貝が不精中💤のため、今回もぶらぶら歩きの途中に道端で見つけた石のはなしをしたいと思います。。。🐌
ここは井の頭線 池ノ上駅から渋谷側へと線路沿いに続く道の曲がり角。。。
この場所には、ずいぶん前から使われなくなった会計監査院の官舎群が未だに残っているのですが、その一角の草むらで気になる石を、またもや見つけてしまいました。
フェンスに挟まれて見えにくいものの、「帝大」とクセのある書体で刻まれている、なかなか立派な花崗岩の境界標石のようです。。👀
おまけにそのすぐ背後にも別の帝大標石が立っていました。
書体は花崗岩の標石と似ていますが、こっちは細長いコンクリート製で、外観はなんだか鉄道と関わりがありそうな雰囲気ですね。
で、他にもないか🕵️❓❓
と、線路沿いの坂道を池ノ上駅側へと辿っていけば、その先にも、コンクリート製の帝大標石がアタマだけ出ていました。
さらに坂を下るともうひとつを発見しました👀
やはり、これらの標石が井の頭線との境界に設置されているのは確かなようですが、こうたくさん並べられると、なんだか帝大ブランドで縄張りを誇示しているかのように見えてきますね。。
ちなみに現在の東大の敷地境界は、線路向こうの、あの森のあたりから。
とすると、、🤔
むかしの帝大の敷地は線路を跨いで、こちら側にも拡がっていたとしか考えられません。
でも調べたくとも、そこは今じゃジャングルのような官舎跡で、立ち入り禁止なんですよね…💧
ひとまず、ここまでを地図に落としてみると、帝大標石とこの官舎跡の土地の境がぴったり当てはまっているのは間違いなさそうです。
おまけに、官舎跡地の形状もそこだけが飛び出たような、なんだか不思議なかたちをしていますね。。
以前に渋谷の住宅地で見つけた古い帝大標石が、かつての帝大農学部の正門跡地と三田用水路の境にあったことをブログ記事➡︎渋谷 帝国大学農学部と境界標石 - マイmy巷話 に書いたことがあるのですが、今回も興味を覚えて、標石と土地のつながりをちょっと調べてみたくなりました。
まずは大正期初めの帝大農学部の敷地図で、この場所を確かめてみることにします👀
当時、まわりは広い畑のようですが、旧官舎の敷地部分はこの頃から不自然に突出していることがわかりました。
つまり、この形状が発生したのは、それ以前からのようですね。
続けて大正5年の古地図を見て、やっとヒントを見つけました💡
どうやら、ここは、ふたつの水路の出合いらしく、三角橋から北澤川まで引かれた三田用水の分水路と、帝国大学農学部の農場からの水路に挟まれた三角地帯のようです。
ちなみに三田用水とは玉川用水の分水路で、そこから更に遠くの地域の灌漑用途に造られたのが、この分水路。
おそらく江戸時代から使われていたのではないでしょうか。。
また、もう一方の帝大農場からの水路は、山手台地上に広がる農場の斜面を低地へと流していることから、なにか人為的な感じがします。
当時、南東側に下がった場所に練兵場があったことから、水害対策で明治期以降に造られた排水溝なのかもしれません。
で、、そんなこんなのいきさつから、帝大がこの尖った土地を管理を兼ねて所有するなりゆきになったんじゃないか、、と思い至ったわけなのです💡
そんなことを踏まえて、標石が並んだ線路を再度眺めると、、👀
お馴染みの駅前のきつい坂道は、三田用水の分水路(暗渠)を基点にV字に伸びた谷に見えてきました❗️
春には線路沿いを菜の花が咲く、そこそこに有名なこの駅の高い築堤は、じつは、この谷を埋めるために造られたものだったんですね。。
最後に戦後間もない昭和21年の地図でおさらいをしてみると、、👀
確かに井の頭線は、標石の部分で帝大農場の尖った土地を分断しているかのような配線なんですね❗️
ただし、井の頭線が開通した昭和8年にはすでに帝大農学部は本郷に移転計画が進行していたため、終戦間際は農場だけが残っていたようです。
ちなみに新しい本郷のキャンパスは昭和20年に戦災で全焼して、その4年が過ぎて新制の東京大学が発足したらしいので、鉄道開通で設置をされた帝大時代の境界標石の役割は、実はほんのわずかな期間のみだったんですね。。
ついでに線路向こうの駒場側にも回って、三田用水分水路(暗渠)沿いを続く、東大の境界を歩いてみたところ、境界標と刻まれた、長細い石の柱が六基並んでいました。
石の質から戦後のもののようですが、集中して立っているのは、もしかすると戦後のどさくさに、勝手に入って、畑にするヒトがいたのかもしれませんねっ。
こうして、今回も、100年近くを置き去りにされた道端の石と謎のかたちの土地のつながりには、やっぱり水路が絡んでいたことをひとり結論づけて、仕事から帰途についたわけなのです笑