新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

小坂町の「近代化産業遺産」に酔いしれた(小坂鉱山事務所編・下)

2015-08-14 15:00:51 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「小坂町の『近代化産業遺産』に酔いしれた(小坂鉱山事務所編・上)」のつづきです。

小坂鉱山事務所の内部は史料館になっていて、小坂鉱山に関連する史料が展示されています。

その中で、私の目を惹いたのはこちら

現在の小坂町の巨大な空撮写真の上に、主要スポットをプロットして、往時の写真と解説が展示されています。

これは面白い

現在と過去を結びつけるにはとても判りやすい展示方法だと思いました

   

 また、小坂鉱山ゆかりの人々の展示は、へぇ~、ほぉ~連発でした。

まず、久原房之助。この方のお名前や業績については、ちょっとだけ知識がありましたが、彼小坂鉱山との関わり、そしてその後を整理するとこうなります。

久原さんは、小坂鉱山のオーナーだった藤田組・創設者の藤田伝三郎の甥(弟の四男)にあたります。大学卒業後、商社の森村組に入社しますが、採掘量の減少経営の危機に瀕していた小坂鉱山に引っ張られ、1897年に28歳にして「所長心得」に就任し(1900年からは所長)、若手技術者を活用して、「日本一の銅山」を基礎をつくりました。
ところが、1905年に藤田組を退社して(こちらの記事によれば「経営陣の内紛」が原因らしい)、新たな事業に乗り出します。それが、「久原鉱業日立鉱山」、現在の日立グループ日鉱グループ(現JX日鉱日石金属)の源です。

久原さんが小坂鉱山の再興に活用した「若手技術者」というのが、1897年に藤田組大森鉱山から精鉱課長として小坂鉱山に赴任してきた武田恭作1899年に小坂鉱山に配属された竹内雅彦1900年に藤田組に入社し電気主任技師として小坂鉱山に配属された小平(おだいら)浪平地元出身の米沢万陸青山隆太郎といった1867~1874年生まれの久原さん(1869年生)と同世代の若い技術者たち。


(移築前の小坂鉱山事務所正面に位置していた旧電練場の妻壁)

彼らの活躍によって小坂鉱山は息を吹き返した、というより輝き始めたわけですが、その後の彼らの経歴をみると、小平さんは1904年に藤田組を退社して1906年に久原鉱業所日立鉱山に入社し、1911年に久原鉱業の機械工場として日立製作所を設立、また、竹内さんと青山さんは1907年に、米沢さんは1911年にそれぞれ久原鉱業所日立鉱山に転職しています。

つまり、久原さんは、久原鉱業日立鉱山を興すと、気心の知れた技術者たちを呼び寄せて、藤田組の軛(くびき)から逃れた新天地での発展を期したわけですな。
彼らが去ったあとも小坂鉱山1990年まで「鉱山」であり続け、現在は製錬技術を生かして「都市鉱山」に変身を遂げていますから、久原さんは小坂鉱山の土台ができたことを確信した上での「引き抜き」だったのだろうなと思います。

さて、久原さん第一次世界大戦後の恐慌関東大震災などによる久原鉱業の経営危機と自身の病気を機に、一気にビジネスに対する情熱を失い1928年に久原鉱業の経営を親戚筋に譲りました。

この親戚筋というのが、最初の妻の兄、つまり義兄鮎川義介(あいかわ よしすけ)。
すでに1911年から戸畑鋳物(現在の日立金属日産自動車のルーツでもある)を創業・経営していた鮎川さんは、久原鉱業の社長に就任すると、同社を日本産業㈱を持ち株会社とする日産コンツェルンをつくり、その後、「連れ子」のような戸畑鋳物日産自動車もそのスジにつなげます。

藤田伝三郎久原房之助鮎川義介と、血族・姻族のつながりが織りなす「日産・日立グループ」の歴史を小坂鉱山をきっかけとして調べることになるとは思いもよりませんでした。

   

かなり退屈な話になったかもしれませんので、小坂鉱山事務所の外に出てみましょう。

門柱の傍らには、こんな「六角堂」が立っていました。

「門鑑詰所」という、判るような判らないようなこの建物は、説明板によりますと、

小坂鉱山内の各現場には、門鑑(守衛)の詰所があり、出入りする職員や来客を厳重に管理した。(中略)当初の詰所はどこも同じ形で、六角形の特徴的な建物だった。
この建物は、小坂鉱山事務所復原にあたり、正門脇に置かれていた門鑑詰所を模築。最盛期の小坂鉱山の情景を再現したものである。

だそうです。

ホワイトカラーの牙城を強調しているかのような白基調小坂鉱山事務所とは色遣いがまるで違いますが、てっぺんのトンガリは、小坂鉱山事務所の寄棟のてっぺんのトンガリと意匠を合わせていて、なかなかの調和を見せていると思います

ところで、小坂鉱山事務所2階にはレストランがありまして、私はこちらで昼食を摂りました。

なんというか、普通の洋食屋さんでした。

   

 当日の記事「帰省ドライブ&観光の2日目は超満足」に書きましたように、小坂鉱山事務所から明治百年通りを隔てた向かい側には、天使館(旧聖園マリア園)が立っています。

町のHPを転載しますと、

聖園マリア園は、昭和6年(1931)、小坂鉱山の協力を得た聖心愛子会が、鉱山従業員の子どもたちの保育を目的として設置した幼児教育施設でした。最初は銀山町にあった古い建物を改造して開設しましたが、昭和7年に待望の新園舎が建設されます。それが、現在の「天使館」です。
この保育園が聖園マリア園とよばれるようになったのは、昭和15年(1940)頃のことで、それまでは「聖園天使園」という名前でした。昭和50年(1975)の社会福祉法人こばと会への経営譲渡後は「小坂マリア園」と名称を変更。天使館は、平成4年(1992)に新園舎へ移転するまで使われました。
建物は木造平屋建で、キリスト教に基づいた保育園にふさわしく、西洋風の外観をしています。下見板張りの外壁、縦長の上げ下げ窓、屋根の上の棟飾等、小坂鉱山事務所や康楽館にも負けないデザインが特徴的です。

だそうです。

あみだくじのような窓の桟のデザインが良いなぁ

玄関もgood

前にも書きましたように、現在、小坂鉱山事務所が立っている場所には、小坂鉱山病院がありました。

小坂鉱山病院は、1908の築(小坂鉱山事務所3年後康楽館2年前)で、写真を見たり、唯一残る「旧小坂鉱山病院 記念棟」から想像するに、白い下見板張りの2階建てで、小坂鉱山事務所と同様、ルネサンス風の外観だったようです。

この病院は、残念ながら1949年焼失してしまったそうで、再建された病院も1997年に閉院し、翌年には解体されてしまった由。再建された病院がどのような建物だったのか知ることはできませんでしたが、1932年から1949年までの16年間聖園天使園小坂鉱山病院がどのようなコラボレーションを繰り広げていたのでしょうかねぇ~

   

小坂鉱山事務所・康楽館からの帰り道、ちょっとだけ遠回りして、かつて繁栄を誇ったという小樽部商店街を通りました。

大

営業してる様子が窺えるお店は数店のみで、ひとけは無く、ほとんど映画のオープンセットのような状態でした。

最盛期には3万人はいたのではないかと推察されるという小坂町の人口は、いまや5,500人と聞きます。

衰退の一途、、、かと思いきや、前記のように、小坂「都市鉱山」最前線の町として一部から注目を集めています。

電子機器の基盤携帯電話ハイブリッド車などの「廃品」から、、さらにはガリウムインジウムなどのレアメタルを回収して再利用可能になるまで純度を高める技術は、過去からの遺産として引き継がれているといいます。

この小さな町が、日本の未来の一翼(のかけらかもしれないけれど)を担っていることを感じつつ、実家へとクルマを走らせたのでありました。

コメント (3)
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