原子防災について、さよなら!志賀原発ネットワークや県平和運動センター、社民党県連合の三団体で県へ申し入れをおこなう。
原発防災は原発を前提にした議論である。
原発事故の被害が原発に賛成している人にだけ及ぶのならば、私たちは縁のない議論である。
まさに自己責任でやってもらえばいい。
しかし、ひとたび過酷事故が起これば、原発の賛否に関わらずすべての人、そして環境に被害が及ぶ。
3.11前、現実に存在する原発を前にして、過酷事故を想定しない計画ではいざというときに逃げられない、絵に書いた餅のような計画ではダメだと私たちは主張してきた。
残念ながらフクシマは私たちの懸念が現実のものとなってしまった。
そこで国・原子力村は10センチの画餅では小さすぎたので30センチの豪華な画餅をどうぞ!と言ってきた。
これで安心という人がいる。
いやもっと実効性を高めろ、こんな訓練じゃダメだという人もいる。
だけど実効性の議論というのは、絵に書いた餅に対して、もっとアンコを多くしろ!もっと甘さ控えめにしろ!こしあんより粒あんがいいといった類の議論ではないか。
3.11があり、推進側が「これからは過酷事故を想定します」というのは、実はとんでもない「開き直り」である。
どれだけ避難計画の実効性を高めて避難ができても(もちろん、現計画でもみんなが被ばくなしで逃げることは無理だが)、汚染された家や田畑、故郷はには戻れない。長期避難はコミュニティも家族もバラバラにする。子どもたちの教育を受ける権利も損なわれる。生業も失う。避難先で体調を崩し無念の死をむかえた人が1600人を超えている。絶望の中で自死する人も相次いだ。
逃げられれば良しという問題ではない。
フクシマを教訓化するというなら、避難自体が許しがたい人格権侵害だということからスタートし、このような事態に至らないよう、原子力災害を防止する文字通りの「防災」でなければならない。
志賀原発はちょうど3.11から3年8か月、1,2号機とも停止中である。この先も稼働の目途は立っていない。
たとえ北陸電力に経済活動の自由があっても、原発はたかが発電の一手段。
そんな原発のために住民が30キロ圏外へ避難しなきゃいけないというのはどう考えてもおかしい。
そのための訓練として、陸上、海上、航空の自衛隊含め4000人近い人が勢ぞろいし、総理大臣まで出てくるような訓練をしなければいけないこと自体がおかしい。
核燃料を原子炉から取り出せ、使用済み燃料プールから取り出せ。
活断層(の疑い)がある敷地の上からただちに移動させろ。
乾式貯蔵で災害のリスクを下げろと主張する。
今日は原発防災担当課長と原子力安全対策室長の対応であり、議論を深めることはできなかったが、原子力災害を防ぎ、廃炉への具体的な議論のスタートにしていきたい。
以下、今日の申入書である。
石川県知事
谷 本 正 憲 様
さる11月2~3日、志賀原発では初めて国主催の原子力防災訓練が行われました。私たちは今回の訓練も含め、1992年6月に実施された第1回の原子力防災訓練以降、住民参加でおこなわれる訓練については毎回調査行動を実施してきました。ここで明らかになった課題については申し入れや議会質問などを通じて改善を求め続けてきました。根本的な問題点を端的に述べるならば、「万が一、大事故が起これば防災計画は破綻し、住民を守ることはできない」、この一点に尽きます。
実際、福島第一原発事故では、放射能は原発から10km圏の防災計画対象区域をはるかに超えて拡散し、多くの住民が被ばくし大地も海も汚染されました。放射能の拡散予測も全く機能せず、避難した先でより高レベルの被ばくをするという悲惨な事例も数多く起こりました。原発事故に伴う避難が原因で死亡する「原発関連死」は優に1000人を超えています。私たちが指摘してきた防災計画の破たんが残念ながら現実となってしまいました。
しかし、福島第一原発事故による被害の実相は、私たちが危惧した以上に甚大かつ深刻なものとなりました。事故はかろうじて最悪の事態を免れましたが、いまだに収束の見通しは立たず、大量に放出された放射能の影響は空間的、時間的にどこまで及ぶのか、予測すらできません。多くの住民が住居を失い、生業を失い、コミュニティを失い、故郷も失い、もはや3.11以前の暮らしには戻ることは不可能です。被ばくによる不安や恐怖、差別や偏見ともたたかい続けなければなりません。経済的にも精神的にも体力的にも追い詰められ、絶望の中で人生を終える人が相次いでいます。原発事故による避難それ自体が重大な人格権侵害と言わざるを得ません。
原子力防災は「住民の安全・安心」を掲げつつも、極めて限定的な事故しか想定せず、影響も過小評価して、原発推進政策の中に組み込まれてきました。現実に存在する原発がひとたび事故を起こせば賛成・反対の立場に関わりなくすべての住民に被害が及びます。脱原発の立場に立つ私たちは矛盾を感じながらも、住民の命を守るため、原子力防災に関わらざるを得ませんでした。こうして、原子力防災は立場を越えた共通の課題として議論されてきました。福島第一原発事故によって原子力防災の破たんが明らかになり、原発の過酷事故のリスクに十分に向き合い切れなかった私たちとしては、忸怩たる思いが残ります。一方、原発推進側は、過酷事故の想定と避難範囲、避難方法の見直しを柱とした原子力災害対策指針を新たに策定しました。開き直りによる原発推進政策の再構築です。
県は新指針を受けて改訂した原子力防災計画に基づき、その「実効性を高めるため」と称して防災訓練を重ねています。しかし、実効性を高めた到達点として、果たして何が守れるのか、守れないのか。「フクシマの悲劇を二度と繰り返さない」という、原発を巡る立場の違いを越えた共通命題からお互い逃げることなく、原子力防災の議論を深めていかなければなりません。
たとえPAZ(原発からおおむね5km)圏内の住民は放射性被ばくによる確定的影響を回避し、UPZ(おおむね30km)県内の住民は確率的影響を抑えることはできるとしても、フクシマのような広範に及ぶ過酷事故被害に対してはほとんど無力と言わざるをえません。なぜ電気を生み出す一手段に過ぎない原発のために、住民が人格権を根こそぎ奪われるリスクを負わなければならないのでしょうか。住民の生命、財産を守るべき責務を負う自治体が、なぜこのような人格権侵害の訓練に加担するのでしょうか。
原発の安全性神話に加え、「原発がなければ電気は足りない、経済が立ち行かない」という必要性神話も3.11後、崩壊しました。全国すべての原発が停止して、すでに1年2ヵ月。国内ではいわば脱原発状態が継続中ですが、電力供給に何ら問題は生じず、この冬の電力供給も余裕があると見込まれています。志賀原発についていえば、すでに1、2号機ともに停止した状態が3年8か月続いています。今年度中の運転再開は北陸電力すら断念し、再稼働の目途はまったく立っていません。私たちは、志賀原発は本来、建ててはいけないところに建ててしまった原発であり、廃炉は避けられないと考えています。
いずれにしても県民がいま向き合わなければならないのは停止中の原発です。再稼働を前提とした原子力防災訓練を重ねることはナンセンスと言わざるをえません。しかし、ここでもう一つ私たちが向き合わざるを得ない厳しい現実があります。原子炉の中には核燃料が据えられ、使用済み燃料プールにも核燃料が保管されています。万が一、外部電源の喪失等により冷却機能が停止したときのリスクの大きさは、首都圏壊滅すら想定された福島第一原発4号炉によって多くの国民が知るところとなりました。定検中の志賀原発で臨界事故が発生していたことも、忘れるわけにはいきません。
発電は全くせずに電気を消費するだけのコンクリートの建物のために、なぜ住民がこのようなリスクを負わねばならないのでしょうか。今、自治体に求められているのは、あらゆる原子力災害の発生を未然に防止する、文字通りの原子力「防災」対策に全力を注ぐことではないでしょうか。
そこで以下、質問と要望をさせていただきます。
1.現行の原子力防災計画では防げない、あるいは復旧できない過酷事故による被害があると考えるが認識を示せ。
2.停止中の志賀原発の危険性についての認識、および想定されるEAL、OILレベルの事故を公表せよ。
3.停止中の志賀原発で想定されるリスクをゼロにする、あるいは減少させる対策を北陸電力に求めよ。
4.3を踏まえ、停止中の原発のリスクを想定した原子力防災計画を策定せよ。
5.福井県は廃炉・新電源対策室を設けて、使用済み核燃料の貯蔵や廃炉に向けた情報収集と研究に取り組んでいる。県も志賀原発の核燃料の貯蔵や廃炉への対応を検討せよ。
原発防災は原発を前提にした議論である。
原発事故の被害が原発に賛成している人にだけ及ぶのならば、私たちは縁のない議論である。
まさに自己責任でやってもらえばいい。
しかし、ひとたび過酷事故が起これば、原発の賛否に関わらずすべての人、そして環境に被害が及ぶ。
3.11前、現実に存在する原発を前にして、過酷事故を想定しない計画ではいざというときに逃げられない、絵に書いた餅のような計画ではダメだと私たちは主張してきた。
残念ながらフクシマは私たちの懸念が現実のものとなってしまった。
そこで国・原子力村は10センチの画餅では小さすぎたので30センチの豪華な画餅をどうぞ!と言ってきた。
これで安心という人がいる。
いやもっと実効性を高めろ、こんな訓練じゃダメだという人もいる。
だけど実効性の議論というのは、絵に書いた餅に対して、もっとアンコを多くしろ!もっと甘さ控えめにしろ!こしあんより粒あんがいいといった類の議論ではないか。
3.11があり、推進側が「これからは過酷事故を想定します」というのは、実はとんでもない「開き直り」である。
どれだけ避難計画の実効性を高めて避難ができても(もちろん、現計画でもみんなが被ばくなしで逃げることは無理だが)、汚染された家や田畑、故郷はには戻れない。長期避難はコミュニティも家族もバラバラにする。子どもたちの教育を受ける権利も損なわれる。生業も失う。避難先で体調を崩し無念の死をむかえた人が1600人を超えている。絶望の中で自死する人も相次いだ。
逃げられれば良しという問題ではない。
フクシマを教訓化するというなら、避難自体が許しがたい人格権侵害だということからスタートし、このような事態に至らないよう、原子力災害を防止する文字通りの「防災」でなければならない。
志賀原発はちょうど3.11から3年8か月、1,2号機とも停止中である。この先も稼働の目途は立っていない。
たとえ北陸電力に経済活動の自由があっても、原発はたかが発電の一手段。
そんな原発のために住民が30キロ圏外へ避難しなきゃいけないというのはどう考えてもおかしい。
そのための訓練として、陸上、海上、航空の自衛隊含め4000人近い人が勢ぞろいし、総理大臣まで出てくるような訓練をしなければいけないこと自体がおかしい。
核燃料を原子炉から取り出せ、使用済み燃料プールから取り出せ。
活断層(の疑い)がある敷地の上からただちに移動させろ。
乾式貯蔵で災害のリスクを下げろと主張する。
今日は原発防災担当課長と原子力安全対策室長の対応であり、議論を深めることはできなかったが、原子力災害を防ぎ、廃炉への具体的な議論のスタートにしていきたい。
以下、今日の申入書である。
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2014年11月12日
石川県知事
谷 本 正 憲 様
さよなら!志賀原発ネットワーク
共同代表 岩淵 正明
糸矢 敏夫
中垣たか子
石川県平和運動センター
代表代行 糸矢 敏夫
社民党石川県連合
代 表 盛本 芳久
共同代表 岩淵 正明
糸矢 敏夫
中垣たか子
石川県平和運動センター
代表代行 糸矢 敏夫
社民党石川県連合
代 表 盛本 芳久
申 入 書
さる11月2~3日、志賀原発では初めて国主催の原子力防災訓練が行われました。私たちは今回の訓練も含め、1992年6月に実施された第1回の原子力防災訓練以降、住民参加でおこなわれる訓練については毎回調査行動を実施してきました。ここで明らかになった課題については申し入れや議会質問などを通じて改善を求め続けてきました。根本的な問題点を端的に述べるならば、「万が一、大事故が起これば防災計画は破綻し、住民を守ることはできない」、この一点に尽きます。
実際、福島第一原発事故では、放射能は原発から10km圏の防災計画対象区域をはるかに超えて拡散し、多くの住民が被ばくし大地も海も汚染されました。放射能の拡散予測も全く機能せず、避難した先でより高レベルの被ばくをするという悲惨な事例も数多く起こりました。原発事故に伴う避難が原因で死亡する「原発関連死」は優に1000人を超えています。私たちが指摘してきた防災計画の破たんが残念ながら現実となってしまいました。
しかし、福島第一原発事故による被害の実相は、私たちが危惧した以上に甚大かつ深刻なものとなりました。事故はかろうじて最悪の事態を免れましたが、いまだに収束の見通しは立たず、大量に放出された放射能の影響は空間的、時間的にどこまで及ぶのか、予測すらできません。多くの住民が住居を失い、生業を失い、コミュニティを失い、故郷も失い、もはや3.11以前の暮らしには戻ることは不可能です。被ばくによる不安や恐怖、差別や偏見ともたたかい続けなければなりません。経済的にも精神的にも体力的にも追い詰められ、絶望の中で人生を終える人が相次いでいます。原発事故による避難それ自体が重大な人格権侵害と言わざるを得ません。
原子力防災は「住民の安全・安心」を掲げつつも、極めて限定的な事故しか想定せず、影響も過小評価して、原発推進政策の中に組み込まれてきました。現実に存在する原発がひとたび事故を起こせば賛成・反対の立場に関わりなくすべての住民に被害が及びます。脱原発の立場に立つ私たちは矛盾を感じながらも、住民の命を守るため、原子力防災に関わらざるを得ませんでした。こうして、原子力防災は立場を越えた共通の課題として議論されてきました。福島第一原発事故によって原子力防災の破たんが明らかになり、原発の過酷事故のリスクに十分に向き合い切れなかった私たちとしては、忸怩たる思いが残ります。一方、原発推進側は、過酷事故の想定と避難範囲、避難方法の見直しを柱とした原子力災害対策指針を新たに策定しました。開き直りによる原発推進政策の再構築です。
県は新指針を受けて改訂した原子力防災計画に基づき、その「実効性を高めるため」と称して防災訓練を重ねています。しかし、実効性を高めた到達点として、果たして何が守れるのか、守れないのか。「フクシマの悲劇を二度と繰り返さない」という、原発を巡る立場の違いを越えた共通命題からお互い逃げることなく、原子力防災の議論を深めていかなければなりません。
たとえPAZ(原発からおおむね5km)圏内の住民は放射性被ばくによる確定的影響を回避し、UPZ(おおむね30km)県内の住民は確率的影響を抑えることはできるとしても、フクシマのような広範に及ぶ過酷事故被害に対してはほとんど無力と言わざるをえません。なぜ電気を生み出す一手段に過ぎない原発のために、住民が人格権を根こそぎ奪われるリスクを負わなければならないのでしょうか。住民の生命、財産を守るべき責務を負う自治体が、なぜこのような人格権侵害の訓練に加担するのでしょうか。
原発の安全性神話に加え、「原発がなければ電気は足りない、経済が立ち行かない」という必要性神話も3.11後、崩壊しました。全国すべての原発が停止して、すでに1年2ヵ月。国内ではいわば脱原発状態が継続中ですが、電力供給に何ら問題は生じず、この冬の電力供給も余裕があると見込まれています。志賀原発についていえば、すでに1、2号機ともに停止した状態が3年8か月続いています。今年度中の運転再開は北陸電力すら断念し、再稼働の目途はまったく立っていません。私たちは、志賀原発は本来、建ててはいけないところに建ててしまった原発であり、廃炉は避けられないと考えています。
いずれにしても県民がいま向き合わなければならないのは停止中の原発です。再稼働を前提とした原子力防災訓練を重ねることはナンセンスと言わざるをえません。しかし、ここでもう一つ私たちが向き合わざるを得ない厳しい現実があります。原子炉の中には核燃料が据えられ、使用済み燃料プールにも核燃料が保管されています。万が一、外部電源の喪失等により冷却機能が停止したときのリスクの大きさは、首都圏壊滅すら想定された福島第一原発4号炉によって多くの国民が知るところとなりました。定検中の志賀原発で臨界事故が発生していたことも、忘れるわけにはいきません。
発電は全くせずに電気を消費するだけのコンクリートの建物のために、なぜ住民がこのようなリスクを負わねばならないのでしょうか。今、自治体に求められているのは、あらゆる原子力災害の発生を未然に防止する、文字通りの原子力「防災」対策に全力を注ぐことではないでしょうか。
そこで以下、質問と要望をさせていただきます。
記
1.現行の原子力防災計画では防げない、あるいは復旧できない過酷事故による被害があると考えるが認識を示せ。
2.停止中の志賀原発の危険性についての認識、および想定されるEAL、OILレベルの事故を公表せよ。
3.停止中の志賀原発で想定されるリスクをゼロにする、あるいは減少させる対策を北陸電力に求めよ。
4.3を踏まえ、停止中の原発のリスクを想定した原子力防災計画を策定せよ。
5.福井県は廃炉・新電源対策室を設けて、使用済み核燃料の貯蔵や廃炉に向けた情報収集と研究に取り組んでいる。県も志賀原発の核燃料の貯蔵や廃炉への対応を検討せよ。
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