「沖縄旅行記は2日目から始まる(その5)」のつづき、2日目の最終回です。

思い起こせば、去年のゴールデンウィーク、南九州旅行を敢行して、熊本城の壮大な縄張りと石垣に感嘆したものでした(記事はこちら)。

上に載せた熊本城の石垣は、規模の大小はともかく、本土の城としてはなじみ深いものですが、首里城の石垣は(翌日訪問した今帰仁城も)かなり様相を異にしていました。
節々がチョワンと立ち上がっていて(ご理解いただけます?)、その曲線の具合は本土では見られない気がします

石垣もさることながら、この
首里城で実質的に最初の門になる「歓会門」のアーチなんて、ねぇ
(意味不明ですか?)

ところで、「実質的に最初の門」と書きましたが、ここに至るまでには守礼門と、もうひとつの門があります。

この門はしっかりと閉じられて
、観光客の入門を拒んでいます
説明板によりますと、この門は「園比屋武御嶽石門(そのひやん うたき いしもん)」というのだそうで、
石門とその奥の森を園比屋武御嶽といい王府の祈願所であった。石門は神社でいう拝殿にあたるが、本殿に相当する建物はなく、石門の後ろに広がる森がそれにあたるという。
石門の創建は尚真王時代の1519年。1933年には旧国宝に指定されたが沖縄戦で大破。1957年に復元され後に解体修理し1986年に完成した。
石門は竹富島の西塘(にしとう)の作と伝えられる。石材は主に琉球石灰岩を用い板葺唐破風屋根を表す。屋根の飾りなどに日本と中国の様式を合わせて用いた沖縄独特の優れた石造建築である。
とのこと(句点、句読点を補足しました)。
本殿に相当する建物がなく、森や山が礼拝の対象となるケースは、日本本土では珍しい話ではありません。自然そのものを崇拝するというのは日本に近い感覚なのかもしれません。

首里城、それも正殿前の御庭(うなー)に関して以前から疑問に思っていたことが二つありました。
それは、
①御庭が縞々になっているのはなぜなのか?
②御庭が長方形ではないのはなぜなのか?
ということ。
首里城のリーフレット
から御庭の図を転載しますと、私の疑問をご理解いただけるのではなかろうかと…。
①の縞々は、私が撮った写真から。
この二つの疑問について、展示やリーフレットに答がありました。
まず、①。
公式HPによれば、
年間を通じて様々な儀式が行われた広場である。御庭には磚(せん)【敷き瓦】というタイル状のものが敷かれているが、この色違いの列は、儀式のさいに諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていた。
だそうで、北殿に展示されていたジオラマでその様子を見ることができました。

そういえば、かつて会社の講堂の床が色違いのカーペットで縞々になっていましたっけ…。
それはともかく、クルマ
を走らせていて、道路に描かれた速度注意
を促す朱色の縞々をデコデコ
と通過するたび、首里城の御庭を思い出す私であります。
さて、疑問の②はこれまた北殿にの展示の中に答らしきものがありました。
Q. 「御庭(うなー)」の形は真四角でしょうか?
に対しての答が、
A. 真四角ではなく、変形しています。
このため中央の「浮道(うきみち)」も斜めになっています。もともとは真四角で、建物の増改装のため変形したとの説があります。
「との説があります」というぼんやりした回答が苦しい…
もう一つ、実際に来てみて不思議に思ったことにも答らしきものがありました。
中国にしても、それに倣った日本にしても、宮殿(正殿)は決まって南を向いているものですが、首里城正殿は西を向いて建っています。
これについての答は、
A. 国王は太陽として尊敬されており、東を背にしたので建物が西向きになったとの説があります。
またもや「との説があります」の登場ですが、中国とも違う、日本とも違う沖縄の特質が表れたお話だと思います。

帰ってきてから非常に残念
に思っていることがあります。
それは、首里城の北側を通る道路(龍潭通り)から見上げた首里城の佇まいを写真
に撮ることができなかったこと。
クルマ
を停めるタイミングがなかったためです
龍潭池を挟んで見上げる首里城の朱色の壁と瓦の連なりはなかなかの見ものでした。
もし沖縄にお出かけの際は、このスポットをお見逃しなく


首里城は、沖縄戦で徹底的に破壊
され、戦後は琉球大学のキャンパス
に変わった時期もあったとのこと。
この辺りの経緯は公式HPにも記述があります。
1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。1930年代に大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼した。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後に復元事業が推進され現在に及んでいる。
また、沖縄戦と首里城(とりわけ軍司令部が置かれた地下壕)との関わりについては、琉球新報が1992年に連載した「首里城地下の沖縄戦~32軍司令部壕」がとても参考になります。この連載記事、内容だけでなく、WEB
で読めるということも素晴らしい

さて、現在も復元工事
が行われている首里城、右掖門を抜けて帰ろうとしたとき、

石垣にこんな表示
がありました。

ところが、じっくり見ても
、「復元石積」と「遺構石積」の区別がつきません

良い仕事だと思います
そろそろ「旅行記2日目」も終わりにしたいところですが、これを載せておかねば

真ん中に写っているのはコマ、ではなく
、日影台(にちえいだい)、つまり日時計
です。
このすぐ近くにある「漏刻門(ろうこくもん)」の中にあった漏刻(水時計)による時間管理を補完していたそうです。
北京・故宮でも、太和殿のすぐ前に日時計がありましたっけ…

皇帝・国王が時
を支配するということなのでしょう。
また、日影台の左後方にある四阿のような建物の中には「万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)」のレプリカが吊されています。
重要文化財に指定されている「万国津梁の鐘」の現物
は、この日の午前中に沖縄県立博物館で拝見いたしました。

なんともとりとめのない首里城趾訪問記になってしまいました…
まだまだ紹介したい写真
がたっぷりあるのですが、それらは折に触れて載せたいと思っていますし、獅子(シーサー)たちのコレクションは、後日まとめて載せることにします。
ということで、首里城訪問記っつうか、沖縄旅行2日目のお話はこれにて一巻の終わりです。
いやぁ~、楽しかった

つづき:2012/05/14 沖縄旅行3日目はひたすらドライブ(その1)