2月14日は、先月逝去された富士市・東光寺の住職小澤常敏先生の本葬が東光寺にて執り行われる。
またこの日は、大先輩の中村正明氏の三回忌にあたる。
中村さんは、以前勤務した会社で一方ならぬお世話になった方である。
中村さんに初めて会ったのは、私がその会社に入り三度目の職場、20代の後半に入った頃であった。大手町にあった職場で、人事担当の末席で仕事をしていた。
正直なところ、当時の私は腐っていた。不貞腐れていた。投遣りであった。
その職場には、同期のMが隣の課に先に転勤していた。(Mは残念ながら一昨年、癌で逝ってしまった)
当時の始業時間は、八時半。何時も10分程遅刻をしていた。そして、出勤するや、Mと示し合せ、隣のビルにある喫茶店でモーニングコーヒーを飲み、20分ほど時間を潰すのが常であった。
Mが此処に転勤になった時、私の処に来て言った言葉「飛ばされちゃったよ」だった。
私は、そんなこと無いじゃないと、慰めたが。
その私が、半年遅れて同じ職場に転勤となった。Mに云った、俺も飛ばされたよ!
私のそんな態度に、係長は業を煮やしていた。(当然だ)
偶然にも、中村さんは私の剣道の先輩であるKさんの直接の上司であったが、私が勤務する職場の課長として、半年後に着任された。奇遇にも、中村さんと私は同郷であった。
そんな、幾つかの偶然の結果なのか、殊のほか私に眼を掛けてくれた。
或る時、係長が課長に言ったと云う。「A(私)はしようがないです」と。
課長は、「お前の指導がなってないからだ」と応えたそうだ。
係長には、申し訳ない話だった。
そんな課長に僕が言っていたのは、「このまま此処に居るのだったら、僕は辞めますよ」だった。何度か、そんなことを言った覚えがある。(生意気な小僧だった。しかし、本当に辞めて捲土重来を期すつもりだった)
人事担当の仕事(作業)は忙しかった。特に、2月から4月にかけてと、秋が多忙だった。
仕事といっても、私の場合は資料の用意・整理、コピー焼き、データー投入の単純作業であったが、追われていた。
何の発見もなく、しなかった。(資料の揃え方、折り方は上手くなった)
作業は、深夜に及ぶことが常態だった。帰宅は、零時が普通。
或る時、泊まりが続き、一人で作業を終え、夜中に会議室の床に布団を引いて横になった。眼を瞑り寝ようとすると、心臓の鼓動が早くなり・高まった。寝れば、このまま死ぬと思った。(泊まりの時は、3時・4時が普通、時には明け方まで作業をする)
忙しい事が嫌だった訳ではない。単純な作業が嫌だった。
引込み線に入ったと思えるレールの上にいることが耐えられなかった。サラリーマンとしての前途が見えなかった。
中村さんに出会えず、そこでサラリーマンを続けていれば沈んでいただろう。
中村さんが、そんな私を救ってくれた。翌年、本社に転勤をさせて貰った。
私だけではない。人事担当は、全員転勤した。隣の給与担当も半分が異動した。
皆、上部機関や役職が付いての、所謂栄転であった。
担当、全てが変わることなど考えられない人事異動であったが、中村さんは、心配ないよ、何とかなると泰然としていた。
転勤後も何かと気に掛けていただき、三十余年に亘りご厚誼を頂いてきた。
一昨年、亡くなる前日に電話を貰った。
「医者からなんともないと云われた、これからゴルフもバンバンやるよ。処でUさんの仕事は順調かな」と云い、私やU氏のことを気に掛けていた。
それまでの一年有余、目眩がするとのことでゴルフや酒も控え目にされていたが、医者からのお墨付きも貰ったので、気にしないようにするとのことだったが・・・。
その中村さんが、翌日に突如自宅で倒れ、還らぬ人となった。
忙しい人だった、人の面倒を徹底して見る人だった。
ゴルフは下手だったが好きで、私も同じゴルフ場のメンバーとなった。自宅に泊めて貰い、早朝から奥様もご一緒にコースに出た。
鮎釣りが好きで、夏が近づくと私の故郷の川の溯上や各地の河川状況を聞いてきた。
お世話になりっぱなしだった中村さん。同じく三十有余年前に合宿でお世話になり、その後、年賀状を通じて交流頂いてきた小澤先生。
明日は、富士での葬儀に参列した後、戸塚の中村さんの墓前参ろう。
またこの日は、大先輩の中村正明氏の三回忌にあたる。
中村さんは、以前勤務した会社で一方ならぬお世話になった方である。
中村さんに初めて会ったのは、私がその会社に入り三度目の職場、20代の後半に入った頃であった。大手町にあった職場で、人事担当の末席で仕事をしていた。
正直なところ、当時の私は腐っていた。不貞腐れていた。投遣りであった。
その職場には、同期のMが隣の課に先に転勤していた。(Mは残念ながら一昨年、癌で逝ってしまった)
当時の始業時間は、八時半。何時も10分程遅刻をしていた。そして、出勤するや、Mと示し合せ、隣のビルにある喫茶店でモーニングコーヒーを飲み、20分ほど時間を潰すのが常であった。
Mが此処に転勤になった時、私の処に来て言った言葉「飛ばされちゃったよ」だった。
私は、そんなこと無いじゃないと、慰めたが。
その私が、半年遅れて同じ職場に転勤となった。Mに云った、俺も飛ばされたよ!
私のそんな態度に、係長は業を煮やしていた。(当然だ)
偶然にも、中村さんは私の剣道の先輩であるKさんの直接の上司であったが、私が勤務する職場の課長として、半年後に着任された。奇遇にも、中村さんと私は同郷であった。
そんな、幾つかの偶然の結果なのか、殊のほか私に眼を掛けてくれた。
或る時、係長が課長に言ったと云う。「A(私)はしようがないです」と。
課長は、「お前の指導がなってないからだ」と応えたそうだ。
係長には、申し訳ない話だった。
そんな課長に僕が言っていたのは、「このまま此処に居るのだったら、僕は辞めますよ」だった。何度か、そんなことを言った覚えがある。(生意気な小僧だった。しかし、本当に辞めて捲土重来を期すつもりだった)
人事担当の仕事(作業)は忙しかった。特に、2月から4月にかけてと、秋が多忙だった。
仕事といっても、私の場合は資料の用意・整理、コピー焼き、データー投入の単純作業であったが、追われていた。
何の発見もなく、しなかった。(資料の揃え方、折り方は上手くなった)
作業は、深夜に及ぶことが常態だった。帰宅は、零時が普通。
或る時、泊まりが続き、一人で作業を終え、夜中に会議室の床に布団を引いて横になった。眼を瞑り寝ようとすると、心臓の鼓動が早くなり・高まった。寝れば、このまま死ぬと思った。(泊まりの時は、3時・4時が普通、時には明け方まで作業をする)
忙しい事が嫌だった訳ではない。単純な作業が嫌だった。
引込み線に入ったと思えるレールの上にいることが耐えられなかった。サラリーマンとしての前途が見えなかった。
中村さんに出会えず、そこでサラリーマンを続けていれば沈んでいただろう。
中村さんが、そんな私を救ってくれた。翌年、本社に転勤をさせて貰った。
私だけではない。人事担当は、全員転勤した。隣の給与担当も半分が異動した。
皆、上部機関や役職が付いての、所謂栄転であった。
担当、全てが変わることなど考えられない人事異動であったが、中村さんは、心配ないよ、何とかなると泰然としていた。
転勤後も何かと気に掛けていただき、三十余年に亘りご厚誼を頂いてきた。
一昨年、亡くなる前日に電話を貰った。
「医者からなんともないと云われた、これからゴルフもバンバンやるよ。処でUさんの仕事は順調かな」と云い、私やU氏のことを気に掛けていた。
それまでの一年有余、目眩がするとのことでゴルフや酒も控え目にされていたが、医者からのお墨付きも貰ったので、気にしないようにするとのことだったが・・・。
その中村さんが、翌日に突如自宅で倒れ、還らぬ人となった。
忙しい人だった、人の面倒を徹底して見る人だった。
ゴルフは下手だったが好きで、私も同じゴルフ場のメンバーとなった。自宅に泊めて貰い、早朝から奥様もご一緒にコースに出た。
鮎釣りが好きで、夏が近づくと私の故郷の川の溯上や各地の河川状況を聞いてきた。
お世話になりっぱなしだった中村さん。同じく三十有余年前に合宿でお世話になり、その後、年賀状を通じて交流頂いてきた小澤先生。
明日は、富士での葬儀に参列した後、戸塚の中村さんの墓前参ろう。