飄(つむじ風)

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アトヒ?ーは治る・・・磯辺善成医博出演動画!

2013-06-23 20:44:12 | バジャン

一切の界面活性剤と縁を切る生活をすれば、
80%強のアトピーは完治する
-磯辺善成医博-

 

 拙稿『アトピーは治るよ! 石けん(界面活性剤)を使わなければ・・・』に既報したが、その言葉の発信人、磯辺善成医博が動画で登場!

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 是非、ご視聴ありたい!

 深くは解説しないが、『驚くべきレポート』にも詳しい。

アトヒ?ーは治る・5


魂の法則 その21 イエスの地上での使命

2013-06-23 08:38:00 | 魂の法則

クリスチャンでもなく、カトリックでもないが、
聖人で誰が好きか?と聞かれると、イエスと応える!
且つ、四国八十八カ所巡礼をひょんな事からしている・・・。
さて、本場のキリスト教界から、
イエスの真相が明かされた意義は大きい!!

 

 全くの真相であると、確信する。キリスト教は、イエス以後に創られたものだ。

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 それも、権力者の都合の良い方向に、乗っ取られ、聖書までも改竄された。その歴史的事実を暴露する内容である。そう思っていた者からすると、まさに溜飲の下がる真相の暴露である。

 ドグマに犯されたクリスチャン、あるいはカトリックを含むキリスト教信者にとっては、許し難い内容かも知れない。しかし、それはドグマ(教義)が問題なのであって、信仰とは関係ない。

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 信仰とは、徹頭徹尾、自由意志でなければならないからだ。

 単に、目覚めればよいだけである。

 それに引き替え、宗教利権に縋っている輩には、都合の悪いものであろう。自らの権威を失うからだ。宗教権威など、私にとっては糞食らえであるが、実際のところ、それが世の中を覆い尽くしている。

 その中に隠れて、不義を犯しまくっているのが、現在のバチカンだ。それも、もうそろそろ終わりだろう。しかし、それに洗脳されて、唯々諾々に従っている迷える羊は多い。

 その意味で、この「魂の法則」の書は、拡散されるべきであろう。

 そういう思いで、これまで転載に集中してきた。もう、あと一回で連載も終了する。結構、きつい作業でもあった。それ以上に、この書を世に著し、そして、日本語に訳出された方は、それ以上の大業であったであろうと、ひたすらに敬服する。

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 とりわけ、この書が、キリスト教のメッカ、スペインで著された事に深く感銘を受けた。スペインと言えば、西洋文明のメッカである。一時は無敵艦隊を誇り、世界を席巻した植民地帝国であるし、彼のキリスト教を世界に広めたことでも知られている。

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 又、マラーノを排出し、スファラディーユダヤ人を世界に配置した。

 そのスペインで、真実のキリスト教について、明かされた意義は深い。それに加えて、魂の法則が明確化された。輪廻転生の真実が明かされた。これは一つの奇跡である。

 まさしく、神の配剤と言っても良い出来事であろう。

 日本人として生まれ、比較的宗教的自由な環境で育った私としては、ドグマ(教義)に関係なく、真実を追究してきた結果、全く、同意できる結論を代弁してくれたような思いでいる。

 しかし、逆に、キリスト教徒にこの内容はストレートに話す勇気はなかったであろう。理解されるのは難しいと、当然考える。それが、内から著されてと言う訳であるから。驚きだ。

 世界は、確実に目覚めに向かっている・・・。

 

 尚、全文を読むには、日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.esで、ダウンロードできる。

 

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題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
ホームページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/
日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es
メールアドレス:tamashiinohousoku@gmail.com

 

Photohttp://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.es_ES

 

「魂の法則」 by Vicent Guillem is licensed under aCreative Commons Reconocimiento-NoComercial-SinObraDerivada 3.0 Unported License. Creado a partir de la obra enhttp://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/.
本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能な全ての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。

 

【本文転載その21開始】

イエスの地上での使命

*イエスが言ったとされる言葉と関連させて物事を説明されることがあることに気づきましたが、どうしてそうするのですか。

 その場を借りて、ついでに君のもう一つの質問にも答えようとしているのだ。ナザレのイエスの真相について知りたいと思っていたのは、君ではなかったかね?

*そんなことも知っているのですか。

 もちろんだ。

*この話が出たので、ナザレのイエスについて、聞きたいことを言います。彼が本当のところ誰だったのか、地上での使命があったのだとしたら、それが何だったのか知りたいのです。

 良かろう。生まれてから二千年も経つのに、彼のメッセージはまだ正しく理解されてはいないのだ。

*どういう意味ですか。

 彼の死後、あたかも彼のものであるかのように、無数の付け足しが盛り込まれていって、携えられた教えの本来の意味が徐々に歪めてられてしまったのだ。

 イエスの使命を理解するには、彼が言ったように、「麦粒」と「麦殻」、つまり真実と偽りとを区別する必要があるのだ。

*それで、彼の任務は何だったのですか。何をしに来たのですか。

 霊的進化の道を教えに来た。「魂の法則」を教えに来たのだ。

 中でも「愛の法則」の伝道に力を注ぎ、「汝の隣人を自分のごとく愛しなさい、汝の敵を愛しなさい」という無条件の愛のメッセージをもたらした。

*ナザレのイエスは、神自身の生まれ変わりだったのですか、それとも神の子だったのですか。

 ナザレのイエスは、非常に進化した魂が転生したものだった。

*では、神の生まれ変わりではなかったのですね。

 そう、神の生まれ変わりではなかった。だが彼は、自分が神であるなどとは、一度も言ったことがなかった。そう断定したのは、イエスの後にやって来た、別の者たちだ。

*少なくとも、神の子ではあったのですね。

 そう、君たちと同じように真の神の子だ。違いと言えば、彼はそれを自覚していたが、その他の人達には自覚がない、ということだけだ。

*それなら、イエスはそれほど超自然的でも神聖な存在でもなく、僕たちのようにただの人間だったのですか。

 君たちのように正真正銘の人間だったが、もっと高度に進化していた。進化することで段々と神に近づけると理解するなら、イエスは君たちよりも神に近かったと言えよう。

*でしたら、僕たちも進化すれば、イエスが転生した時の進化レベルに到達できるのでしょうか。

 そうだ。しかも、同じレベルに限らず、もっとずっと高いレベルに達することも可能だ。霊的進化の工程は、止まるところがないのだ。

 だが、それがただ一度の肉体生では無理なのは明らかだ。イエスと同じ域に至るには、君たちも多数の転生をして、無数の体験をする必要があろう。それに、君たちがそこに達する頃には、イエスも他の全ての魂と同じように進化を続けているので、更に高いレベルに進んでいるであろう。

*イエスも進化するために、輪廻のサイクルを経験しなければならなかった、とほのめかしているのですか。それは、かつては僕たちのように全くの未熟者だった、という意味ですか。

 そう示唆しているのではなく、断定しているのだ。イエスも君たちと同じように、物的界での経験を通して改善せねばならなかった。そして、自分の意志力と個人的な努力によって、地上で果たした任務を遂行する上で求められた進化のレベルに至ったのだ。

 君たちはイエスが行ったことに強い衝撃を受けたが、それをほとんど理解することができなかった。

*イエスは、進化を続けるために、肉体に宿って十字架上で死ぬ必要があったのでしょうか。

 いや、すでに何のカルマも負債も背負っていなかったので、その必要はなかった。あれほど酷な最期を迎える必要もなく、自己進化を継続で
きたであろう。だが、それがどんな影響をもたらすかを知っていたので、好んでそうしたのだ。

 イエスが偉大なのは、カトリック教会があれほど強調してきたように、十字架にかかって死んだことではない。もしもそれがイエスの功績なのだとしたら、その時代にはそれが罪人の処刑法だったので、同じ形で死んだ何十万人の人々にも、功績を認めなければならないだろう。

 イエスの最大の功績は、携えてきた愛のメッセージを布教した果敢さと勇気にあるのだ。そうすることで、多大な苦悩や死さえも被ることを知っていたにも関わらず、誰の脅しにも屈せず、自分の考えを変えることがなかった。

*では、何のためにそうしたのですか。

 後進の同胞への愛のためだ。イエスのように無条件の愛を知った魂は、償いの必要性のためではなく、遂行せねばならぬ任務のために行動するのだ。通常それは、どのように愛をもって生きるかの手本を示すことと関係している。

 魂は、ある段階からは、愛だけを動機として行動する。多くの魂が、発展の遅れた世界への転生を希望し、後輩を支援して愛に生きることで、もっと速く幸福に到達できるようにする。

 この場合に遭遇するネガティブな状況は、贖罪のためではなく、霊的に劣った世界自体に元来備わっているものだ。だが彼らは、苦痛も死も怖れていないので、そのような苦悩を味わうことや殺されることすらいとわない。高次に進化しているので、死が存在しないことを知っており、肉体の命は魂の命のほんの一瞬に過ぎない、と分かっているのだ。

*では、劣った世界に転生する高次の魂が、学ぶためにではなく、教えるためにだけやって来るのだとしたら、その人生では余り進化できないのでしょうね。

 いや、そうではなく、人生のいかなる試練からも学び取ることができるので、教えるためだけではなく学ぶためにもやって来るのだ。そして、自己の愛と理解の度量を常に試されることになるので、自分と同等レベルの世界にいるよりも、速く進化できるようになるのだ。

 更に、愛に満ちた環境では露呈せず、極限状況でなければ表面化しないような、奥深く隠れた自分の欠点を浮き立たせてくれる。こうして、欠点を改善する機会が得られるので、我欲を除去する面で前進できるのだ。

*イエスの話に戻りますが、彼はどこからも援助を受けずに、独りで仕事をしたのですか。

 人が愛に突き動かされて尽くす時には、更に進化した霊的存在からの影響を受けるにふさわしくなる。イエスの場合は、その中でもロゴス・キリストに影響された。

*ロゴス・キリストとは誰ですか。

 君たちの惑星の進化の最高責任者となる霊的な存在だ。

*でしたら、聖なる三位一体の三人とは、神とキリストとイエスなのですか。

 それは分からない。そう言い出した人達でさえ、それが何を意味しているのか知りはしないと思うからだ。

 断言できるのは、神が唯一であることと、キリストとイエスが、神とは異なる別々の存在であることだ。それゆえ、彼らは神でも神の顕現でもないが、御心と調和しているので、神の代理人とか神の使者、などと捉えることは可能だろう。つまり、彼らは「愛の法則」を遵守する者で、進化の計画に自主的に参加しているのだ。

*キリストはイエスを通してどのように行動したのですか。

 イエスはある時点から人生の最後の数年間は、ロゴス・キリストにインスピレーションを与えられ、励まされて、行動した。実際、イエスが任務を完了できるためには、その必要があったのだ。

*でしたら、話していたのはイエスですか、それともキリストですか。

 二人で行動していたと言っておこう。キリストから閃きを与えられて、イエスが話していたのだ。だが、イエスは決して自分の意識や個別性を失わなかったし、自由意志を失いもしなかった。

*イエスは、地上に再び生まれ変わるでしょうか。

 キリストは必要とあらば、人間の進化段階にいる魂を転生させて、いつでもそれに顕現するだろう。イエスの前にもそうしたことはあるし、地球の霊的進化が求めるなら、今後も再び、そうするであろう。転生するのがイエスであるか、別の似たような進化程度の者であるかは重要ではない。

 予め言っておけるのは、新たな救世主・預言者・アバターなどとして生まれ変わる際には、キリスト教徒が待ち望むように、茨の冠に十字架を背負ったナザレ人としてではないし、釘で血にまみれた手もしてはいないということだ。外見的には、普通の人であろうが、通常の域を超える、愛と霊的叡智の能力を備えていることだろう。だがそれは、隣人愛のメッセージと霊性進化と同調できる者にしか感知されないのだ。

 またイエスが現代に転生した場合に、最初に彼を攻撃して布教させまいとあらゆる手段を講じるのは、イエスを旗印にしている教会そのもののお偉いさん方だろう。なぜなら、彼の教えが地球の人類の心に浸透してしまえば、彼らが宗教的貴族でいられる日々も数えるほどとなり、凡人に帰してしまうからだ。

*イエスについて最初に話された時に、彼の本来のメッセージには多くの付け加えがされて、伝えたかったことを歪めてしまった、と言われましたね。当初の教えと、後世の追加事項とを、どう見分けるのですか。

 ごく単純に、「魂の法則」に反する信念はどれもイエスの教えではない、ということになる。イエスはこれらの法則を熟知しており、聞く耳を持つ者に伝達しようとしたのだ。

*イエスの真の教えの中で、最も大切なものを幾つか挙げていただけますか。

 もちろんだ。

 1.全ての人間は、人種を問わず、性別や宗教を問わず、同じ本質である。すなわち、皆、進化途上の魂であり、それゆえ、兄弟である。

 この根本的な教えは、以下の金言に収められている。

 「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」(ルカ 8,21)

 「誰でも天におられるわたしの父の御心を行なう者が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイ 12,50)

 このことから、魂の進化の工程から除外される者など一人もいないことが分かる。どんなに酷い罪業を犯したにせよ、決して見捨てられはせず、永遠に有罪とされることもない。改悛して、真の幸福に到達する機会はいつでもあるのだ。そしてこれは、福音書でも次のように表明されている。

 「もしある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷った羊を捜しに行かないだろうか。そしてもし見つけられたなら、その人は、迷わずにいた九十九匹のことよ
りも、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ 18,12-14)

 2.魂の生命は永遠であり、死は存在しない。

 「 体を殺しても、魂を殺し得ぬ者どもを、恐れるな」(マタイ 10,28)

 「天に昇った者はいないが、天から降りてきた者はいる」(ヨハネ 3,13)

 二番目の節の意味については、前にすでに話している。これは、出産を経て物理的に生まれ変わる全ての人は、霊界(天)からやって来て、肉体の死後はそこに戻るという意味だ。

 3.地上の人間の務めは、無条件に愛すことを学び、我欲から解放されることだ。魂がどれだけ成長したかは、愛の力量だけで量られる。愛が我々を進化させる、つまり、神へと近づけるのである。

 「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからだ。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」 (マタイ 5, 43 ? 48)

 「わたしの戒めは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ 15,12)

 4.霊的進化は、自分自身の努力にかかっている。人間の死後の運命は、生存中の「愛の法則」に基づいた行為、あるいは反した行為によってのみ、決定される。

 「しかし、真理を行なう者は、光の方に来る」(ヨハネ 3, 21)

 「まことに言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、みな天においてもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ 18, 18)

 5.各人は、それぞれ神との独自の繋がりがあるので、仲介者に依存して霊界と交信すべきではない。

 「そこで、あなたがたに言うが、祈って求めるものは何でも、すでに叶えられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるであろう。また祈るとき、誰かに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦して下さるだろう」(マルコ 11, 24-25)

 「そしてこれが、神に対する私たちの確信だ。すなわち、何事でも神の御心にかなう願いをするのなら、神はそれを聞きいれて下さるということだ」(ヨハネによる第一の手紙5章14節)

 「そこで、あなたがたに言う。求めよ、さらば与えられん。捜せよ、さらば見い出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求める者は得、捜す者は見い出し、門を叩く者には開かれるであろう。...このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い物を与えることを知っているのだ。とすれば、あなたがたの天の父はなおのこと、どうして求める者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ 11, 9-13)

 6.魂の成長は、ただ一度の肉体生では終わらず、高度な霊性を獲得するには、多数の転生が必要となる。

 イエスは彼に答えて言った、「よくよくあなたに言っておく。人は誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」 ニコデモは言った、「年をとっているのに、人はどうして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょうか」 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。人は、水と聖霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れる者は肉であり、聖霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。(...)天に上った者はいないが、天から下った者はいる」(ヨハネ 3, 3-13)

 7.「霊的裁きの法則」または原因-結果の法則。自分がまいたものを収穫する。

 「人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁く通りに、あなたがたも裁かれ、あなたがたが量る通りに、あなたがたも量られるからだ」(マタイ 7,1-2)

 「だから、何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもその通りにせよ」(マタイ 7,12)

 8.この他にも人が住んでいる世界はあり、ここと同じ目的がある。すなわち、霊性進化の学校として役立つことだ。

 「わたしの父の家には、住まいがたくさんある。もしなかったならば、そうあなたがたに言っておいたであろう」(ヨハネ 14, 2)

*イエスの発言に言及する時に、どうして福音書を引用するのですか。

 福音書に収集されたものに限定されずに、イエスの教えを説明する方が、私にとっては簡単だ。だがそうしても、イエスが語ったものだと君たちが認めないであろうから、文献に記載されている彼の言葉を使用することに留めるのだ。そうすれば、私が勝手に創作しているのではないことが、君たちにも分かるだろう。

*霊的な観点からは真実ではなく、イエスの死後に付け加えられたキリスト教の信念を、幾つか挙げていただけますか。

 沢山あるが、霊的進歩に一番悪い影響を及ぼす、最も重要なものを挙げてみよう。

1)宗教儀式の執り行いに道義的・精神的な何らかの価値があり、死後に天国での特権的地位の確保に役立つという信心。

2)聖書や他の聖典が神の御言葉であるという信念。

3)教会や聖職者が、地上における神の仲介者だと信じること。

4)悪業を清算するには、告白が必要であり、司祭から免罪されれば解消されると信じること。

5)最期に後悔すれば罪があがなわれる、という信念。

6)イエスは十字架上で死ぬことで、人類の罪をあがなったと信じること。

7)原罪への信念。

8)性が何か罪深いものだと信じること。

9)ただ一度の人生で、魂の行く末が永遠に決められる(救われる者には永遠の天国と栄光が約束され、罪人には永遠の地獄と罰が待ち受ける)と信じること。

10)キリスト教徒と信者だけが救われるという信念。

11)肉体の蘇りを信じること。

*元々のイエスの教えにはこれらの信念がなかった理由を、一点一点、説明下さいますか。

 よし、そうしてみるとしよう。これらの信念に、どうして「魂の法則」と矛盾する点があるのか、一つずつ順番に説明してみよう。

*最初のものから始めましょう。霊的視点からは、儀式や聖礼には何の有効性もないと言われましたね。

 その通りだ。

*それは、どうしてですか。

 霊道に、近道などないのだ。我々を霊的に進化させる、すなわち「救済する」唯一のものは、自己改善であり、我欲を手放し愛の能力を成長させることだ。それ以外にはない。

*でも多くの人が、それを最も重要な事柄の一つだと信じていますよ。

 自分自身を騙しているか、そのように騙されたいのだ。

*では、救済には儀式が不可欠である、という信念は、何に由来するのですか。

 様々な教会の指導者たちが、人々の霊性を監督し、私益に利用しようとしてきたからだ。「我々の言うことを聞けば、善人にならずとも、天国で優遇してやる」、と要請するようなものなのだ。

*でも教会は、善い人にならなくてもいい、などとは言ってませんよ。その上で、戒律も守るようにと、要求しているだけではないですか。

 言葉ではそう言っていないのだろうが、既成事実がそう言っているのだ。

 儀式や聖礼や式典 ―派手であれば派手であるほど良い― に従うようにあれほど強調するにも関わらず、隣人の支援に力を入れていないのなら、そう言っているのと同然なのだ。

*それなら、宗教に儀式があるのは、良くないことでしょうか。

 人々の霊性進化を操作したり逸脱させるために、儀式を利用するのは、良くないことだ。必要ないのに、どうして儀式を行い続けねばならないのだ?

*霊的なメッセージを喚起させる手段として、設けられたのではないでしょうか。

 だが歴史を見ても、儀式や象徴は、メッセージを喚起するために役に立つ代わりに、代弁していた筈のメッセージ自体に置き換わってしまうことが多い。そして、それらの儀式や象徴を楯に取り、従うべき信仰にはことごとく反するという、更に大きな過ちを犯してしまうのだ。

 その一例が、十字軍と宗教裁判だ。胸元に目立つ大きな十字の印を付けた服を着た人達による、大量虐殺や殺人だ。彼らは毎日、聖体を受けていたのだが、手には聖書を握ったまま、死の宣告を行ったのだ。隣人に対する愛の教えは、一体どこに見い出せるのだろうか?

*でも、聖餐式のように、イエス自身によって伝達された儀式もありませんか。

 いいや、そうではない。イエスが、自分が処刑されるまでに時間が残されていないと悟り、別れの晩餐に弟子たちを集めたことは本当だ。だが彼は、聖餐の儀式だけでなく、その他のいかなる儀式・式典・聖礼も確立しようなどと考えてはいなかった。

 更に言えば、たとえ象徴的であろうと、キリストの肉体や血を口にするのは、カニバリズムを連想させ、イエスはそれと何の関係もない。

*では、聖餐式の儀式は何に由来するのですか。

 それ以前からの宗教儀式が、キリスト教に組み込まれたのだ。実際のところ、そういう式典は全て、イエスの使徒を指すキリスト教徒と名称や彼らを象徴する十字の印と共に、後世に導入されたものなのだ。

*でしたら、十字の印もイエスに由来しないのですか。

 十字架というものは、イエスの時代には、今の電気椅子と同じように、人を処刑するために用いられていたのだよ。正常な判断力があれば、自分の信仰の象徴に十字を使おう、と思いつく者など誰一人としていなかったろう。イエスが現代に生まれ電気椅子で処刑されていたとしたら、ペンダントとして電気椅子をぶら下げようとする者がいないのと同じことだ。

*このようなお話はかなりショッキングで、キリスト教徒やカトリック信者には、なかなか受け容れられないのではないかと思います。

 そうかもしれないが、それが真実だ。またこの場では、霊的な真相に目を開くように、努めているのだ。

 イエスの地上での任務が、霊性進化の道を示すことであったと思い出してごらん。あの時代の宗教組織は、多くの迷信と偽りで人々を怖れさせ、自らの富と権力への願望を満たすために神の名を利用して、長きにわたって、人々の霊的な成長を阻止してきたのだ。複雑な儀式制度で気を逸らし、自分たちの思いのままにお金を巻き上げることに利用し、人々を犠牲にして、派手な暮らしをしていたのだ。そして、イエスがその事実を明白にしたので、彼を殺したのだ。

 当時のユダヤ教会は、イエスの人物像を利用して教えを操り、人類の霊的な成長を阻んで生き永らえてきた今日の教会の姿と、非常によく似ていたのだ。もういい加減に、きちんと正されるべきだろう。

*儀式に反対なさるあなたの論拠はどれも大変結構なのですが、キリスト教徒からすると、聖書に記載されていないことは...

 それなら、マルコの福音書の第12章(29-34節)を調べてごらん。そこには、ほぼ同じ教えが収められている。

 彼らが論じ合っているのを聞き、一人の律法学者がやって来て、イエスが巧みに答えられたのを認めて、彼に質問した、「すべての戒めの中で、どれが第一のものですか」 イエスは答えられた、「第一の戒めはこれである、『イスラエルよ、聞け。われらの主なる神は、ただ唯一の主である。心をつくし、魂をつくし、意志をつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』この二つより大事な戒めは、他にない」 そこで、律法学者はイエスに言った、「先生、仰せの通りです、『神はひとりであって、その他に神はない』また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」 イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」

*第二点目では、聖書や他の聖典が神の御言葉である、と信じることは間違いだと言われましたね。

 そうだ。

*では、聖書が神の言葉でないのであれば、何だとお思いになっているのですか。

 旧約聖書は何冊かの本がまとまったもので、イスラエルの歴史の一部が収められているが、指導者たちの征服欲を正当化し、それが「神の意志」であったと見せかけるために都合がいい修正がされている。

 また、平均よりも霊的に進化した存在、つまり預言者たちのかなり正しい教えも記載されているが、それはすでに、宗教的な信仰が狂信的に操作されていることを警告しており、真の霊性とはいかなるものかを垣間見ることができる。

 一方、新約聖書は、イエスの生涯で最も特出した事実、特に最後の数年間の公での説教、に関する口頭伝承を収録しようと試みたものだ。イエスが伝えようとした教えを部分的に収めた「福音書」と、以後の使徒たちの生活「言行録」と、人類の未来に関する著者の一連のビジョンを集めた「黙示録」とから成る。

*「文書」に関して余り良い心象がないようですが、論拠を裏付けするために、折に触れ、新約聖書の文言を引用されていますね。

 全てが偽りだとは言っていない。各々の事柄はそれぞれ正しく評価されるべきだ。

 山上での説教のようなイエスの公での宣教を著わした章句や喩え話の多くは、イエスが言ったことをかなり忠実に再現している。それで、私は引用しているのだ。

 イエスが演説に比喩を用いたのは、偶然ではなかったのだよ。そうすることで、教会に不都合であった多くの部分が改変されてしまうことから救ったのだ。人には比喩の意味が良く理解できなかったので、教会の検閲に引っかからずに済んだのだ。

*例を挙げて下さいますか。

 例えば、輪廻転生の概念は、新約聖書の二つの章に巧みに収録されている。初めのヨハネの三章は、もう見た通り、イエスとニコドモの会話の中でだ。

 イエスは彼に答えて言った、「よくよくあなたに言っておく。人は誰でも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」 ニコデモは言った、「年をとっているのに、人はどうして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょうか」 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。人は、水と聖霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れる者は肉であり、聖霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。(...)天に上った者はいないが、天から下った者はいる」(ヨハネ 3, 3-13)

 二つ目は、マタイの17章、10-13節だ。

 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った、「いったい律法学者たちが、エリヤが先に来るはずだと言っているのは、どうしてですか」 イエスは答えて言われた、「確かに、エリヤが先に来て、万事を元どおり直すのだ。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでに来たのだ。ところが人々は彼を認めず、彼に好き勝手なことをしたのだ。人の子もまた、彼らから同じように苦しみを受けることになろう」 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

*それなら、聖書自体を読んだり、聖典とされるもの全般を読むことに関しては、どんな姿勢でいるべきですか。

 いいかね、全ての宗教には、神、または神の使者の手によるとされる聖典があるのだ。そうしなければ、自分たちの神聖を正当化できないからだ。

 だが、霊的に進化している者や高次の霊に感化されて書かれた可能性があるものが存在していることは確かだが、現実的には、君たちと同じような人間によって書かれたものなのだ。

 いずれせよ、著者の名前には惑わされず、常に内容を吟味してみることが、騙されないための一番良い方法だ。メッセージの質を見れば、作者の霊的レベルが分かるであろう。

 また、一人の著者のものだとされていても、同じ書物が何人もの手によることもあるのだ。千年余年にもわたって原本が偽造・改変されてきて、聖なる仲介者だと勝手に名乗り挙げる者の利益となってきたのだ。それゆえ、ある段落は霊的に進化した者によって書かれたが、その次のものは詐欺師の手によるということもあり、偉大な真実のすぐ脇に大嘘が書かれている可能性もある。そして真実は、徹底的に中味を分析して、「麦殻」を捨て「麦粒」だけを集めることによってのみ、知る得ることができるのだ。

*地球には多くの宗教がありますが、その多くが一神教で、かなり厳しい戒律を設けています。権威者によるとそれは神の意志だそうですが、それをどう思われますか。

 魂の「自由意志の法則」を尊重せず、権力者の見解による教義を押しつけて成り立つ学説や宗教は全て本物とは言えないし、神や高次の霊性からの恩寵だと見なすこともできない。従っ