マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

浜松町・大名屋敷跡地の謎の富士

2015-05-24 | 街歩き・歴史散歩

再び、先日歩いた浜松町の赤穂藩森家上屋敷跡地に関わる話を。。
またもや、マニア度が高すぎますね💧



こちら、毎度おなじみアプリで出した明治9年~19年の芝愛宕下の地図なのですが、地図というよりも詳細な絵図。
まさに当時を知る貴重な「読み物」ですねっ❗️

例えば、、👀
地図の上には東京馬車鉄道会社🚂という文字が読めますが、そこから南へ続く線路沿いを、庭に池を配した立派な邸宅が並んでいます。

この地図が作られたのはまさに明治の黎明期✨✨
新橋の停車場を出発した日本初の蒸気機関車が横浜に向けて走る光景を、自分の家から眺めることは、当時はかなりのステイタスだったのかもしれませんね❗️



そんな古地図の一箇所をクローズアップしてみます。

緑の枠内が赤穂藩森家上屋敷の跡地ですが、官軍が江戸に入城するや否や、ほとんどの大名屋敷は門や塀だけを残して、取り壊されてしまったため、この森家の敷地もずいぶん細かく分譲されたことがわかります。
因みに近頃ニュースになった江戸時代の人骨がたくさん発掘された工事現場は、当時は人の家の庭になってますなっ🤔

ところで、今回ワタシが注目したのは、線路に面して描かれたやけにデカい「富士山」なのです🗻❗️

おまけに、隣には富士五湖に見立てたような池まで配されていて、あわせて大きな屋敷もあったようです。
ここは一体どんなセレブのお宅だったんでしょうか。。。気になるっ🤔


で、携帯片手に調べると、当時の芝区神明町21番は扶桑教会という富士講の本部にあたる場所だったようです。

江戸時代には、民衆の厚い信仰をもとに隆盛した富士講も、明治の厳しい宗教政策で、かなりの混乱を極めたらしいのです。
そこである宗教者が、分裂した組織を統一してこの扶桑教会をつくり、旧赤穂藩の屋敷跡の一部を買い取り、移築した元華族の邸宅を本部にして、同時にこの大きな富士山も造築した。。
というのが地図に描かれるまでの経緯のようですね。

おそらく富士山左側の紫色で彩色された大きな邸宅が、その本部棟かと思われますが、蒸気機関車に乗って新橋を離れて間もなく目にする大きな富士山には、当時の乗客もさぞびっくりしたでしょうね。。
まさに100年先の東海道新幹線から見える本物の富士山を予見しているみたいなミステリーっ😆⁉️

その後の扶桑教は明治後半には渋谷の桜丘町へ移転したため、現在その場所には富士の遺構は全く残ってないのは、なんだか残念ですね。


……というわけで、今回も古地図で見つけた不思議なものから、予想もしない展開に、歴史の枠が広がっちゃいました。
それが地図読みの楽しみってことなんですかね?

コメント
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