生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

拘束と制約と自由度

2010年02月10日 15時17分08秒 | 生命生物生活哲学
拘束と制約と自由度
入れ子構造とレベル構造

 鍵語句文:
 ・制御における自由度と物的構造(=単位体間の空間的配置関係。ただし万物流転であるから、この空間的配置は時間とともに変化するのがふつうである)
 ・上位からの(作用的などの)制限 limitまたは条件づけ conditioningとしての制約 consraints
 ・(質料性あるいは下位の組織的性質などの)下位からの条件づけとしての拘束
 ・上位構築物が成立することの可能性、必要条件と十分条件
 ・山元皓二.1985.6.階層理論に基づく生物の進化:前進的進化へのアプローチ.リサイクルジャーナル社.[ISBN無し]

 まず、山元『階層理論に基づく生物の進化』から、いくつかを引用する。

 「要素が集合して一つの新しい準位〔英語ではたぶんlevelだろう〕を作るときに要素の間に働きあい空間的・時間的に互いを制限しつつ結びあう相互の作用を拘束(constraint)と表現する。」(山元皓二 1985: 61-62頁)。
 「入籠型構造は一つの準位が再び要素となり上位の準位を形成するものである以上、要素間に存在する拘束にとどまらず上位の準位の含まれることが原因となって要素の存在様式に影響(効果)が生じてくることも考えに入れなければならない。」(山元 1985: 62-63頁)。
 〔上位の要素や直近下位の拘束を〕「破壊することなくその〔=直近下位の存在者の〕存在様式に変化を加える効果を……限定(Determinant)と呼ぶことにする」(山元 1985: 62-63頁)。

検証

2010年02月10日 15時15分41秒 | 生命生物生活哲学
検証 test ? confirm? scruitinize?

 「検証する」という新聞やテレビで使われる語は、『調査検討する examine』と『確証する』という二つの行為(人の作用)の片方または両方が適当に使い分けられている。厳密で精確な議論をするためには、少なくとも語の意味または使用法が明瞭であることが基本である。(結局、マスコミが「検証」を使うのは、検証の結果内容の報告は価値があると受け取られるのを狙ってのことだろう。しかし、科学的な試験をすることはごくまれ。)

 ゆえに、ここでは試験 testと確証 confirmation(「証」は証明という語を連想させて誤解を受けそうなので、確認とするほうが良いと思うが、科学哲学での訳語の多数事例にしたがっておく)という語を使うことにする。
 反証 falsificationによって、或る理論が科学か科学でないかの区別に用いることは、理論というものの構成から(つまりいくつかの命題が組み合わされているものという定義から)、そして科学的試験という実践的測定の本質的条件(たとえば温度を測るということは測定器具についての理論(の妥当性)を前提としている)から、立論の不備そのものから成功しないことは定まっていたと言える。しかし、とんでもないと受け取られかねない考えが、いずれ否定者が多数派となろうとも、議論の本質の解明の役立ったとか活発にさせたということはよくあることである。
 或る解釈、つまり具体例への適用は、自由である。それゆえ((論理的な)rigorismでわれは行く、ので、「なので」はまずこのblogでは引用以外には使わない)、理論は形式や考え方を保存して(上位理論にしたてる)、解釈としては(下位理論にしたてる)換骨奪胎やらをして復活ということは、ときにあり得る。また、革新的理論は、つまりわれわれの意識圏を拡大するような、あるいは、より妥当な捉え方をもたらすような(と後に判明する(とされる))理論は、……〔なんだったっけ?、思考があちこちに行ってしまって、忘れた〕。

 東洋医学での、実証とはなんだろうか?
 論理実証主義でのverificationは検証と訳されていた。近年では、立証がふさわしい(文献:小河原誠が関係する本だったと思う→調べること)とする場合がある。「仮説を検証する」という日本語は、test a hypothesisなのかverify a hypothesisのどちらなのかがわからない。

歴史的制約(=自由度の種類と程度)

2010年02月10日 15時14分07秒 | 美術/絵画
歴史的制約(=自由度の種類と程度)

  「歴史とは断絶を含みつつも相互に連関した一つの過程である、というヴェルフリンの洞察は、ダントー〔Danto ダントゥ?〕の歴史観よりもおそらく歴史の実態に近い。」(小田部 2009: 242頁)。

 歴史の実態なるものは存在するのか? 「実態」で何を意味しているのか? どのようにしたら『実態』についての主張(仮説)を立てることができ、実態に照らして主張を試験 testできるのか? 
 人が脳の構築的空間において存在させるだけのことではないのか? そもそも歴史とは記述ないしは主張において仮構するにとどまるものではないのか? 批評空間では強力に言ったもの勝ち以外にはないのではないか? もし、たとえば或る絵画作品を『説明する explain』ということがあるとして、ではどのようにして説明力や説明の成功度を測定するのか?

  「ヴェルフリンはここにおいて、歴史を(複数の断絶した)単線として捉える代わりに複線として捉える可能性を示している」

 ここでの線という単位は、何を(物または事として)指しているのか? 線の絡み合い(の記述の様式または精度)によって、どんな単位とするのかも異なってくるだろう。

作用者=実在者(1)

2010年02月10日 15時13分11秒 | 生命生物生活哲学
作用者=実在者(1)

 力学的世界観からすれば、なんらかの作用をすることが検出されたならば、それは実在するものであろう。つまり、作用者=実在者、 = real entity
 動力的原因について分類すれば、そして物質的個体化すれば、それは実在者である。
 四大 four elementsは作用または働きの仕方(したがってその結果)の種類の大分類であろう(未検討。思いつきが大事)。ではその一つである〈風〉とは何か?
 課題:力学的世界観の本質的なしいは実効的捉え方の核心は何か?。

○△□と●▲■:外郭線と内部塗り(平面絵画の場合)

2010年02月10日 10時57分06秒 | 美術/絵画
◆ ○△□と●▲■:外郭線と内部塗り(平面絵画の場合)

 人が輪郭を検出することは、物体( (material) body。なお、objectは概念的対象を含んだ広義の対象として用いることにする)または物(thing: Mahner & Bunge 1997, Bunge 2003での意味)の密度の差にもとづいたものだろう。気体中または液体中に個体的固体が位置している(存在している)という経験は、日常的である。氷(固体)の中に、気体状態や液体状態の物体が存在していることも通常のことであるが、人はあまり気にしない。とりわけ気体は視覚的に認識することが困難である(触覚的には、たとえば風圧として認識するかもしれない)。
 物または物体としてそこに存在している。立体作品の場合は、おそらくわれわれの視覚的学習から、それは実在していると受け取る。そして実際、近づいて触ったり、叩いて壊してみたりするかもしれない。
 平面的絵画の場合、(なんらかの技法が使われていて)立体的に感じられる球体は描かれてるのであって、存在感は鑑賞者が仮構する。描かれた球体は人の内部に(脳内に?、心象として?)存在する。絵具や支持体に存在するわけではない。あくまで、視覚的な契機である。それは伝達として捉えることもできよう。ただし、その伝達内容はどのような種類の物体であるか、といったことになる。抽象絵画(の一部)は、そのような伝達機能を使わない(むろん使っても自由である)。
 輪郭的な描線だけの場合と、輪郭内部を(たとえば真っ黒に)塗りつぶす場合とを比較してみよう。たとえば、○と●である。
 実際に樫材の球体が、平面台に置かれているとしよう。それは、物としてそこに存在している。立体作品は、実在するものとして存在感があるだろう。ここでむろん、「存在感がある」という述語は(実はいかなる述語もシステム主義からすれば)、対象(の性質なるもの)と主体(の知覚装置の性質)と環境の相互作用関係という三項述語である。もっと精確には、三項述語と捉えるべきではなく、或る(時々刻々と変異する)作用圏におけるシステム述語である。
 小腹が空いたので、休憩。
 要は、実在的だと感じられる表現物の種類と程度を分類し、それらの分類カテゴリーごとに製作および展示について分析せよ、ということ。(これにて散開。)

輪郭(外郭)・表面・平面内部・立体(物)内部・抽象絵画

2010年02月10日 10時56分25秒 | 美術/絵画
■ 輪郭(外郭)・表面・平面内部・立体(物)内部・抽象絵画

 たとえば、円だと受け取れる閉じた線がかかれている。実在物ならば、円盤の輪郭か球体の輪郭だと受け取る。人は輪郭(外郭 outline)の検出に鋭敏である(その脳細胞的な基礎は、垂直、水平、45度の線に反応するコラム細胞の関わるシステムに求められる?)。
 平面図形の輪郭の内部とはなにものか? 人が輪郭によって対象を認識する場合、その輪郭内部をどう処理するか(たとえば一様に塗る)によって、物として実在するか(real)どうかの感じ方が異なるだろう。抽象絵画の場合、物的実在感(reality)ではなく、感情的現実感(reality)を表現しようとしているかもしれない。あるいは、絵具自身によって作られる直接的存在感かもしれない。