
ウチの近くの緑道のベンチで乾いた空を見ている週末。。。
外出規制じゃ遠出も無理💧
で、どこをぶらぶらしよーかな。。と、ちょっと考えて、以前近くの図書館の郷土史本で読んだ昭和初期の旧道沿いの商店街マップがなかなか面白かったことを思い出しました。
その旧商店街は、たびたびのご近所散策で歩いている昔の淡島通りの先。
滝坂道とむか〜しは言われていまして、環七の若林陸橋のすぐ脇に戦前は100軒以上のお店が連なっていたようです。
世田谷役場もここにあったらしいので、その繁栄が窺い知れますね。。
そんな大きな賑わいを見せた商店街が90年近く経ったいま、どれほどが残っているのか❓❓ちょっと歩いてみたくなりました。

今回の商店街散策は、代田中筋バス停から淡島通りを外れて、旧道(滝坂道)を入るところから始まります👀
淡島通りがなかった昭和初期には、この滝坂道が渋谷道玄坂から経堂方面に続く、唯一のバス道路だったようですね。

そんな昭和10年から15年当時の滝坂道商店街を描いた図(部分)がこちらになりますが、現存の店には今後マーカーをつけていくことにします。
道沿いには100店舗ほどがズラリと描かれていますが、よくここまで覚えていたもんだ、、とまずは作者に感心してしまいますよね。

早速、見ていきましょう🐾
まず、淡島通りと旧滝坂道の分岐あたりの絵図には「タバコヤ」という文字がありますが、たしかに代田中筋バス停を降りた先には昨年までタバコ屋がありました❗️
因みに今はお弁当やさんに変わっていますが、安くてなかなか美味しいですよー。

タバコヤの斜向かいで、今はアパートになっているこの場所には「バス停」があったようです。
これはいまの東急バスではなく、大正時代に渋谷〜世田谷役場間を繋ぎ、後にそこから経堂まで延びた乗合バス時代のもの。
因みにこちらのバス停名は代田(本村)。

タバコヤの先は「駄菓子屋」「床屋」「米屋」などが左右に並んでいたようですが、、見ての通りすっかりあっさりと住宅街に様変わりしています。
ただし、写真左手の土建屋は当時、右手にあった「ケンザイヤ」に当たるのかもしれません。

続く「瓦ヤ」「下駄ヤ」「食堂」「米ヤ」、、等々の店も失われていますが、「ブリキヤ」は、板金屋さんとして、どうやらこの場所で変わらずお店を続けているようです👀
…というわけで最初に見つけたお店がまさかの「ブリキヤ」だったとは❗️❗️意外すぎましたっ。

その先、今の環七周辺の旧区役所(役場)方向に目を向けていきますっ👀
右側から、「とうふや」「床ヤ」「古着屋」に「鯛焼ヤ」「石ヤ」に「炭ヤ」、、、と、なんだか懐かしすぎる店名が並ぶものの、もちろん今、そこには跡形もありません。

このあたりには「マージャン」「玉突き」があったようですが、生活必需品ばかりか娯楽に至るまで、この商店街だけで一生不便なく生きていけそうですね。

で、その建物跡をよく見ると、、👀

確かに入り口からして、いかにも昔の遊興店の雰囲気が漂っていましたよっ🤭

そのとなりの「ガラスヤ」も健在ですね❗️
、、と、なんだか思った以上に、この散策が楽しいことに気付きましたっ😆

オリンピックに合わせて昭和39年に開通した環状7号線と出合います。
商店街は道路を越えて、まっすぐ先まで続いていますが、いまは若林陸橋まで回り道をしないと渡ることが出来ないようです。
なんだか分厚い壁に当たったような気分ですが、戦後、この滝坂道商店街が消えた理由がすこしだけわかったような気がしました。
それは、区役所移転とあわせて、戦後高度成長の大規模なインフラ開発で、若林と梅ヶ丘あたりの古くからの商店街を通じた繋がりが分断されて、すべてが希薄になったせいでもあるんじゃないかな…と🤔
ま、よくある都会らしい決着のつけ方ですが、やっぱりさみしい限りなのです。

そんなむかしの区役所(役場)は、若林陸橋横の家電店の場所に建っていたようです。
続きは次回に。。🐾