一緒になれる、と理解できる者は、もう生きる希望を失うことがない。そればかりか、再会の時が来たら大いに楽しめるように、物質 界で何もやり残さないようにと、もっと頑張って生きようとする。

 進化した世界では、人が死んでもそれが肉体からの離脱のプロセスだと皆が理解しているので、誰も、悲しんだり、絶望的になったり、苦々
しく思ったりしない。その反対に、仲間が魂の真の故郷である霊界に戻るので、喜んであげるのだ。

【本文転載その⑯終了→その⑰に続く】