飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

カリーナとナイダのストーリー

2016-01-28 18:30:46 | エッセイ風

カリーナという3歳の女の子と、
ナイダという飼い犬がシベリアの森(タイガ)で、
11日間生き延びるというドラマだ・・・!
夏とは言え、
シベリアのタイガで11日間生き延びたというのは、
奇跡だろう・・・!

 

幼い女の子を、

愛犬が狼やその他の野獣から守ったというのもドラマである。

そこには、

目に見えない愛の絆が生きている。


Girl spent 11 days in taiga

 

詳細は、転載記事に譲りたいが、

何とも感動的な話である。

人生は、儚く、ともすれば幻のごとく虚無感を感ずる。

殊に、

昨今、戦争や移ろいやすいカオスを見るに付け、
(※個人的には、母の死がそうさせた・・・)

厭世的になりがちであるが、

そうした心に幸福感を浸してくれる話である。


 

人は、

どんなに生きても、

百年もその上も生きることは出来ない。

ましてや、

無常の風を受けると、

明日という日は、一瞬にしてなくなるのである。

誰しも黄泉の世界に旅立たねばならない。

数十年の積み重ねは、

その時、もろくも夢・幻の後塵となる。

 

如何なる富も、

抱いて持ってゆくことは出来ないからである。

肉体も忽ち風化し、

運良く時代の栄華を拝しても、

一瞬にその価値が胡散霧消するのは必定である。

金も栄誉も、

全く意味を成さず、

生まれた時と同じ、

裸のままのでの旅立ちであることは、間違いない。


 

裸といっても、肉体すらも無い。

「裸のこころ」を意味している。

想い出だけが、

その逝く末の友である。

と言っても、

唯物論者には、想いすらも無いということになるだろうが、

私はそうではない。

生命は永遠であるとの立場であるが、

死は、確実に闇の帳で鬱(ふさ)がれるのである。

物質的な姿も、表現も、何もかもである。

 

そして、

誰しもたった一人で新たな世界に旅立つのだ。

あるのは、想いだけである。

そして、

どんな親しい人との交流も、

少なくとも数年、あるいは数十年間、確実に断絶するのである。

これが、

必ず訪れる人生である。

 

そのためにどう生きれば良いのか?

考えていると、私は厭世的になる。

厭世というのは、世を疎う思いである。

早く、あのに旅立ちたいという思いである。

所詮は、無に帰する人生をどう生きるべきか?

それは、無常の哀しみというべきだ。

 

ところが、

短くても、時としてドラマが訪れる。

人生のドラマである。

そのドラマはひと様々であるから、、

一概に言うことは出来ない。

 

他人から見て、

ドラマというのは烏滸(おこ)がましいという

意見もあるだろう。

しかし、

誰しもドラマが無いということはない。

人生とは、所詮ドラマである。

ドラマには、感動が伴う。

感動は、一瞬の幸福感である。

 

厭世的な気分は、

その感動に出会うと、一瞬にして活性化して、

ポジティブに変容する。

他人様の話でもそれは同じだ。

 

感応すれば同じ感動となる。

そんな感動がこのストリーにはある。


 

何故、

人は常に何かを求めて生きるのであろうか?

月並みに言えば、

幸福の追求である。

それは自分の発見であり、

感応する心の発見に過ぎない。

 

感動がなければ、幸福感はない。

 

11日間という一般的に生存不可能な日時を経て、

カリーナちゃんを発見したのであるから、

言い知れぬ感動があったのであろう・・・。

捜索隊の感動も伝わる。

同時にそれは捜索隊の幸福感である。

そして、

それを誘ったナイダの幸福感でもある。

それを称える銅像にも、

地域の人々の幸福感が伝わるのである。

 

まさに、

人生はドラマである。

ドラマがあるからこそ、

人は生きていけるのである。

そのドラマにより、

心には、新たな感動を覚える。

一度味わった感動は、姿かたちはないけれども、

心に焼き付けられ、黄泉の世界への永遠の友となる。

 

それだけが、財産である。

 

思い起こせば、

取るに足らない人生でも、ドラマは数限りある。

ああすれば良かったという悔いの残るドラマばかりであるが、

そのドラマひとつ一つを通じて、

ささやかな感動がある。

それは、

失われることはない。

 

ドラマとして生きた時の感動は、忘れない。

強烈な場合もあるが、

うっかりすると忘れてしまいそうな場合もある。

 

それでも良いのである。

人それぞれ、

他愛もない感動でも、自分にとっては大きなものだ。

感動が、幸福の全てである。

 

ところで、

そんな思いで、

人生を見渡してみた。

何度も書くが、やりたくてもやれなかった事は数多い。

慙愧の至という思いだ。


只、

一つ気がついたことがある。

あんな事、しなければ良かったという思いは案外少ない。

無いわけではないが、

案外少ないことに気がついた。

したくないことをしてしまったという悔いはキツイものである。

 

したくない事とは、何か?

一概には言えないが、

単純に言えば、人を責めることである。

人生は、

どこまで行っても、自分の人生であるから、

人に左右される筋合いのものではない。


であるから、

人には責任転嫁はできないのである。

仮にしても、意味を成さない。

そして、その後悔は深い・・・。

良かった・・・!

 

「カリーナとナイダのストーリー」で、

小さな感動があった。

厭世感が、一瞬、ポジティブに変容した。

 

【転載開始】

11日間も森の中を彷徨った3才児。でも少女の側を離れなかった存在に、深く心打たれた。

母とシベリアに暮らすカリーナ・チキトヴァは、3才の女の子です。4才の誕生日の数日前、父に会いたくなったカリーナは、父の暮らす隣の村まで行くことにしました。 これまでも何度も1人で歩いたことのある道のりでした。しかし村に到着して父が出かけてしまったことを知ったカリーナは、父を探しに森へと入っていってしまいます。


YouTube/whatevervideos

しかし少女は、シベリアの深い森で道に迷ってしまいます。熊やオオカミが出没す るため、大人でさえあまり足を踏み入れることがない森にカリーナは入ってしまったのです。しかしカリーネは1人ではありませんでした。愛犬のナイダが一緒 だったのです。この一見頼りなさそうなメス犬が、その後カリーナの生死を左右することになります。

YouTube/whatevervideos

カリーナの両親は心配で胸が張り裂けそうでした。母は小さな娘を1人で外に出し てしまったことを深く後悔し、自分を責めました。この地域は7月でも寒く、夜は0度まで冷え込む日もあります。大規模な捜索活動が行なわれましたが、少女 の行方が分からぬまま10日間が過ぎると、誰もが希望を失いかけました。しかし11日目、事態は大きく変化します。カリーネと一緒にいるはずだったナイダ が突然村に戻ってきたのです。


YouTube/whatevervideos

救助隊は、悪い予感がしました。ナイダが戻ってきたのはカリーナが森の中で死ん だからだと考えたのです。しかし村に到着した途端、ナイダはすぐにUターンして再び森の中へ入っていこうとします。救出隊は、半信半疑ながらナイダの後に 続きました。そして数時間後全員が驚きました。ナイダが救急隊を導いた先の草むらにカリーネがいたのです。救急隊を怯えた顔で見つめる少女は、体力を失 い、体も冷えきっていましたが、生きていました。渡されたボトルに入った水をゴクゴクと飲みました。

Youtube/Siberiantimes

その後両親のもとへと帰されたカリーナは、森の中で11日間どう過ごしていたか を説明しはじめました。3才の少女は川の水と野いちごで飢えをしのいでいたこと、熊やオオカミが近づいてきた時にはナイダが大きな声で吠えて追い払ってく れたこと、夜はナイダと身を寄せあって寒さを耐えしのいだことを話しました。裸足でT-シャツ1枚しか着ていなかった小さな少女が、何日も寒い森の中で生 き延びることができたことに皆が驚きました。

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ouTube/whatevervideos

再び娘を腕に抱くことができたカリーネの両親は、この4本足の友人も強く抱きしめたそうです。ナイダはその後村のヒロインとなり、カリーナの住む村にこの犬の勇姿を讃える銅像が建てられました。

YouTube/whatevervideos

その後カリーナはすっかり元気になりました。勇気とあたたかみを与えてくれただけでなく、救助隊をいてくれた命の恩犬ナイダとは、今でも大の仲良しです。

YouTube/whatevervideos※前掲

 救出の瞬間を撮影した映像はこちら(ロシア語のみ):

カリーナとナイダのストーリーは世界中の人を驚かせています。あなたもナイダの忠犬っぷりに感動したなら、家族や友達にシェアしてください!本当に良かったですね。【転載終了】