散歩ついでに街角で見つけた石のはなしが思ったよりも長くなってしまいましたが、これでお仕舞いにしますね…🐌
目黒の住宅街で見つけた戦前に建てられた境界標石。。
そうっ👆
そして、これが昭和10年の住宅図。
目黒の住宅街で見つけた戦前に建てられた境界標石。。
「田中」と個人名が刻まれた石は立派な白ミカゲのようですが、なんだか見ればみるほどこの風情って近所のアレと似てるような…🤔
そうっ👆
アレとは池尻に残る駒沢練兵場の陸軍境界石。
道端に建ってるだけなのに、なんだかただモノじゃないオーラが似てる気がしませんか?
そんな田中さんの境界標石なのですが、一体どんな方だったんでしょうね。。
余計なお世話なんですが😅、、
ちょっと調べてみたくなりまして、地元の法務局で100年以上前の旧土地台帳からざっと辿ってみたところ、意外にもこの地番に当たる所有者には歴史のなかでその名を残す人物が何人もいるものの、残念ながら田中さんの名前は見当たりません。
そこで、大正11年に土地所有者だった実業家の望月軍四郎が山林を開墾した記述をヒントに、その後田中さんは移り住んだと仮定して、当時の住宅地図から探してみることにしました。
因みに昭和のはじめは関東大震災で罹災した人らが地盤の固い目黒や世田谷に移り住んだ時期にちょうど当たります。
そして、これが昭和10年の住宅図。
で、ありましたっ👀
🔴の2つの標石が建つ場所に「田中大太郎」さんのお名前を見つけました!
やはり田中さんは90年前のこの場所に確かに住んでいたんですねー。
再び余計なお世話なんですが😅、、
携帯片手にどんな方か?と調べたのですが、またもや名前が見当たらず。
90年前の地図に氏名が載るなら、社会的に地位のある方のはずなんですけどね🤔
そこで、この土地がいつ田中さんに文筆されたのか?を旧土地台帳から探ってみることにしたのです。
文筆とは今回法務局で学んだのですが、ある土地を登記上に分割する手続きを表す不動産用語。
語源はさておき、チョンマゲ時代からなんだかそのまま使われている言葉…ではないかと思われます。
昭和10年の地図で田中さんが住んでいたことはわかったので、それ以前に文筆した記録を土地の地番から調べて、新たな地番の台帳を見れば良いというわけですねっ👆
因みに地番というのも、番地とは違う不動産語でややこしいのですが…
そして、旧土地台帳の記録からわかったことをざっとまとめてみました📖
●大正10年からの所有者で実業家の望月軍四郎が昭和2年にこの土地を文筆して新たな地番が登記されている
●昭和3年に文筆された地番の土地所有権が田中◯に移転。
●昭和5年に開墾。山林から宅地へと変わり地価も大きく修正されている。
このことから、90年前に自分の土地に立派な境界標石を建てた方は、昭和10年の古地図に記載された田中大太郎さんではなく、その5年前に土地台帳に登記された「田中◯」さんではないかと思われます。
両者はおそらく親族だとは思いますが…。
敢えて名前を伏せたのは、調べると幾人かの同姓同名が存在するため、特定することができなかったからなのです。
それでもヒント💡として、
●昭和5年に目黒へ転居してくる以前の住所が渋谷駅前の渋谷警察署に隣接する住宅地で当時の庶民には手軽に住めない場所だということ。
●個人の標石とはいえ、材質やサイズまでも陸軍標石に似た作りだということ。
おまけに当時の世相を考えて、周りに忖度せず自宅に建てることができた意味。
●敷地が大通りに面して四周を囲まれた立派な屋敷構えだったと古地図からわかること。
…を踏まえて、そのなかのひとりに陸軍のトップ階級の名前があるため、その方かな⁉️と思ったりもしていますが🤔
🐾
🐾
結局、街で見つけた西郷標石や田中標石の人物を探し当てるまでには至りませんでしたが、この土地を深く調べるほど明治から続く時代の功労者の名前(詳しく書けませんでしたが浜口陽三のアトリエも!)が古い土地台帳に次々と現れては消えていくことを目の当たりにできて、なかなか貴重な体験だったと思っています。
100年以上前の色褪せた冊子がオタクな散歩好きに、地元の土地に埋もれた歴史の断片を今回こっそり教えてくれたのかもしれませんが笑