オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

親子煮

2018-03-14 | Weblog

3月14日(水) 出勤して気が付いたが、今日はホワイトディとか云う日らしい。先月に頂いた義理チョコのお返しをする日だそうだ。孫娘の小1のSORAから重ね重ね言われたのを思い出す。未だ、アイスのガリガリくんあたりで満足しそうだが・・・。会社の女性陣が買い置いた(皆で頂いた)義理チョコのお返しは・・・・、三越辺りで見繕ってくるか・・・・。俄然忙しくなってきたな

 そんな次第で、急遽、三越へと買い物に行ってきた。昼や午後になると、界隈のサラリーマンで大混雑するのだ。それでも、午前中とはいいながらもチョコレートやクッキーを求める背広姿が目立った。お前もそのうちの一人と言われるだろうが、あにはからんや、こっちはジャンバー姿の貧乏スタイルで店員も見向きもしない。が、ウイスキーボンボンならぬブランデーボンボンをホワイトディのお返しにした。

その帰り、中央通から一本昭和通に近い通りにある「おかめ桜」並木が、桃色の小さな花弁を未だ付けていた。この桜は二月から咲いているはずだが、今年初めて目にした。染井吉野の開花がもうすぐだと云うのに、未だ咲いていたとは・・・・。

                       

隣の八百屋が店を閉めて、小母さんの「行ってらっしゃい」の声を聞けなくなったが、代わりに家人の母親が先週末から同居を始めた。今じゃ義母の「行ってらっしゃい」に見送られて家を出るようになった。

その義母の朝食は、弁当の菜と同じものにしている。家人からは、血圧が高いので薄味にとの注意がでている。私と長女は濃いめの味付けを好むが、家人は薄味を好む。

今朝の弁当は「親子煮」となった。それと「ブリ照り焼き」と「小松菜の胡麻炒め」である。鶏肉とブリ切り身は昨夜の帰りに買った。と云うことは、前夜にメニューが決まっていたことになる。福岡空港で買った「明太子」も少し加えることになったが・・・。

                   

前夜のうちにメニューが決まると楽だ。あれこれと悩むことがない。決めたメニューでまっしぐらに進めばいいのだから。仕事も同じか・・・。

そんな次第で、今朝のお仕事は淡々と進んだのである。長女は「親子丼」弁当にしたが、家人は「親子煮」である。今日の親子には薄味だが、小松菜の方が濃い味になってしまった。

                      

 

さて・・・・、昨日のことを少し記す。

昨日は昼過ぎに「奈加野」に寄った。この店の主人から「猪肉」がないかと言われ、手持ちの猪肉を届けたのである。明日来る客から猪肉を頼まれたが、田舎の同級生に連絡しても入手できなかったそうだ。10月のベッタラ市ように冷凍保存してあったのを分けた次第。

店に品物をおいて、直ぐに新橋へと向かった。今月末で完全退職となるかっての部下、O氏から「一杯付き合ってくれ」と言われていた。その待ち合わせ時間が午後二時で、烏森神社の先にある安酒場「赤札屋」である。ここは超がつく安酒場なのだ。ジョッキチューハイが百円だからね。どんな焼酎を使っているかは押して知るべしだが・・・・。

O氏と会うのは一年振りぐらいか。この安酒場で何度かご一緒している。『ご苦労さまでした』と一応労い、行く末について訊きながらジョッキを重ねた。他所の広告会社から転職してきた彼とは、27~8年前に出向したグループ会社で二年程一緒だった。それ以来、時折一緒に飲んでいる。

『申し訳ないが、今夜お通夜に行く予定ができた。それほど深酒はできないんで勘弁な』と、伝えたが・・・・。思いで話や、壊れかかっていた家庭のことなどを聴いているうちにすっかり酔いが回っていた。ブレーキを掛けるのに苦労したが、退職してひと段落したらまた飲もうと、四時頃に別れた。

新井さんのお通夜は、上野池之端の寺で午後六時から。この間に酔いと顔の火照りを覚ますことにした。人形町に戻り、ドトールでアイスコヒーを飲み、三十分ほど帰社した。そして、丁度六時に「東淵寺」に入った。

服飾デザイナーの新井俊二さんとは、サラリーマン時代の昭和61年、電電公社が民営化された翌年になるが、ユニホームの担当として着任してお会いした。一新された制服のデザイン監修をお願いしていた。と云うことは、三十年余も経ったことになるか・・・・。

当時、先生の事務所は日本橋小舟町にあった。人形町駅から徒歩6~7分の処であった。毎月のように先生の事務所に伺い、打ち合わせなどをしていた。小舟町は、我が社がある堀留町の隣町で、先生の事務所が在ったビルと、我が社とは200m程しか離れていない。人形町にご縁があった訳だが、その当時は知る由もない。

先生の事務所はその後、本郷~神田と移るが、お付き合いはつづいた。こっちが一方的に教えを乞うことばかりだったが。温厚で語り口がサッパリしている先生の話は判り易く、経験と造詣の深さから説得力があり、かつ柔軟であった。ユニホーム担当として二年間、先生のお出ましを願って現場の声を聴きに、拾いに何か所も廻ったのでよく判る。

現場ヒヤリングでは、デザイナーさんを同伴しますと云うと、勝手に妙齢の女性デザイナーを思い浮かべそうなので『オジサンのデザイナーさんです』と付け加えるようにした。

失敗談は一つ。道東では未だ寒さが残る四月初旬、帯広に行くことになった。処が、飛行機の飛ぶ時間になっても先生は現れない。現場での時間は決まっており先行した。ヒヤリングも全て終わってから先生は到着した。その日の宿泊先、十勝川温泉の宿で風呂に入り酒を飲むだけのことになった。が、悪びれた様子もなく元気だった。

転勤後もお付き合いいただき、タイ、私が企画元であったスペイン・バルセロナの万国博覧会ツアーの旅にも参加頂いた。良き時代であった。

数年前から体調を崩されていたが、事務所には顔をだしていたとのことだ。私は一年ほどご無沙汰をしていたが、ご様子はT物産社長のOKAZAKIさんから入っていた。だが訃報が届くとは思いもしなかった。享年八十四歳とのことである。

通夜のお浄めの後、OKAZKIさんとお茶を飲みながら、先生との思い出など語りあった。

 

明日から帰省するが、今回は一週間と長い。春のお彼岸があるのでそれまで滞在し、今年第一回の草刈をせねばならぬ。この時期に草刈をしないと、四月になって大変な目に遇うのだ。帰京は、3月21日の祝日。

桜の蕾も膨らみが大きくなってきた。花見も直ぐだ・・・・・。

 

 

 

 

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