「沖縄旅行記は2日目から始まる(その4)」のつづきは、沖縄のシンボルともいってもよいのではないかと思う首里城の訪問記です。
上の写真は、帰り際、17:52
に撮ったもので、もう観光客は少なめですが、この1時間前には、もう夕方だというのにかなりの人出でした(中国人観光客の声がデカイ
)。
写真やTVなどでは何度も見ていたこの首里城正殿と御庭(うなー)、第一印象は、「思ったよりこぢんまりしている」というものでした。
もっとも、これは「カメラのマジック」に欺されていただけのようで、これまでも、国立霞ヶ丘競技場とか、北京の故宮・太和殿とか、同じ印象でした。
北京の故宮を例えに使ったついでに書けば、故宮・太和殿の階段の真ん中は浮彫が施されたスロープになっていて、階段を昇ろうとすると、真ん中を避けて歩かなければなりません。
どうしてこんな造りになっているのかというと、この「浮彫が施されたスロープ」は皇帝のためだけのスペースで、皇帝は、左右の階段を昇る従者たちに支えられた輿に乗ってこのスロープの上を通ったのだとか。
一方の首里城正殿前の御庭の真ん中に、正殿に続く「赤い道」があります。これは、こちらの説明によれば、
中央の道を「浮道(うきみち)」といい、国王や中国皇帝の使者【冊封使(さっぽうし)】等限られた人だけが通ることを許された。
ということで、似た発想です。
さて、久しぶりに「べつやくメソッド」を使って首里城の感想を表現してみましょうか。
正殿の特徴的な唐破風は、その名とは裏腹に日本風ですが、屋根を飾る龍を始めとした全体のバランスが全然日本と違います
正殿2階の御差床(うさすか=玉座)なんか、まったくもって中国風でした
ちなみに、故宮・乾清宮の玉座がこちら
で、
平城宮の高御座(たかみくら)がこちら
。
ところで、御差床の正面、正殿の大きな破風の下に、琉球王の「椅子」が置かれていました。
琉球王は壁に向かって座り、沈思黙考した…なんてのは冗談で
、説明によりますと、
御差床(うさすか)の正面には御庭(うなー)に面した小部屋があり、正月の儀式の時など、国王が御轎椅(うちゅーい=椅子)に座り御庭に並ぶ諸官の謁見を受けた。
のだとか。
外からこの場所を見るとこんな具合です。
唐破風といい、こうした趣向といい、東大寺大仏殿の観相窓を連想してしまいました。
ついでに書きますと、私があまり好きではないと公言(?)している「唐破風」、その名に反して、日本で鎌倉時代に作られた様式だそうです。
「唐」から来たわけでもないのに「唐破風」とは、天津飯とかナポリタンみたいなものでしょうか?
「日本と違う」といえば、国王の冠(複製:実物の1.2倍大)もかなり独特のものでした。
冠を横に貫く巨大なピン(簪:かんざし)が印象的です。
もっとも、日本の冠も簪で留める仕組みだったようで、右に載せた伝・源頼朝さんが被っている垂纓冠についている棒のようなものが簪です。
私、以前から、どうして冠に菜箸のようなものがついているのだろうかと不思議に思っていましたが、今日になってその秘密(?)を知りました
それはさておき、NHKのドラマ「テンペスト」で見るように琉球王国のお役人さんたちはそろいの帽子を被っています。
この帽子、ハチマキと呼ぶのだそうで(沖縄県立博物館で知りました)、このハチマキの色や柄で、お役人さんの官位が一目瞭然になっていたのだとか(Wikipediaをご参照方)。
また、どうしてハチマキなのかといいますと、現物を見ますと、確かに布がグルグル巻かれた構造になっています(ただし、てっぺんはふさがっていて、帽子状です)。
「ハチマキの歴史」は、「テンペスト」の歴史考証を担当された歴史家・上里隆史さんのブログをご参照くださいませ。
実はこの記事、5月10日(木)にアップするべく書き始めたものなのですが、なかなか時間がとれず、ようやく今日、ここまで書きました。
ですが、なんとなく流れが思う方向とは別に向かっていますので、「その5」はここで終わりにして、心機一転
、「その6」で沖縄旅行2日目を締めることにします。
つづき:2012/05/13 沖縄旅行記は2日目から始まる(その6)