新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

帰省ドライブ&観光の2日目は超満足

2015-08-11 23:53:07 | 旅行記

「帰省ドライブ&観光の初日は大満足」のつづき、「帰省ドライブ&観光2日目ダイジェストです。

まず、きょうの旅程から。

ホテル東北道一関IC⇒(花輪SA)⇒小坂IC樹海ライン小坂鉱山事務所康楽館樹海ライン(県道2号・R7)北秋田市・大堤交差点R105北秋田市・諏訪岱交差点R285潟上市・飯塚古開交差点R7秋田市・臨海十字路R13名もない交差点市道実家

走行距離は、一関から小坂までがほぼ全線高速道利用で約190km小坂から実家まではすべて一般道利用で約140km、合計330kmでした。

で、以前からずっと行ってみたかった小坂鉱山事務所ほんんんんんっとうに素敵な建物でした。

まず、駐車場康楽館とも共用で、無料)にクルマを停めて、眺めた小坂鉱山事務所神々しいばかりで大感動

雑誌で見て憧れていた小坂鉱山事務所現物は想像以上に素晴らしい建物でした。

この小坂鉱山事務所、リーフレットから引用しますと(難しい単語が多い・・・)、

明治38年(1905)「旧小坂鉱山事務所」の誕生は、小坂鉱山近代化の歴史に深くかかわっています。
日本鉱業界の父と呼ばれた大島高任や「お雇い外国人」として日本鉱業界をリードしたクルト・ネットーらに支えられ、明治初期の「富国強兵」「殖産興業」に貢献した小坂鉱山。
その流れは、明治17年(1884)に払い下げを受けた藤田組にも引き継がれ、主要鉱山の地位を確立します。明治30年代、土鉱とよばれた鉱石が底をつき沈滞期を迎えていた小坂鉱山に「黒鉱自熔精錬」の成功は、新たな活気をもたらしました。その起死回生にたずさわった技術者たちが、その後の日本鉱業界に大きな影響をおよぼすことになります。
明治38年(1905)年に巨費を投じて豪壮華麗な「旧小坂鉱山事務所」は建設されました。まさに日本一の大鉱山のシンボルでもあったのです。

もともと小坂鉱山事務所は、川を隔てた「仕事エリア」に立っていたそうで、現在の場所は福利厚生エリアの一部で、「小坂鉱山病院が立っていたとのこと。

昔も今もすぐ隣に幼稚園「旧聖園マリア園」こと天使館が、

また、目と鼻の先に劇場「康楽館」が立っているのも宜(むべ)なるかな・・・

ということで、きょうはここまで。

後日(あしたかも・・・)、詳細を書きたいと思っています。

つづき:2015/08/12 小坂町の「近代化産業遺産」に酔いしれた(康楽館編)

コメント
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