《前回の続き》
こちらは明治初年の駒場あたりの地図なのですが、地図というよりも江戸切絵図のように絵そのものって感じかな?
こちらは明治初年の駒場あたりの地図なのですが、地図というよりも江戸切絵図のように絵そのものって感じかな?
とはいえ、測量技術も拙い時期に、まだまだお江戸の風情が残る郊外がずいぶん精確に描かれているのはスゴイな。。😯
そんな川であっても川でない?不思議な空川のお散歩の続きを。。。
🐾
現在はほとんどの場所で立ち入りが禁止されている空川の跡。
そんなお宅を見上げると、木造トタン張りでしかも三階建てなんですねーっ❗️😳(現在は改築されています)
この先の蛇行する暗渠沿いにも、なかなか楽しいレトロな箇所があります👀(ここも改築されてます)
暗渠とあわせた路上観察もなかなか油断できないこのコースっ😆
それでも、横手の路地奥の階段に気づくと、ここが川底だったことがなんとなくはわかりますね(地図10番)
どうやら、このあたりで空川の3つめの水源で駒場東大内の一二郎池からの流れが合流していたはずですが、当時はここが一面の田んぼだったため、流路との境が曖昧だったのかもしれません。
暗渠は淡島通りを越えて、今は失われた旧遠江橋へと続いていきます。(地図11番)
お地蔵さまの隣にいまも残る橋の親柱は、江戸時代と明治末頃のもの。
駒場東大周辺の三ヶ所を水源に持つ空川も青彩色で描かれています。
お次は、明治末の地図を見てみると…👀
何故か?地図に川が見当たらなくなっていますので、青線を入れてみましたが、明治になると空川は単なる用水路のような存在になっていたのかもしれませんね。
お次は、明治末の地図を見てみると…👀
何故か?地図に川が見当たらなくなっていますので、青線を入れてみましたが、明治になると空川は単なる用水路のような存在になっていたのかもしれませんね。
そんな川であっても川でない?不思議な空川のお散歩の続きを。。。
🐾
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現在はほとんどの場所で立ち入りが禁止されている空川の跡。
それでも古地図を見ながら暗渠を付かず離れず辿っていくと、やっと台地から川へと下り立つことができました。(古地図7番)
家屋の隙間を縫うように川跡を歩いた先に、護岸部分がガンタ積みと言われるレンガやコンクリートで組まれた基礎を持つお宅を発見しました。
家屋の隙間を縫うように川跡を歩いた先に、護岸部分がガンタ積みと言われるレンガやコンクリートで組まれた基礎を持つお宅を発見しました。
よく見るとレトロな陶菅もなかに通っていますね👀
そんなお宅を見上げると、木造トタン張りでしかも三階建てなんですねーっ❗️😳(現在は改築されています)
この先の蛇行する暗渠沿いにも、なかなか楽しいレトロな箇所があります👀(ここも改築されてます)
暗渠とあわせた路上観察もなかなか油断できないこのコースっ😆
こちらの左手お宅もよく見ると、コンクリートブロックの外壁と塀が一体になっていて、なかなかトリッキーですね。
幅広い道路に出て、もう一度暗渠を振り返ってみました。(地図9番・左手建物と空き地には現在マンションが建っています)
ここまで来ると曲がりくねった道に流路のあとをわずかに窺いしるのみ。。
幅広い道路に出て、もう一度暗渠を振り返ってみました。(地図9番・左手建物と空き地には現在マンションが建っています)
ここまで来ると曲がりくねった道に流路のあとをわずかに窺いしるのみ。。
淡島通りも近くなると、高い建物が多くなり、まわりの雑踏もなんだか気になり始めて来ました。
それでも、横手の路地奥の階段に気づくと、ここが川底だったことがなんとなくはわかりますね(地図10番)
どうやら、このあたりで空川の3つめの水源で駒場東大内の一二郎池からの流れが合流していたはずですが、当時はここが一面の田んぼだったため、流路との境が曖昧だったのかもしれません。
暗渠は淡島通りを越えて、今は失われた旧遠江橋へと続いていきます。(地図11番)
かつて、松見坂地蔵堂横に造られた小さな太鼓橋には、鷹狩りの徳川将軍が、そして明治に入ると明治天皇が行幸で渡った立派な歴史があったとか。。
お地蔵さまの隣にいまも残る橋の親柱は、江戸時代と明治末頃のもの。
かつての松見坂道路拡張工事で近くの敷地に捨てられていたのを、ここに持って来たそうですよ。
そんな空川の暗渠道は、山手通り手前のビルの合間でとうとう途切れてしまいました。
山手通りまで上がると思いっきり都会ですね…いままでの足跡がウソのようだっ😓
さて、帰ろっ🐾
そんな空川の暗渠道は、山手通り手前のビルの合間でとうとう途切れてしまいました。
山手通りまで上がると思いっきり都会ですね…いままでの足跡がウソのようだっ😓
さて、帰ろっ🐾