オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

何時もの如く・・・

2011-11-07 | Weblog

11/7(月) 昨日の日曜日、夕方に高知から帰京した。木曜日の早朝に羽田を発っ、朝早かった所為かデジカメを持参忘れ。由に畑の写真が撮れなかった。(携帯電話では撮ってみたが・・・)

高知では雨が続いた。まともに畑仕事ができたのは金曜日だけ。その日も親父と叔父が田圃のコスモスを見に行こうと朝から急かされた。午後二時で畑仕事を切り上げ、羽根町大畠地区(室戸市)の山の田圃に播種されたコスモス見物に同行した。

小さな川沿いの山里。何枚かの田圃の稲刈り後に、地元の方々が種を播き咲かせている。村興しの一つか・・・。花丈は短いが、晩秋の柔らかい陽射しを受けて可憐に揺れていた。

                         

この羽根町を通る度に思い出すのが、今春に亡くなられた岡宗先輩のことである。先輩の生家は、この町の医院であった。大学に入る春、家を訪ねて色いろと話を聞かせて貰った。それ以来、ご厚誼を得てきたが不慮の事故に遭われた。国道沿いのその生家跡を通過する度、数十年も前となる春のことを思いだす。

さて、畑は10月の中旬に帰省して手入れをしたばかり。夏も終り、草の伸びも鈍って草刈は楽であった。その代わりに、畑を耕して絹サヤ・空豆・タマネギ・小松菜などを植え撒いた。植えたのはタマネギである。タマネギの小さな苗球を150本ほど植えた。

                          

                        文旦がたわわに稔り、色付き始める

土曜日も雨、畑仕事ができない。午後から、両親・叔父と従姉で田野町に在る「二十三士温泉」へと出かけた。風呂に浸かり、魚などを購って夕食は自宅にて叔父も交えてであった。帰省する度、一度は叔父も交えての食事となる。叔父は拙宅の隣に一人暮らし。兄弟同然に育ってきた従弟のアキラが早世して早や二十数年となる。娘は遠くに嫁に行き、妻はここ数年意識不明のままで入院。そんな叔父だが、愚痴は言わない・・・。

田舎は老人ばかり也、老老介護の現実がある。妹が近所にいるのでおお助かりだが、老人を相手にする彼女の負担を思うと申し訳ない。そんな田舎なれど、吾が故郷・・・。

 何時ものような弁当なれど・・・

今朝、五日ぶりに弁当を作る。メニューといえば変り映えなしの「鶏肉と根菜の煮物」「豚肉と野菜の炒め」「卵焼き」「鮭焼」であった。夜中にで目覚めてそのまま起きた出したのだ。新聞をじっくりと読み、愚図愚図と飯を炊き、菜を作る。

                     

食材は鶏・豚・大根・人参・椎茸・タマネギ・ピーマン・シメジ・甘塩時鮭・卵三個であった。作った弁当は三人前、今日から暫しの間、私は弁当を持たないこととした。田舎で食の細くなった両親の飯を作り、殆どを私が食す有り様。控えなくては・・・。

                         

何時ものペースで菜を作り、余った余った・・・。ご飯の上は、椎茸昆布の佃煮(これが旨い)。デザートに柿でも入れようと準備はしてみたが、入りやしない!

 「余 話」

 二十三士は、幕末・土佐勤王党の盟主であった武市瑞山の思想に呼応した安芸郡の郷士23名のことである。何故に二十三士かというと、入牢の武市釈放を嘆願するために立ち上がり捕縛される。今、温泉施設が建つ、奈半利河原において斬首された。明治となり名誉回復、その遺徳を顕彰した「二十三士の慰霊碑」が在ることから、温泉名もそれに因んでいる。

 の件だが、夢中で私はサラリーマンだった。既に亡くなった昔の上司からオーダを受けて、後輩の部下に対応を指示していた。夢から覚め、他の手立てが幾つか浮んだ。夢の続きを、対応策をウツツの中で検討していた。三つ子の魂、百までか・・・。

 

コメント
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