朝日新聞出版発行の「原発と裁判官 なぜ司法はメルトダウンを許したか」(2013.3.30発行 著者:磯村健太郎、山口栄二)を読む。
福島第一原発事故を招いた責任の大半は言うまでもなく原発推進による利益共同体である原子力ムラにある。
しかし、原発事故の危険性を訴え、この間実に多くの原発裁判が提訴されてきた。
勝訴判決はもんじゅ訴訟控訴審判決(名古屋高裁金沢支部)と志賀2号機運転差止訴訟地裁判決(金沢地裁)だけであり、両者とも上級審で判決は覆され敗訴が確定している。
福島第一原発の地震や津波による危険性を指摘し争った裁判はないが、結果的に司法は日本の原発の安全性にことごとくお墨付きを与えてきたことは間違いない。
そんな司法が3.11で変わるのか?変わったのか?
この本はこの間の原発裁判にかかわってきた裁判官の証言をもとに司法が原発にどのように向き合ってきたかを検証し、原発訴訟の行方を考えたものだ。
「志賀原発を廃炉に!訴訟」の進行上、参考になることがたくさんある盛り込まれているのは言うまでもないが、それにとどまらず日本の司法制度の問題点や三権分立との関係もふくめた統治機構の実態を知る上でも貴重は書である。
原告敗訴を言い渡してきた裁判官の証言を読んで驚くのは、裁判官も法律の専門家ではあるが多くの国民と同じく原発の安全神話を信じる一市民に過ぎなかったという事実だ
判決文でしばしば登場する「社会観念上」の根拠について、率直に「あれは、当時の私の社会観念です」と答える元裁判長。
3.11後、息子の過程では孫のためにわざわざ北海道の牛乳を選んでいる。それが不合理かどうか言ってもはじまらず、それが現実の経済活動であり、自分の子どもに「不の遺産」を負わせたくないという親の気持ちを思うと「私自身の考え方も変わってきました」と語る。
原告に対する先入観、偏見に近い捉え方だったことを率直に認める元裁判長もいる。
志賀の差止判決を書いた井戸謙一さん(現在は弁護士)は裁判の判断自体も国民の意識を反映する部分があり、国民世論に影響される面は否めないとしつつ、「裁判官が国民の意識の後追いをしているようでは、裁判官の存在意義がない」と明快に語る。
ここに登場する元裁判長は3.11が突きつけた現実、そして国民意識の多くな変化が、司法にも変化をも荒らすだろうと予測する。
ただ、その一方で日本の裁判所を仕切る最高裁事務総局の存在など、司法を取りまく構造的な問題の存在が変革の大きな壁になっているとの指摘もある。
そういう意味で、志賀の裁判も裁判官の意識の変化に的確に対応した展開を考えなければならないし、世論の中で原発事故が風化していかないよう、法廷外の取り組みを強化していくことも大切だということがくっきりと見えてくる。
弁護団の皆さんの多くはすでに読んでいるはずだが、原告の皆さん、全国の原発裁判にかかわっている人の必読の書である。
学校で学んだ三権分立は私たちの夢でした。
もっと公正な公平な納得できる司法の在り方に期待しています。
こんなご時世なのでなおさら強く望んでいます。