先日、世田谷区のある施設の片隅に展示されていた一枚の古写真を見て、気づいたはなしをしてみたいと思います。
まずはそんな昭和前期の古写真がこちら👆
こんもり茂った小山の前に人が大勢写っているこの一枚なのですが、説明には下北沢の鎮守様で北澤八幡宮の場所名が書かれていました。
が、、
日頃から小さな歴史を探して周りをぶらぶら🐾していることもあり、見れば見るほどこの場所は八幡宮ではなく、お隣の森厳寺ではないかと思いはじめたのです。
とすると、、背景の小山は江戸時代に作られた築山、「森厳寺の富士塚」ではないでしょうか❓❓
森厳寺富士塚は明治の古地図でも針山のような記号であらわされているように、その存在は江戸時代から広く知られていました。
その後、平成になってお寺の墓地整備で切り崩されたようですが、もし写真が富士塚ならば、地域の史蹟の貴重な記録写真が広い部屋の隅に、、おまけに場所名まで間違えて紹介されていてもよいのかな、、と💧
とはいえ、早合点をする前に、写真を拡大してみて、ここがお寺だということを確かめてみることにしました🔍
●周りにはたくさんの卒塔婆
●お坊さんが何人も並んでいる
●中央の石碑には南無阿弥陀仏の文字
森厳寺は南無阿弥陀仏の浄土宗派ですから確かに合ってますね!
そして、大震火災亡霊云々、、と書かれた札があることから、おそらくこの写真は書かれた年から考えると関東大震災の17回忌あたりの供養を下北沢の町の人らで行った際の集合写真ではないでしょうか。。
また、窪地に人が何人も立ったり座ったりしている場所は、塚が切り崩される前に世田谷区教育委員会が2007年に行った発掘調査の記録にある、戦時中に作られた2つの防空壕のうちのひとつで南側防空壕のような気がするし。。🤔
そんな富士塚だと思わせる最大のヒントが、目玉のような不思議な記号が描かれた旗ではないでしょうか。
これは今でいえば、
「江戸っ子イチオシ❗️富士講主催 大人気の日帰り富士塚ツアー」
で添乗員が使った旗に近いのかなっ笑
江戸末期、森厳寺の富士塚には講という組織の旗(マネキ)に導かれて多くの江戸っ子が押し寄せたらしいのです。
訪れた富士講中は塚にマネキを立ててから、富士詣ででひと登りをした後、門前の茶屋で一服をしたのだとか。。🍵
そんな習俗がこの昭和初期の写真を見るとまだ残っていたのかもしれませんね。
この森厳寺は徳川家康の次男の位牌所として、いまから400年以上前に創建された徳川家ゆかりの名刹なのです。
お寺とともに長い歴史を共にしてきた大銀杏は、毎年秋になると辺り一面を見事な金色の世界に変えてしまうようなとっても素敵な場所だったりするんですよね。。
かつての境内には作庭された池や築山などが、徳川家の法事に訪れる諸大名らの目を楽しませていたようですが、江戸末期に地元の富士講からの念願で築山は富士山へと様変わりをしたようです。
その大きさは高さ10m幅20mほどと、なかなか立派な富士山🗻だったとか。。
そんな富士塚は周囲で保存の要望もあったようですが、2007年に整備されて、現在はこのような景色に変わっています。
お寺とは思えない白が際立つモダンな建物は富士を見立てているのかな。。
…と真実はともあれ、出先で目にした古写真からいろんなことを今回も勝手に読み取ってしまいましたね💧💧
しかし、あの写真はもう少し大事にしてほしいものです😑
今度あの施設の人に話してみようかな。。
☆森厳寺富士塚の発掘調査記録は世田谷区の図書館で閲覧することができます。